果実を潰して得たエキスを垂らしただけの白湯だったが、今はそれだけの液体が何よりも自分の心と体を癒してくれると信じられた。何も言わず少しずつ湯気を立ち昇らせる杯に口をつける僕の前には、銀色の握りのついた杖を持つ一人の老いた洞窟の民の男が座っていた。


 吐き出せるだけ吐き出した僕はあの後気を失ったらしく、面倒を見る為にこの洞窟の長の部屋へと運ばれたのだと、あの後僕が目覚めるまで看病してくれていた女性が伝えてくれた。


「落ち着いたかね」

 

 静かに告げられたその声は、面と向かって聞くのは初めてのはずなのに、何故か懐かしく感じる声色だった。


「ええ、ありがとうございます、長老」

「ふふ、そんな肩書などここでは何の意味も無い、気兼ねなく名前で呼びたまえ。いや、確か外の者には発音しづらいのだったか、我らの名前は」

「いえ、それでは名前で呼ばせて頂きます。・・・・・・ドルデゥール」

 

 そう、目の前で静かに僕と同じように杯に口をつけている老いた洞窟の民の男こそが、この洞窟の長、ドルデゥールだった。

 

 老人は静かに息を吐き、僕に眼を向けた。


「目の前で人が死んだのは、初めてだったのかね」

「初めて、ではないです。老衰で死んだ人は、何度か見たことがありましたから。けれど、けれど戦いで人が血を流して死ぬ姿を見るのは、初めてでした」

「まぁ、出来れば見たいものではあるまいしな」

 

 ドルデゥールは傍らの机に静かに杯を置いた。彼の動作は一つ一つが静かで、一緒にいる者の心を落ち着かせてくれた。


「この洞窟には時々今日の様に野生の動物が入り込んでくる。死者を出さずに追い払えることもあるが、多くが今日の様に犠牲を出す事となる」ドルデゥールは杖を握り直した。「しかし、ではそれが全て凶の出来事かと言えばそうではない。野菜や果実しか自給出来ていない我らから滑れば、時折迷い込んでくる動物の肉は願っても止まない貴重な食糧であるし、皮を剥げばより良い寝床の為の毛皮となる。それらを得る為に命は失われたが、それによって残された命はこれからをよりよく過ごすことが出来る」

 

 老人はもう一度杖を握り直し、ずっと重たくなったであろう腰を上げた。


「つまりは無駄など無いという事だ。そこに発生する悲しみも苦しみも合わせてな。そしてその為に我らは弔うのだ。無駄ではない事を、よりその身に戒める為に」

 

 ドルデゥールの手がカーテンを開ける。その向こうには、黒い外套を羽織った洞窟の民達が並んでいた。


「これから先の戦いで亡くなった者達の葬儀だ。君はまだここにいるかね。少しでも気分が悪いようなら、そうした方が良いが」

「いえ、体の方はもう大丈夫です。心も、おそらくは」自分も既に空になっていた杯を置いて立ち上がる。「ただ、申し訳ない事に葬儀には参加できません。行くべきところが出来てしまったのです。亡くなった彼らには、後で必ず」


 ドルデゥールは一つ頷いて、それを良しとした。僕は深く頭を下げて、彼の部屋から足を踏み出す。足先は、洞窟の出口に繋がる道へと向けられていた。


 宵闇の中で鎮座する下弦の月が、冴え冴えとした青白い光を地面に投げかけていた。


 洞窟から一歩外に踏み出せば、鼻腔をくすぐるのは土の香り。空を見上げれば幾重にも重なる葉と梢が緑の天蓋となって月光を遮っていた。月明かりよりも小さな星々の輝きが線となって木々の間を抜け、地面を照らしている。足元にうねる大樹の根に躓かないようにおそるおそる確認しながら歩く。大地は苔や雑草による緑の絨毯に覆われていた。


「そこで止まれ」


 静寂に包まれていた大気が錆びた声で貫かれる。

 声のする方を向けば、まず目に入ったのは丁寧に磨かれた青銅色の鎧と、左腰に下げられた鞘に納められたままの剣。それが二人分。鎧の肩当てには父の私兵である事を示す紋章が施されていた。


「貴様、そうか、領主様の雇った絵描きか」

「次にこの洞窟から出て来るのは仕事が終わった時と聞いたが、まさかもう終わったのか?」


 交互に話す鎧を着た二人組を刺激しないよう、僕は顎をさすりながら慎重に言葉を選んでいく。


「いえ、まだ作業は終わってはおりません。ただ門番のお二人に聞きたい事があって、ここまで来させて頂きました」

「聞きたい事だと?」

「えぇ、えぇ、単純な事です。お時間は取らせません」

 

