第14話 佐藤のマンション

 押された呼び出しベルで出て来た本郷は山路の隣の女を見て驚いた。

 その驚きに間を与えず山路は以前の、そう新年の挨拶回りの時に云ってた元カノの河村美咲を紹介した。

 美咲のスッキリとした目許から愛嬌のある眼差しが本郷に向けられていた。 

 その眼差しを受け止めた本郷は「云い兆候ですのね今度こそ入籍なさったら」と言った。 

 その言葉に美咲はこの女は単なる山路のタクシーのお客じゃないと直感したが、それを遮るように二人をリビングへ招き入れた。

 そこで待機していた佐藤から「この問題はこちらから伺わなくてはならないのに無関係な山路さんの方から来ていただいて恐縮しています」と挨拶されてソファーを勧め、座ると本郷が熱い珈琲と紅茶を用意した。

「スッカリ板に付いているって云うかんじね」

 入り口でのお返しのように美咲が美希の仕草をなじった。山路はここへ連れて来たことに後悔を感じた。しかし次のセリフで吹っ飛んだ

「山路から聞きました石巻はどうでした」

 ーーこの人のお母さんは若くもないのに石巻へ復興のお手伝いに行ったのか邪魔しに行ったのか判りませんが、とにかくあの津波になすすべもなく呑まれるニュース映像を見てね居ても立っても居られない性分の人なのよ。

「五年前からのお付き合いですか」

「いえ四年前ですが彼の家に行ったときにお母さんはその復興のお手伝いとボランティア活動の話ばっかりしてもうその当時で五十を過ぎているのにでもお母さんの話だと年金生活者もかなり居たって、国から金をもらって何もしないのは良くないって」

「でもそれは自分が払った年金だから返してもらってる云う感覚よりやはり人のために役立ちたいって、そう思う人も居るからこの国も捨てたもんじゃないって。そのお母さんがお手伝いした家の人は命からがら持ち出した物って何だと思います」

「さあ家族のアルバムかしら」

 何で山路さんのお母さんのことをこの人が代弁しているのかと疑問を投げかけるように本郷は美咲を見た。

「ブー、珈琲を焙煎する道具だったの。そこの家で昼休みに頂いた珈琲はそれで煎れていただいて恐縮して、何だかあの津波で歯を食いしばって耐え忍んだものがこの香りなんだと思うとその境地がスーと胸の中に漂って実に深い他では味わ得ない一杯の珈琲でした。それは後にも先にも石巻へ行かなければ味わえない珈琲でしたと」

「それはどんな味ですって言ってました」

 と佐藤が割って入った。 

「ほろ苦い味ですと言ってました」 

 まるで人生みたいと勝手に美咲は付け足した。

「この人のお母さんはわざわざ復興に石巻まで来てくれたと云うのに、添え遂げた人のふるさとを半年後には捨てて仕舞って、苗字までも戻して。どうしてご主人の安否が判らないままに旧姓に戻ってしまったですか」

 更に畳み掛けるように美咲は続けた。

「過去を回避したいのです、あの春とはいえ冷たい三陸沖で半年も経てば目の前の海を見るたびに辛くなっていたたまれなくなるんです。佐藤にも云いましたけれどあそこは寒流と暖流が交わる潮目なので、それだけ好漁場と云える海域なのです。だからこそ度々津波に襲われてもまた人々は戻って来るのです。それもあの人を知るまであの三陸の海がどれほど大切なのか知りませんでした。目の前には海しかない人々にはそこから得られる幸が生きるすべてなんです。加藤がそれを教えてくれました。だからあの人在っての海なのです。だからもうあの三陸の海を見るのが辛くて離れました。この街の人には若狭や大阪から届けられる魚はご存知でも海を生活の糧としない人には考えられないでしょうね」

「でもお母さんはあの珈琲が忘れられないって言ってました。あの珈琲には津波から逃れられた者しか味わえない香りが在ると言ってました。それは珈琲そのものより波間を漂った焙煎機そのものの視覚を通して漂う香りって言った方が正しいのかしら」

