初めに、頬全体に荒い感触を感じた。それが割り当てられた自室に置かれた、厚い毛皮だと理解するのはもう少し後で、その頃には今の自分の状態について正確に理解が及んでいた。

 

 眠ってしまったのだ、僕は。傍らにはまだ描きかけの状態のヨンドゥの似顔絵の下絵があった。何度も書き直し、やがて胡乱な意識の中で手を動かしていた僕を見かねてヨンドゥが寝床に着かしてくれたことを思い出す。子供かと自嘲しながら立ち上がると、ちょうど部屋を仕切る薄いカーテンの向こうに影が見えた。


「絵師さん、起きた? 食堂にも来ずにずっと寝てたから、お腹空いてると思って色々持って来たんだけど」

 この数十日ですっかり聞き馴染んだ声が聞こえたかと思うとカーテンが開いた。不安げな表情を浮かべたヨンドゥの手には幾つかの椀が載った盆があった。少年は盆を置いた。「食べられそう? ずっと寝てたから、急に食べたらお腹がびっくりしちゃうかな」

 僕は欠伸を噛み殺しながらかわりに苦笑を浮かべる。「大丈夫だよ、ありがとう」

 

 盆に眼を向けると、そこにあるのはいつも通りの野菜や果実、具が一つしか入っていない煮え湯の様なスープがあった。見慣れた内容だなと思ったが、端に赤みがかった肉の切れ端が二枚あるのに気付いた。


「肉が出るなんて、今日は何かの日だったのか? 収穫の祈りの日はしばらく前に終わっただろう?」


「それはね、僕が長老様に言ったんだ。絵師さんとっても疲れてるみたいで元気出してほしいから、お肉をほんの少しだけでも頂戴って。そしたら長老様ね、二枚もくれたんだよ。良かったね、絵師さん!」

 

 無邪気な少年の声が、胸の中の憂鬱を拭っていくのを感じる。僕はありがとうと言いながら、言語化できない感謝と温もりの感情を伝える為に無心で彼の亜麻色のの髪を撫で続けた。たとえ肌の色が翡翠色であっても、頬は赤らむのだ。照れくさそうに笑うヨンドゥが、思い出したように懐から一枚の紙を取り出した。


「あのね、これ、絵師さんが眠っている間に書いてみたの。僕と絵師さんの絵。勝手にちょっと絵の具を使っちゃったけど、大丈夫、だったかな・・・・・・」

 

 少年の手の中の紙には、肌色の白い外套を着込んだ男と、それよりも少し背の低い亜麻色の髪に緑色の肌の子供が子供らしい不器用な、だけれど迷いのない大胆な線で描かれていた。白い外套の男の方をよく見れば、肌色の下に隣に立つ少年の肌と同じ緑色がうっすらと見える事に気づき、思わず微笑んでしまった。


「どうかな、上手く描けてる?」

「うん、とっても。特に僕の肌の色なんて、凄く綺麗に塗ってくれていて嬉しい、よ・・・・・・」

 

 思わず僕は歯を噛み締めていた。突然語気の弱まった僕に再び心配げな眼を向けるヨンドゥに、僕は震える声で問う。


「ねぇ、僕のこの瞳の青色は、どの塗料で塗ったの?」

「あれだよ、あの蓋がしてある瓶の中の」


 いっそもう一度視界が暗転してほしかった。この瞬間が夢であると自分以外のこの世界の全ての人に断言してほしかった。


「前に絵師さんが空の絵の青い部分を塗る時にあれを使ってたのを見たの。それでさっきあの瓶を見つけた時に、絵師さんの眼の色だって思って」

 

 僕は震えを隠すように、ただ無心でヨンドゥの髪を撫で続ける。

 

 この子は吸ってしまったのだ。近距離で、その体を蝕む青い空の色の絵の具に秘められた毒を。


「ありがとう、ありがとうね」

 

 僕は繰り返す。たった五文字の言葉を発する度に、体のあちらこちらを鳥か何かに啄まれているような感覚がした。憑りつかれたように同じ言葉を繰り返す僕の顔を見たヨンドゥが、驚きの声を上げた。


「泣いてるの? 絵師さん」


「ああ、そうさ。君の描いてくれた絵が嬉し過ぎて、思わず泣いちゃったんだよ」

 

 そうだ、僕の瞳は父のそれと同じ色をしている。僕の瞳は空の色をしている。無数の人の死を受け止めて、それでも嫌味な程美しく、人の心を惹き続ける空の色だ。

 

 僕の瞳は、命を奪う者の色をしている。

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