 あくまで低い姿勢から話す僕に警戒心を解いたのか、門番のうちの一人が先を促す。


「実は、先程獣の群れが洞窟内に入り込み、戦いとなりました。その結果数人の洞窟の民が命を落とす事となったのですが、門番のお二方は獣がここを通って中へ入っていくのを見ませんでしたか?」


「獣だと? どうだったか、我々もこの洞窟から出て来るものには気を払っているが、入っていくものには、な」


「いや、そういえば確か見たな。数匹、相当飢えた様子の狼の群れだった。二人で焚火を囲んでいて、自分が洞窟への入り口の方を向いていたから見えたのだ」

 

 顔を向けあって話す二人に、僕は怯みそうになる足腰に力を入れて踏ん張りながら糾弾する。


「では、どうしてそれを早くに洞窟の中の我々に伝えてくれなかったのです! もっと早くにその事を知れていれば、余裕を持って対処出来たのかもしれないのに。そうすれば、洞窟の民にも余計な犠牲が出る事なく」

「余計な犠牲? 何を言っているのだ」

 

 息急き切って言葉を繋げる僕を押し抑えるように、門番の一人が言葉を割り込ませた。声には本心からの疑問の色が混ざっていた。


「犠牲も何も、どうせ死ぬ命だろう。死ぬのが今日か、絵が完成する数十日後かというだけの違いだ」


  葉の隙間から差し込んだ一条の月光が、門番の鎧に当たり、照り返す。反射した月光は門番の顔を下から照らしていた。その顔には、声色と同じく皮肉でも嫌味でもない、純粋な疑問が浮かび上がっていた。


「どうせ長くない命になぜそこまで気を配る? いや、それどころか」


  門番が首を傾げる。鎧で反射した光はもう当たらず、男の顔は夜闇に包まれた。


「お前が殺す命だろう?」



 星がちりばめられた夜空から一転して、洞窟の中は果ての見えない谷底のように暗い。足を進める程に、洞窟の外、地上ではありふれた土の感触を失っていく。

 次第にヒカリゴケの量が増えていく大広間への道を進む。葬儀を終え、人の声のしない大広間の中心に、壁の側面を覆うヒカリゴケに全方位から照らされる人影があった。


「思っていたよりも帰って来るのが早かったね」

 杖の銀の握りの部分に手を置いて体を支えている男がいた。黒い外套の隙間から見えるその肌は、ヒカリゴケに照らされた鉱物から切り出したように美しく、その種が人よりも自然の中の一部である事を感じさせるような翡翠色の鱗で覆われていた。


「このまま抜け出して人の世界に帰ると思いましたか」

「微塵も。あれだけ真摯にこの絵に向き合う君の姿を見ていれば、そんな考えは湧かないよ」

 そう言って大広間の天井を見上げるのは、この地を治める長老、ドルデゥールだった。ドルデゥールの目は大広間の天井全面を覆う大空の絵に注がれていた。愛しむように彼は偽りの空を見つめていた。


「この絵の完成には、あとどれくらいかかるのかね」

「もう全ての部分の下絵は終わりましたから、後は残りの場所に色を塗る作業だけになります。だけ、と言っても、あと数十日はかかる作業になるのですが」

「なるほど、数十日か」ドルデゥールが微笑む。「我らの種の余命も、それだけという事だな」


 ドルデゥールの瞳が自分へと向けられる。僕は動けなかった。困惑混迷混乱狼狽戸惑い。顔や仕草といった意識の表層に漏れ出ようとするそれらの類の感情を必死に押し留めようとして、それでも抑えきれなかった言葉が掠れるような声で微かに開いた口から漏れ出た。


「どうして、それを」

「何の事だね? 我らの種の余命と君の絵の完成に何か関係でも? 私はただ脈絡なく言葉を口にしただけだが、何故君はそれ程驚いている」

 そう気づいた時にはもう手遅れだった。冷や汗が全身から吹き出すのを感じる。身の危険よりも、得も言われぬ冷たい絶望が皮膚の下を急速に覆っていく。

 視界が端から仄暗くなっていく自分に向けられるドルデゥールの目には、しかし優しさの色があった。


「領主の息子だと聞いていたが、腹芸の一つも出来ないとは。君が絵師である事以外の君がここに送られた理由が分かったような気がしたよ」

 戦慄する自分を前にして、ドルデゥールの声はあくまでも優しかった。非難の一つも含まない穏やかな声音と音律との声に思わず気を取られ、指先の震えが次第に収まっていく。


「立ち話もなんだ。少し、落ち着いたところで話そうか」

 そう言ってドルデゥールは背を見せ、歩き出す。杖を頼りに足を踏み出す男に、僕もついていく。



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