第3話 休み明けたらまた出勤

 越前大野からのちょっと心残りな短い旅をして帰ると、そのまま出勤を日延べして次の明け方には気だるさが残る夢を見た。それは冬に見た暑い夏の夢だった。

 確かにじっとしていても噴きだして、拭いても拭いても汗が滴り落ちてくるのに女は涼しげな瞳で立っていた。そのあざ笑う瞳を投げつけられて飛び起きてしまった。彼は過去の思い出を道連れに横臥おうがしたがつかの間の静寂が寂しさを呼び戻し、ますます眼が覚めてしまった。

 辺りはまだ暗かったがもうひと眠りする時間はなかったが仕事に出るにはまだ早かった。中途半端な時間に手が自然と枕もとの煙草に伸び、次に半身はんみを起こして煙草に火をつけた。

 漸く部屋に漂っていた紫煙は、風を追って急に窓に向かって動き始めた。入れ代わりに朝の明かりがその窓から差し込めて来た。

 昇る朝日が、研ぎ澄まされたやいばのごとく、彼の全身に突き刺さってくる。その後に更に一撃を食らうように、電話のベルが鳴り響いた。けたたましく鳴る電話のベルは、夢だけを貪る寝床が、安住の地でないと彼に告げていた。

着信は係長の松本さんであった。それだけで用件が分かった。小旅行での休暇を更に一日伸ばした翌日の今日である。

「山路!今月の締めが済んだのにいつまで休むンや」と云う出勤の催促である。

彼の勤めるタクシー会社は一車制である。一台の車を一定の勤務時間内乗り続けられる。だから水揚げが少ない日は走る時間が延びて、それで客がなければ勤務超過だけが記録されて最悪だった。

「どないしたんや、とうに旅行から帰っているはずやのに、旅行ボケしたんか。ええ、たった三日間の旅行で1日日延べして……。どっか具合でも悪いんか?」

ええ、と山路は言葉を濁すと、だいぶ重症か、と笑いながら係長は訊いてきた。

 係長は本社に有る百台の内の五十台を任されている。もちろん賄いきれない場合は他の部署にも車の都合を聞くこともあるが管轄内で集中して上手く勤務態勢をまとめている。

 部署内で休む者が多くて車がだぶつくと社長の風当たりがきつくなるのを恐れている。だから係長の松本は語気を強めたり、口調を柔らかくしたりしては出社を促していた。


やっと山路の軽自動車は本社の駐車場に滑り込むようにして止まった。彼は重い足取りで会社の事務所に向った。

おお !来たかと松本の作り笑いに、愛想笑いで応えてタイムカードを打った。

街の中心部から外れて郊外に百台ほどの営業車が並ぶこのタクシー会社だ。そこの事務所は小じんまりした造りの二階建で、二階が朝礼や研修に使う多目的な部屋と後は小部屋が別に有った。一階はロビー以外に受付と営業事務所があった。無線配車も一階でやっていた。

週一の朝礼も二階でやるが終われれば出庫前に何人かはそこでくつろぐのが常であった。

 山路は自動販売機の缶コーヒーを飲み終われば引き摺るように営業車に向かった。まだ旅の疲れが残るのは身体でなく心だった。

 初対面からあの人は愛想がよかった。その訳を二度目の旅で知ってしまった。あの人は旅芸人のピエロの役に成り切っていた。その心の重みが今は両脚に乗りかかっていた。

「山路さんどうしゃったんですか、昨日はずる休みですか」

 隣の車番の松井が車に戻って来るとさっそく聴いて来た。

 気楽ですねと云う松井に「俺より奥さんが水商売しているお前の方が気楽じゃ無いのか」とやり返した。

 松井はまだ二十代前半でタクシー経験は浅く、しょっちゅう何処を流したええか聞かれてうんざりするがそれでも調子の良い男だった。以前に一緒に呑みに誘われてそこで紹介されたのが彼の奥さんだった。松井がトイレに立った時に「賑やかで良いでしょうと」声を掛けると彼女はまんざらでもない顔をしたがそっと「機嫌が悪くなると直ぐに殴るのよ」と小耳に入れられた。こうしていつも顔を合わせると奥さんの言葉が信じがたいほど今日も彼は調子が良かった。

