第17話 本郷美希の捨てきれないもの2

 本郷美希はあの震災がなければ続いていたと思われる加藤との想い出の足跡を記録し始めた。

 仙台で最初に彼を見付けたのは水産庁のビルでした。父との用件を済ませて開けたドアの目の前には良く日焼けした褐色の肌の彼が目に眩しく飛び込んで来た。それが加藤洋一との出会いだった。彼は石巻で父親が使いこなした古い漁船に乗って一緒に操業していた。この時にはもう一人で主に金華山沖で操業していた。そこは親父が開拓した漁場だが洋一は新しい船でもっと遠方で操業したくなった。そこで水産庁の資源調査に携わる本郷氏のところへ足げに通ううちに本郷美希とも親しくなった。この頃にはお互いに気が合い、本郷氏から示されるデータ解析より、彼女に会うのが目的になるのにそう時間が掛からなかった。

 本郷氏の資源調査の説明もそこそこに二人は直ぐに仙台の街を歩いた。やがて加藤は本郷美希との愛情に応えるように『君は何も要らないと言うが霞を食べて生きる訳にはいかない』と新造船を購入した。これで美希に最大の幸せが約束出来ると言ってくれた。愛には形も義務もないが示す必要がある。それがこの船だと思ってもらえればいつかその結晶を授けられると言ってくれた。

 それからは係留されてる岸壁から出船を見送るたびに幸せは募りました。家事に余裕が出来たときは一緒に操業もしました。刺し網は春から夏に、夏から冬にかけてはえ縄漁だが、わずか十九トンばかりの船だから仕掛ける縄の距離も短かった。この時ほど一心同体でどちらもあうんの呼吸が欠かせなかった。それが私たちにはもう愛を超越した次元に存在した。でも操業中はただ生きるそこの一点に集約されて一遍の感情もなかった。それほどの感情すら入り込む余地がないほど目の前の漁に集中してました。これは収穫と云うひとつの目的の為の喜びに他ならない。そこに生きる意味を見出し家族の繋がりと繁栄をもたらす本能的な行動以外に何も互いに通じるものはなかった。だが確たる収穫を終えるとその余韻の中で初めて愛が生まれる。その愛は自然界から生活の糧として得る者に取っては信頼の次に生まれる二次的な産物に過ぎないことを思い知らされた。でも操業中に生じた信頼が平穏な二人だけの生活の中では愛情として熟成された。だから加藤を残しておかに上がれば愛情は持つものでなく湧いてくるものだとこの時に思いました。それからは自宅で加藤のために彼のお母さんから好みの料理も習得して待機した。それらは加藤を思う気持ち意外には何もありませんでした。だからあの時の震災は加藤との信頼関係を汗と涙で築きながら頂点を目指す途中でしたから悔やんでも悔やみきれませんでした。


 書き終えた本郷の文章を一読して硬い文章だと思った。

「かなり心境を押さえられた文章ですね」

 本郷はほとんど窓辺の景色に目を移して山路から言われる意見を気にしていない。誰からどう非難を受けようと今は佐藤しかないと腹をくくったように時間を持て余していた。

「だって手短にまとめればこんな感じに落ち着くんではないでしようか。感情を入れればのろけ話になりませんか。見せる相手の人がどんな人なのか解らなければ差し障りのない文面になるんではないでしようか」

 なるほどもっともだと思うと最初のひと言は多かったと反省した。

「しかし、まあ、こう言う事実が前提にあるのとないのではあなたに対する先入観が変わりますから無駄にはなりませんよ。それどころかこれであなたが再会に慎重を期す思いを理解してもらえるには必要不可欠なものだと思いますし、これで今までのイメージが払拭されて一新されると思うと水島さんも惜しみなく今よりももっと努力してくれるでしよう」

 念を押すように似たような語句を並べる山路の説明に本郷は補足を求めた。

「なぜ会いに来られないのかと云う疑問は本当に払拭されるのでしょうか」

 ーーそれは加藤自身がどこに居たか。その記憶が閉ざされていれば彼は責められない。何の資料もないんだから生活基盤を三陸に置いて活動すれば、と言っても茨城県から青森県までの太平洋岸の何処に置くか。そのピンポイントが絞れない以上は致し方がなかった。それより親身なってくれる人が居れば越前大野でも何処でもいいんじゃないでしょうか。それに本郷さんも半年で仙台を離れられた。いえ前向きなあなたの姿勢であって決して過去を見捨てたつもりはないことは重々に承知してます。すでに死亡通知をされた以上は(それに至った辛さも知りました)踏みとどまり想い出に耽る歳でも有りません。だからこの行き違いは時と云う運命がしたのです。決して二人に向けられるものじゃないことは全ての人が承知していますから。