 ーーでもその香りを美咲さんは鼻でなく耳から仕入れた。そう云ってから本郷は山路を見た。

「山路さんのお母さんてお幾つですの津波で壊れたものの後片付けに行ったのですね」

「五年前で五十四でしたから今は五十九で今年還暦です」 

「あたしも聞いた時は嘘でしょうと思ったけれど五十代以上の人って結構多いそうですよ」と美咲はすかさず補足した。それに本郷は眉を寄せて反応した。

「あたしの家は流されて、だから仙台の父の官舎に居ましたからボランティア活動の人には会ってませんから今その話は初めて知りました」

「地元なんでしょう」と美咲がつっこむ。

「いえ生まれは和歌山です」

 ーーそうなのと美咲は山路に確かめた。

「それでも石巻は長いんでしょう、そこでいい人を見付けて結婚された場所でも有るのですからね」

「加藤の事を言ってるのですね」

 佐藤が流れに棹さすように割って入った。

 今はあなたしかないのにこの合いの手に美希は余計な口出しと思った。

「岡田さん。いえ加藤さんですが、今もあの人は自分の過去と戦ってます、それに終止符を打つのに本郷さんはもう何のためらいもないからこそ呼んでいただいたと解釈して良いんですね」 

 山路は少しひるんだ本郷を見て念を押した。

 ーーもちろんですと言いながらも本郷は身構えた。

「そんなに難しい顔をされると恐縮してしまいますから」 

 と言う山路の言葉に本郷は無理に笑って見せた。

 その作り笑いに山路は少し考えた。だが美咲は二の矢、三の矢を用意した。

「本郷さんはつい最近ほんの少し前に石巻へ行かれたとか」

「ええ」

「震災の半年後とつい最近では街の変わりようにびっくりされたと思うけどでも加藤さんはそれすら知らないですから」

 美咲は氷柱の本郷に更に続けた。

 ーーそれとあたし達の将来とかが結びつかない。と暗に過去の人だと本郷は反論した。

「あなたの将来には協力するけれどんな将来かはあたしが決める。あたしの元彼はその旅館の跡取り息子だからあなたの印象をどう吹き込むかはあたし次第なの」

「それって脅迫、何の徳があなたにあるの」

 黙って聴いていた山路だったが風向き、いや、その風に運ばれる雲行きが怪しくなってきた風向きを変える必要が生じて来そうだ。

「そうじゃないのよ本郷さんは誤解している周りの人から止むを得ないそれらしい情報を伝えてもらってから会う魂胆だけど、吹きっさらしの中でこそ真実が伝わらなければ本当にあの人を今まで思っていた事にはならない」

 良く言うよ一年前はどうだったかと山路は美咲の顔を見て思った。

「何を基準にしての真実なの」

「真実に基準はない事実かどうかだけでしょう」

 今はどうであれ会って記憶が氷解する中で真実は残るはずと本郷は確信していた。

「だからこそその事実を早く伝えてあげるべきでしょう」

 結論を言う美咲に、ここが潮時とみて山路が提案した。

「本郷さんそれよりまず敦賀に行きませんかそこへ近く水島さんが来ますが会いませんか ?」

 相撲で言えば水入りのように山路が割って入った。

「いつですか」

 本郷がふと息を抜くように囁いた。 

「あさってです今あの時の貨物船が定期検査でドック入りしているんです。彼を救った金子船長と水島さんが会われるので当時の経緯いきさつも訊けるでしょう」

「敦賀に行きます」

 ここで本郷が用意したお菓子と熱い飲み物が冷めない様にと佐藤が勧めた。


 マンションを後にした二人はバス停に向かうがここでも一悶着。

「君がひと言余計な事を言ったから彼女は身構えて仕舞ったんだ」

「あたしのせいだと言うの」

「君の言い出し方が悪かったよ」 

「初対面から入籍の話をしてくるからよ」

「悪気はないと思う」

「当たり前よ」

「それだけひと所に落ち着ける人じゃないんだ。絶えず前向きに人生を歩もうとする人なんだ。でもその人がこれだけ加藤さんに対して慎重なのは良人だったからだろうね」

「あたしもあんな展開になるとは思わなかったから、あなたのお母さんの話まで持ち出してしまったの」

「それは仕方がないとしてと、沢井さんにはどう説明するんだ内容次第では君をあてにしたのが間違いになってくる」

「啓ちゃん、その心配は要らないわよ。それより問題はなぜあの人は幸せになれないのか。これじゃあ何であの女があなたを呼んだのか判らないわ」

「君が判らなくしてしまたんじゃないか」

 あらそうかしらと根に持つタイプでない美咲はとぼけてしまった。 

  







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