Ⅱ(前)

 冷ややかな空気が身を包む。暦の上では地上はもう既に暖かい風が吹き花々が芽吹きを終え、徐々にその花弁を開いて見せ始めているはずだが、気温の変化の無い地下ではずっと外套を着こんでいた。

 

 手首まで覆った白い外套はこれまでの洞窟内での作業の過程で付着した色とりどりの塗料が着き、今では元の白い部分が見える箇所の方が少なくなっていた。

 

 手に持った木炭を、キャンバスに貼った画布の上で滑らせる。短くなってきた木炭を交換しようと腰を下ろすのに手頃な石に座ったまま腰を曲げると、鈍い痛みが走った。


「大丈夫?」

 

 突然顔を歪めた自分を気遣う声のする方へ、安心させるように軽く手を振る。この洞窟に入ってから既に数十日が経ち、その間ずっと上を向きながら立ちっぱなしで作業をしていたとなれば腰にもかなりの負担がかかっていた。

 気晴らしのつもりだったが、体の為にも今日は休みにして正解だったなと腰をさすりながら俯いた顔を上げて見せる。その先にあったのは、かつて僕に友との関係を相談して来たヨンドゥの姿だった。


 あれから幾ばくかの時が過ぎ、次に出会った時のヨンドゥの顔には満面の笑みが浮かべられていた。聞けばヨンドゥの方から彼へと勇気を出して向かえば、チャマからも頭を下げられたのだという。ヨンドゥの心配は全くの杞憂で、彼らは何の軋轢も残さず元の関係に戻ったそうだ。


 元と一つ変わった事は、ヨンドゥが僕に頻繁に話しかけに来るようになった事だ。作業中に貴重な水の差し入れを持ってきてくれたり、その際休憩ついでに色々と話したりした僕達は、友人同士と言っても差支えの無いほどの関係になっていた。


「大丈夫だよ、しばらく体動かしてなかったからね。ちょっと体が驚いちゃっただけ」


 我ながら老けた発言だなと、自重するように引き攣った笑みを浮かべながら答えてみせる。気づけばもう片方の手は顎の先を撫でていた。物心ついた時からの手癖だったが、指先は幼い頃にはなかった伸びた無精髭に触れていた。生活用水の全てを地下からの湧水で賄っているこの洞窟では、身を清められるのは数日に一回だった。数日剃っていない伸び放題の髭を撫でながら視線を前にやると、画布越しにヨンドゥの顔が見えた。


 ヨンドゥの顔は、若さや純粋さ以外にも多くの点で自分と違っていた。

 

 自分と同じように数日手入れも出来ていないはずなのに軽やかにカールする亜麻色の髪の下には、思わず口を開いて見とれてしまいそうな程に美しい、翡翠色の鱗で覆われた肌があった。この洞窟の中で唯一の光源であるヒカリゴケが放つ燐光が、少年の肌を淡い虹色に輝かせていた。


 幻想的といった感想すら浮かばせる姿だったが、この洞窟に暮らす全ての人間が、この肌を持つのだ。


 およそ千年もの歳月を陽の当たらぬ地下で暮らしたが故に地上の人とは異なった進化の道を歩んだ末に得たその姿は、これまでに見たどんな彫像よりも美しい輪郭とうねりを描き、これまでに見たどんな絵画にも見る事の出来なかった宝石箱のように輝く翡翠色に包まれていた。


 僕とヨンドゥの間に立つキャンバスに貼られた画布には、眼前のヨンドゥの正面からの姿が木炭で描かれていた。いつもの様に二人で話していた時、疲れがたまっているとうっかり漏らした僕に、彼から自分の似顔絵を描いてくれないかと頼まれたのだ。落ち着いて考えなくても、それが連日昼夜問わず作業を続ける僕を労っての気晴らしの提案だという事は分かったし、僕自身それを断る理由はまるでなかったので二つ返事で了承した。


 僕達が今いる部屋の中にあるのは、厚い絹の布と荒い感触の獣の皮をなめした絨毯。備え付けの物はそれくらいで、この部屋の中にある物のほとんどは、僕が外から持ち込んだ絵を描く為の道具だった。この集落に入ってから既にしばらくの間過ごしている割り当てられた部屋に、僕達は朝からずっと籠っていた。


