Ⅵ(後)

「我らの種族の起こりは、知っているかね」

 決して大きくないドルデゥールの声は、けれど下手に荒げた声よりもずっと聞き取りやすかったし、何より心地よかった。


「詳しくは知りません。貴方達が千年前、この洞窟に何らかの理由で逃げ込み、それからずっとこの土地を統べ続けている。その程度の事しか」

「逃げ込んだ、か。そう、逃げ込んだのだ。圧政と暴力、憎悪と殺意の奔流から逃れて」

 

 ドルデゥールの眼は、不思議だった。彼の眼は今を見ているようで、過去を見通している。しかし過去に囚われている訳ではなく、その眼にはどこかへの活力に溢れている。


「千年前の我らが祖先の体は、ここまで君達と違わなかった、という話は?」

「聞いています。千年に及ぶ地底での生活で、この環境に体が適応しようと進化し、今のような姿になったと」

「進化。それは少し違うな。いや違わないが、全てではない。千年程度の進化では、ここまでの体の変化は起きんよ」


「では、どうして」

「呪いだよ。我らが種は呪われて、時と共にこの姿に変貌した」

 

 予想もしていなかった返答に思わず口を詰まらせる。その様子を見たドルデゥールが、乾いた笑い声を上げた。


「冗談と思うかね? しかし違う。何せ千年も前の話だ。遍く自然の全てに聖霊が宿っていると考え、闇を照らすのには明かりではなく勇気が必要だとされた時代なのだ。呪いの一つや二つ、あってもおかしくはない」それに、と彼は続ける。「今でも呪いはある。御伽噺のように火や光を無から出すようなものではないが、過度な思念は体の調子に影響を及ぼし、それを向けられれば肉体だけでなく精神にも歪みを感じ、生死にすら関わる。それはある種、呪いのようなものではないかね」

 

 彼の問いかけに僕は咄嗟に答えられない。辛うじて発せられたのは拙い疑問だった。

「そうだとして、なぜ貴方達の祖先は呪われ、この洞窟に逃げ込む事となったのです。それ程の恨みを、どうして受ける事となったのです」

「戦いだよ」

 

 淡々とドルデゥールは告げる。

「戦いだ。かつて我らが祖先が生きていた地は東方からの騎馬民族に占領されようとした時があった。かつてこの地に生きていた者達の内多くの者がそれに反抗しようとした。当然だ。自らの住処を奪い、平穏を壊そうとする者を退ける。至って普通で当然の行為。しかし当時のその地には、その普通の行いを阻むものがあった」

 

 心なしか、杖の握りを掴むドルデゥールの手に込められた力が強くなった気がした。


「その地には疫病が蔓延しようとしていたのだ。既に少なくない数の人間が疫病に侵され、衰弱していた。それだけではない。侵された人間がいるという事は、その者から更にその病は拡大していくという事だ。これから勇猛果敢な騎馬民族と戦うというのに、そのままでは戦えない人間がいるどころか、さらに増えていくというのだ。それは防がねばならない事態だった。何としても。そう」何としても。ドルデゥールは繰り返した。「そして当時の騎馬民族への反抗を声高に訴えた者達が取った行動は至って単純だった。彼らはこれ以上の疫病の蔓延を防ぐ為、既に病に侵されていた者達を殺そうとしたのだ。そしてそれには当然、床に伏せた者達の親や親しい者達が反抗する。そしてそれを戦いを主張する者達は許さない。少しの犠牲で多くの命が助かるのなら、その道を選ぶべきだとな」

 

 それはドルデゥールが言う様に、互いの主張が互いの立場にとって当然の物であるがゆえに、その果てに起こる争いすらも当然の事だった。


「そして争いは起きた。しかし病で衰弱する者達とそれを守る少数派の親族達と、自らの故郷を守ろうと立ち上がった大多数の者達とでは、争いにもならない。一方的な蹂躙だ。しまいには騎馬民族の襲撃すらも、病にかかった者達が引き起こした事だと決めつけられ、悪霊退散と称して怪しげな呪いすらかけられたという」


「そんな」思わず絶句する。「病と襲撃に因果関係なんてあるはずがない!」


「道理はそうでも、追い詰められた者の思考には道理などというものが入り込む余地は無い。ただ何かの所為に出来るなら、それで良かったのだろう。それで何も事態は好転しないとしても」

 