「今の段階ではまだそのような疑問があるなんて誰も思ってませんから。それより新たな門出を目指している人に、死んだ人が浦島太郎のように五年ぶりにヒョッコリ現れた現実を埋めるにはそう簡単ではないと誰もが納得する様に文章を少し直します」

 そう云ってから山路自身の説明文を入れた。

 手を加えた文章を確認した本郷はスマホを返した。山路は直ぐに送信した。

「もとは新年会の帰りにあのタクシーに乗ったのが事の始まりね」

 そう云うながら目の前のサービスエリアに止まる山路のタクシーに目をやった。

 ーー加藤と同様にあなたにも立ち止まった五年の空白があれば会うのにこんな苦労しなくても良かったのだが。消された過去と残した過去がすれ違った不幸と言えるかも知れないと、本郷の視線を追うように山路も二人の接点を作った車を見た。今だからこそ過去にとどまる人と慎重に会う為に調整している気苦労がうかがえた。しかし本郷との出会いで震災でのひとりの真実が解った。

「そろそろ行きますか」

「後どれぐらい掛かるのですか」

「ここが木之本のパーキングエリアですから三十分も掛かりません」

「もう少しゆっくりした方がメーターが上がるのじゃないですか」

「いや高速にしてますので距離だけで時間は換算されませんから動かないと料金メーターも上がりませんから」

 ここで本郷はやっと屈託のない笑みを浮かべた。

「それでやっていけますか。毎日十二時間走られると聴きましたが」

「そうです市内をぐるぐる二百キロほど似たような所を走り回りますからフランスの二十四時間耐久レースのル・マンみたいですよ、ただ向こうは一日ですがこっちは毎日で月五千キロ一年間で六万キロ走破ですから。それも報酬のない過酷なレースですよ」

「じゃあ睡眠時間を考えると数時間しか自由に成る時間がないのにわざわざ私の為にこんな時間を作っていただいて。今回はこの機会は山路さんの方から打診されたのですか」

「いやメールのやり取りからの成り行きからこうなったのですから向こうは本郷さんが来られるか結構気をもんでましたよ」

「どうしてです」

「私からの情報で、もうすでにお相手が居ると解ればこっちの方で彼にどう納得させるか思案していたようでしたから」

「それを知っているのは水島さんだけですか」

「メールでやり取りしているのは水島さんだけですからそうですね」

「じゃあかなり気を揉んで居るんでしょうね……」  

「まあそこは加藤さんの反応を思うとハッキリしないままの方が気が楽なんじゃないかと勝手に思ってますが」

「じゃああとはあたし次第なんですね」

 目許が少し笑っているのを山路は確かめた。

「まあ結果はどうであれ和やかに損得なしに再会出来れば彼も踏ん切りが付いて再出発が出来るでしょう」

 好転した本郷を見て山路も楽観的に言った。

「でもあの人と私の身の上は余りにも違いすぎるそれを考えると何だかまた気が重くなりそう」

 また揺れ戻り始めた彼女を引き戻す言葉を探った。

「彼自身も無為に五年の月日をただ見続けるだけの日々でしたからやっと見えた唯一の灯火であるあなたが尻すぼみすれば彼の心は路頭に迷いますから気持ちを強く持って下さいよ」

 先ほどまで楽観的に言ったのが逆効果だったのか、山路は少し引き締めるように強く言い添えた。これに本郷は過敏に反応した。

「会わないなんてひと言も言ってません ! じゃあ噂だけ流してわたしが会わないほうがあの人には諦めが付くと云うの、そんな心が痛む悲しい結論を考えていたなんて、それじゃあ何の為にあの人との想い出を綴ったのかしら、まったく、それじゃ他の人には私の過去なんて知る権利があるとは思えないじゃないの」

 最愛の人を五年前に失ってそこから這い上がるようにして捉えた幸せを誰にも邪魔する権利はなかった。あの震災で一番複雑な傷を付けられたのは、生存を手放しで喜べない此の目の前の人かも知れない。しかしそれでも頭を冷やさなければならない言葉をあえて本郷に伝えた。

「今送信した相手は親族でも縁者でもありませんよ、ただ三陸の冷たい海から救助しただけの人たちなんですよ」

 ーーそうだった。目の前の山路さんも……。あたしはこんなに善意に溢れた人々に囲まれて独りよがり出来る立場じゃなかった。

「ごめんなさい、第三者、いえ全くのお門違いの無関係のあなたに意見を言うあたしは罰当たりな女なんでしょうね」

「道化師は哀しみに包まれる人を笑わすのが仕事ですから気にしないで下さい」

 とにかく立ち止まるわけには行かない。だからこれからは伝達範囲を広げて加藤さんの耳にも噂のように入るようにして、もう大丈夫と云う所まで加藤さんの精神状態が安定したところで再会すれば一番良いと山路は考えていた。

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