「これでも大変なんだから」と彼は訳も言わせずに出庫したが、奥さんから小耳に挟んだ言葉が浮かぶと一寸複雑な気持ちで見送った。


 タクシードライバーの山路も朝に定刻通り松井の後から出庫しょうとして車を停められた。

 事務所からお前をご指名したお客さんだと云うお声が掛かった。

「どや、休み明けの朝一番でお客さんが付いた。わしの神通力もたいしたもんやろ」

 と引き返した係長と一緒に事務所から出て来たのは同僚の西本さんだった。

 何が神通力やと山路は後部座席のドアを開ける係長に苦笑いした。

 開けたドアから西本さんが市内でのうて反対方向ですまんのうと乗り込んで来た。

「事務所が言ってたお客さんて西本さんですか」

「さっき急に女房から連絡があってせっかく出勤したけれど早う帰るんや」

 西本は出庫したばかりの山路のタクシーで市内とは反対方向の滋賀方面へ走らされた。

 滋賀県との境にあるこの会社には滋賀から来てる社員も結構いた。

 西本さんは定年間近のベテランドライバーだった。

「どや慣れて来たか、で山路はんは何処流してんのんや」

「市内でだいたいは四条通り」

「ウン?それは昼勤か、うちの会社は珍しい一車制やけどどの会社も一台を二人で交互に乗るのが普通やろう」

 一台の車を昼勤と夜勤を一週間交替で乗車する。

「ええ、前の会社そうでした」

「そんなら前の会社では夜はどないしてんにゃ」

「行き当たりばったり」 

「そらあアカンで水揚げ安定せへへんやろ」

中心部は客も有るが祇園以外では空車が多すぎて実入りが少なくて月に手取りで十万ちょっとだった。

「十万ちょっとか、それやったら独り身でもきついなあ祇園には行かんのんか」

 今年で定年を迎える西本はふたりの子供も早くに所帯を持ち独立していた。西本は今は妻と二人だけでささやかな暮らしをしている。


 その西本さんが昔の深夜の稼ぎ頭だったのは深夜の祇園だった。

「祇園は十時までですね」

 だから西本さんは開いた口がふさがらなかった。

「アホかいな。あそこはそれから長距離が伸びるンやで」

「それは分かってますけどもたちの悪い酔っ払いがいますからねぇ、ええお客さんは遅くても十一時には帰りますからねぇ」

「まあそやけど終電に乗り遅れる客にろくなもんがおれへんしなぁ」

 このまま贅沢さえしなければ何とかなりますという山路の言葉に西本は、あんたには一車持ちの昼勤の今の会社を見付けたのは正解やなあと言われた。

「だから水揚げ落ちても気分はだいぶ楽になりました」

「その代わり毎日十時間以上走っても実入りはだいぶ落ちるやろ」

 確かに深夜は乗ってくれれば半分の時間で一件当たり四、五千円になる。他府県までだと一万円は軽く超えた。それが今はワンメーターのお客さんばかりで千円になれば御の字だから夕方でやっと一万円になる日が多く、それから七時ごろの入庫まで幾ら上積み出来るかだった。

「そやろう夜中に祇園走らんかったら水揚げが無いがなあ。昼間は近場が多いけど酔うた客が嫌ならその方が硬いで。それよりも結婚するこっちゃ外食は金使うで。早よう所帯持って、早よう子供を育てた方が後が楽やでえ」

 まともな年金が貰えるのも俺で最後かもしれん、それを思うと山路はん、あんた俺の歳で子供小さかったら大変やでぇ。言葉と共に西本のふかす煙草のほろ苦い煙が後ろの席から棚引いて来る。

「西本さん」

 あっ! そやった禁煙やなあと慌てたが山路はそのまま勧めた。

「おおきに、おおきに。この一本でやめとくわ」

「西本さん、所帯持つのも相手あっての話やさかいなあ」

 確かに相手あっての話だった。お互い気が合わなければ一緒に暮らしても新婚が過ぎれば味気ない。それを山路は身を持って味わっていた。 

 西本さんの自宅付近に着いて料金の精算時に無線が入った。

 応答を催促する本社無線に「こっち後回しにして先に無線取ったらええ」と言ってくれた。

 事務所の松本さんからお前をご指名したお客さんだと云うお声が掛かった。又かと思ったが今度は無線配車だった。場所と名前を聞いたがその所に思い当たる節がなかった。とりあえず指定された場所へ向かった。

 降りた西本さんからから今日のお前は朝から立て続けでラッキーなやっちゃなあと言われた。



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