 ドルデゥールは続ける。


「迫害され、忌み嫌われ、呪われ、疎まれた彼らは、遂にその地から抜け出し、長い流浪の旅の末この洞窟に身を隠す事にした。広く、特殊な生態系を維持していたこの洞窟は、始めはただ身を隠す為の場所に過ぎなかったが、やがてこの地は安息の地となり、安住の地となり、認識の変化に合わせて我らの種の体も変容を続け、そしていつしか、我らの種は、空を見る事の出来ぬ、この洞窟でしか生きられない種族となったのだ」

 

 翡翠色の鱗に覆われた肌は、表情の微細な変化が読み取りづらい。それでも、今のドルデゥールが苦渋の表情を浮かべているのは分かった。


「しかし、この洞窟という閉鎖的な環境での生活は、いつの時代も決して安寧に満ちたものではなかった。そしてそれは今も変わらない。食料や資源の生産量と村の人口は辛うじて帳尻があっているに過ぎない。碌な備蓄も無く、少しの不作がそのまま存続の危機に繋がる。君達からすれば喉から手が出るほどの価値を持つ鉱物資源も、この洞窟から出ることの無い我らからすれば不必要極まりないのだ。いっそ石ころでも食べて生きる様に進化していれば良かったのだが、そんな夢想も無意味だ」

 

 彼が語るのは、ただただ現実だった。僕の幼い夢見がちの論理と違う、ただただ現実を見据えた言葉だった。


「我らの生活には余裕がない。余裕がないから、君達の世界の様に生活の豊かさには直結しない絵や詩といった文化が発達しない。文化が発達しなければ知性のそれ以上の進化は無く、状況の改善は何時まで経っても成されない。それでも何とかこれまで生きながらえて来たが、三百年と言わず百年ほどで今の生活は自然に破綻し、自然に我らが種は滅びる。そこまで正確に予測できていながら何一つそれを防ぐ手段がないのが現状だ」

 

 ドルデゥールの予測は、正しい。実際にこの地で生活した自分にはそれがただの机上の推測ではなく、限りなく正確な未来の光景を映し出していると論理ではなく肌で実感していた。

 

 彼の声が急速に熱を帯びていく。

「そして、ただ何もせず終わりを待つしかないのかと全てを諦めかけたその時、君が来たのだ。今までに見たことの無い世界を見せてくれる、見せる事の出来る君が来たのだ。空の景色。今まで欠片もこの目で見た事の無い景色を見る事が出来る。どれだけの時が経とうと決して目にする事の出来ない世界を見れるなら、それならば」

 

 その代償として命を落としても構わない。

 

 その言葉を、ドルデゥールは口にしなかった。けれど彼が長老という立場でないのなら、何の責も負わずただ絵空事を自由に語れる立場にいるのなら、必ず彼はそう口にしていただろう。自分が熱くなっていた事に今気づいたのか、彼は気恥ずかしそうに微笑んで見せた。


「年甲斐もなく熱くなってしまったな。すまない」

 

 僕の意思は、彼らの誇り高さの前ではちっぽけだった。僕の言葉が軽薄なものであると、全身の穴から注ぎ込まれるように伝わってくる。それでも僕は、言葉を発さなければいけなかった。ここで何も言わなくては、本当に僕は絵を描く為の紙よりも薄い存在になってしまう。


「けれどそれは、何て、何て緩慢で、残酷な自死なのですか」

 

 骨も筋肉も神経も絞りつくして出た言葉は問いかけにもなっていなかった。しかしドルデゥールは言葉を返す。彼は、言葉を返してくれた。


「そう、自死だ。我らは地上の人に殺されるのではなく、ましてや君にも、君の絵にも殺されるのではない。自らの意思で死を選んだのだ。そしてその意志は、もう撤回するつもりはない」

 

 ドルデゥールは穏やかに、しかし例え千の剣を喉に突きつけられ、万の弓で狙われようとも決して揺らがないであろう声で断言した。

 塔の様に高くそびえ立つ意思に圧倒され、再び僕は顔を俯かせる。もう言葉は見つからなかった。


「我らと君は、瞳の色が違う」

 彼はそう言って、立ち上がった。

「着るものも、住むところも、食べるものも、肌の色も、文化も、風習も、信じるものも、あらゆるものが違う。そして我らはその差異を誇りに思っている。もはやその差異のみが我らの証なのだ」‬

‪ 

 きっと僕はその時、泣きそうな顔をしていたのだろう。ドルデゥールは赤子をあやすような笑みを浮かべた。‬


‪「だが、話す言葉と美醜の感覚は同じであった事をその誇りと同等に幸運に思う。こうして君と話せて良かった。こうして君の美しい絵を見る事が出来て良かった」‬

‪ 

 そう言ってドルデゥールは歩き出した。‬

‪「もう今日は寝なさい。私ももう休もう」‬

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