 が、僕はまだ下書きすら終える事が出来ていなかった。髪の一筋、輪郭の緩急。僕と違ってこの洞窟内での環境に適した体に進化した為に半袖の薄い衣服に身を包んだ美しい均整の取れた体を持つ少年の肘から先の曲線を忠実に表すには、何度も入念に下書きを施す必要があった。


 忙しなく腕を動かす僕に、僕と同じようにそこら辺に転がっていた石に腰を下ろしているヨンドゥがキャンバス越しに声を掛ける。

「ねぇ、絵師さん。少しお話しながら座っていても良い?」

「ん? 構わないよ」


 この線も違う。引いたばかりの線が、それまで自分が描いていた像の調和を乱す。眉間にしわを寄せながら、声になるべくその色が出ないように配慮して返す。すると少年は、それまで借りてきた猫の様にギュッと小さくしていた体から力を抜き、部屋の中にある描きかけの絵や塗料、その素材などを興味深そうに見渡し始めた。


「ねぇ、絵師さん。あの絵なんだけど」


 その内の一つがどうやら黙って座るのに飽きた少年のお目に適ったらしく、彼がその細く長い指で指す方に僕も視線を向ける。


 それは僕が暇潰しに描いていた油絵だった。陽だまりの草原の中、そこに寝そべる男女と一匹の犬を描いた絵。まだ描きかけの絵の中の人物を少年は指し示していた。


「どうして男の人の顔や腕が、僕達の様に緑色なの? あの人も地底で暮らしているの?」

 そこに描かれた男女の内、男の方の肌は緑色に塗られていた。さらによく見れば、女の方の肌色の下にも緑色が塗られている事が分かるだろう。


「あぁ、それは補色の関係を利用した表現技法のひとつなんだよ」

「補色の関係?」


 僕はアタリを取り直す為に構えていた木炭を握る手を下ろし、床に散らばった絵の具をそれぞれ指さしていく。


「緑色の上に赤と光沢のある銀色を混ぜた肌色で描くと補色の関係、ええとつまりお互いにお互いの引き立てあって、肌がきれいに見えるんだ。あれは描きかけだから、また少しすればあの上に色を重ねていくんだよ。そういう色の効果っていうのは他にも色々あってね、例えば」

 

そう言いながら今度は赤や橙、白の絵の具を示す。


「ああいう暖色や白の様に明るい色は実際より大きく見えたり、逆に青色や黒色は実際より小さく見えたりするんだ。ただ色を塗るんじゃなく、そういう組み合わせも考えてやる事、で」


 ふと気づけば知らぬ間に僕の体は前へ前へと乗り出しており、少年は話し始めた時と同じ姿勢のまま僕の方をじっと見つめていた。僕は取り繕う様に咳を一つして、姿勢を元に戻す。


「ごめんね、少し熱くなっちゃって。好きな事の話になった時の、悪い癖なんだ」

「ううん、そんな事ないよ。僕は絵を描いた事が無いから詳しくは分からないけれど、聞いてて面白かったもの」


 首を横に振る少年の眼には未だ純粋さの光が灯っていた。これではどちらが大人か分からないなとバツが悪い気持ちで首元を掻く。


「でもそんな色んな事を知っているなんて、絵師さんは絵師さんでも凄い絵師さんだったんだねぇ」


 今度はむず痒い気持ちでいっぱいになり、いやそんな事は、とぶつぶつ呟きながら思わず下を向いてしまう。子供の純粋さは歳をとるにつれて眩しく、素直に正面から受け止めづらいものになっていた。


「ねぇ、そんな凄い絵師さんがどうして一人でここに絵を描きに来たの?」


 琥珀色の眼が純粋な光を孕んでいる。僕は揺れる火に魅せられる羽虫の様に、その瞳の中の光に誘われて口を開いていた。


「どうして一人で、か」


木炭を持っていない方の手で伸び放題の髭をなぞり、片方の手で幾多の線が重ねられたキャンバスに木炭でまた新たな線を引く。両方の手が、僕の体の中に岩肌をなぞったような感触を伝えてくる。


 ザリザリ、ザラザラ。荒い感触は全身を構成する骨や筋肉や腱や流れる血の中を波動となって伝播し、その中の頭蓋か肋骨の中のどちらかに秘められた心の中で反響する。

 

 反響し、増幅し、拡大していく。

 

 ザリザリと、ザラザラと。

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