月夜
あの夢の少女、
彼女は昔、あまり淑やかな人間ではなかった。子供らを牛耳っていたガキ大将から、親や先生のような大人まで、自分を脅かすものに臆さず牙を剥いた。まるで、小さな獅子を思わせるように勇猛で、邪魔な人間は根元から駆逐する、まっすぐな野蛮さがあった。その姿の気高さと、時折見せた薄暗い闇をたたえた表情のギャップを、今でも覚えている。その、強さと弱さの絶妙なコントラストに、僕はとても惹きつけられた。
「色んなこと、私が思うようにはならないから。誰かにやれって言われたことも、私がやらなきゃいけないことも、全部私がやりやすいようにするだけなの。私、キュークツなのは嫌。キュークツってわかる? せまくて、くるしいってこと」
いつか、月夜はそう語ると、取ってつけたようにぎこちなく笑った。その笑い方は、世渡り下手な月夜に染み付いた、癖のようなものらしかった。僕にはまだ、月夜の言うキュークツの意味がわからなかった。幼い僕にとって、世界は案外自由で、無条件に希望で充ちているものに見えていたからだ。
月夜は違った。彼女は常に、圧力に抗おうとしていた。自分を縛ろうとする重い負荷を跳ね除けて、自由に生きられる道を尊んだ。だから、他人ごときに押しつぶされないよう、必死に噛み付いていたのだと思う。そんな月夜の気高い力を、僕は尊敬していた。僕とは正反対で、全てが明らかで、輝いている。彼女の友人であることが誇らしかった。
♢
小学六年生のとき、彼女は一度家出をした。受話器を手にした母の驚嘆から察して、僕は月夜を探しに外へ飛び出した。風のぬるい八月の夜、虫食われの月が空に浮かんでいた。
僕と月夜が住んでいる場所は決して近くなかったけれど、二人だけが知る秘密の場所があった。今考えると、すべてを大人に任せておけば、見つかるのは時間の問題だったように思う。けれど、どうしても不安になった。彼女を捕える大人の姿が、どうしても想像できない。月夜がこのままどこかに行ってしまうんじゃないかと、本気で思った。彼女の言うキュークツな生活に愛想をつかして、去っていくかもしれない。それは、冗談でもなんでなかった。
白い街灯が、高架橋の上を連なっていた。強い光を横切って、高架下まで駆けていく。そこに月夜がいた。うずくまって、今にも泣き出しそうな月夜の姿を見るのは、初めてのことだった。真っ黒な影の中に潜んで、涙をこらえる弱々しい彼女に僕は戸惑った。彼女はまだ僕が見えていなかった。誰の目もはばからない、月夜の正直な一面を目の当たりしたとき、身体がすくんで動けなかった。触れてはいけない、壊れてしまう予感があった。
「月夜、大丈夫?」
おそるおそる声をかけると、彼女の顔があがる。月夜は僕の方を見て驚いたりはしなかった。寧ろ来て当然、予想通り、そんな顔をして微笑む。目の端のつぶらな涙が、水晶みたいに反射していた。
「大丈夫に見えなかったら、何か言ってよ」
あの時、高架下の景色は暗くて、月夜の顔はよく見えなかった。けれど、どんな顔をしていたのか、今なら想像ができる。きっと、彼女は笑っていた。その歳に似合わない、蠱惑的な笑みをしていたと思う。
「......大丈夫?」
我ながら気の利かない子供だった。ただ不安だけが勝って、ろくに言葉も選べないでいた。そんな僕に、月夜は黙って頷いてくれた。僕は月夜の隣に座って、大きな高架橋を見上げた。それから、どうして家出をしたのか、彼女に尋ねた。
月夜は少し間をとって、躊躇いながら話した。
「ここじゃお前は上手くやれない、だってさ。私の両親はね、このままじゃ私はろくな人間にならないって思ってるみたい」
芝生の感触が、嫌に刺々しく感じられた。月夜が遠くへ行く、事実が真っ先に脳裏をよぎった。
「田舎の学校でさ、なーんにもないとこいくんだ。受験でね。おじいちゃんの家に住んで、もう誰にも迷惑かけないようにするの。そういう
面をくらっている僕の顔を覗き込んで、月夜が微笑むのが見えた。瞬く瞼の奥から覗いた目の色が、夜と同じ色をしていた。
「あと私、親に嫌われてるんだ。素直に言うこと聞かない子だから。でも仕方ないよね。私は、私なんだよ」
なぜ、そんなことを言いながら微笑むのか。その笑みの余裕なさが、僕の余計な不安を駆り立てていった。これから、月夜がなにを言い出して、僕はどうしようとするのか。考えても仕方がないことを、考えないわけにはいかない。
「私、居場所がないの。やりやすいようにやってるだけなのに、誰もわかってくれない。楽に生きようとすればするほど、どんどん落ちていく気がする。それが辛いの。キュークツなの」
月夜は、星のない真っ暗な空に手をかざした。彼女にしか見えない、不安や迷いのような雑念を手の中に捕まえて、そっと手放すような動作だった。僕は、思い違いをしていた。彼女は強い人間で、気高くて、他の誰の助けも必要としないなんて、身勝手な妄想でしかない。僕と月夜は、しばらく無言だった。その間、色んな考えが頭をめぐっては、ああでもないこうでもないと沈んでいった。大人たち遅いなとか、場違いなことも考えた。時間がやけに遅く感じた。隣にいる月夜の、夜みたいな瞳の色が、頭から離れなかった。
「居場所が欲しいの?」
「今はいらないよ、夕陽が私の居場所だから。けど、君と離れ離れになったら......どうしよう。私、他の居場所なんか知らないよ」
「僕がいるよ」
口をついて出た言葉が、思った以上の質量で僕にのしかかった。月夜は地面の芝生を引きちぎって、空中に投げた。霧散していく芝生がまるで、僕の放った言葉の虚ろさを表してるようだった。
「いないよ。一緒にいられなくなるんだから」
「僕がそこに行けばいい。同じとこ、受かればいいわけだろ」
「受験、すごく難しいんだよ? 今からじゃ遅すぎるよ」
「できるよ。為せば成るからね、なにごとも」
真っ暗な空間に打ち付けるように、僕は彼女の言葉全てをなだめた。根拠はなくて、自信も足りなくて、それでも僕はなだめ続けた。ひとつひとつの言葉が重みになって、僕の肩に重なっていくようだった。
「本当に、私と一緒にいてくれるの?」
「いるよ、ずっと。いつまでも、君が居場所を見つけるまでは」
「それって告白?」
「それでもいいよ」
言葉は次第に、重みから覚悟に変わっていた。覚悟はまるで引力のようだった。僕を引き寄せる彼女の魅力、
「そう......じゃあ、私もそれでいい」
──今でも覚えている。その日は、最近僕が夢に見るような、綺麗な三日月が浮かんでいた。僕らは高架下から、手を繋いで月の下に出た。月夜の白い肌は、波に濡れた貝殻みたいに滑らかだった。彼女の体は、月光で白く光っていた。
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