闇がさらう (3)

 さて、親父とお袋になにから話すか……。

 

 あの二人のことも、気にかけていないわけではないのだが、それでも以前に比べるとなにか距離がある物言いになっている。

 

 もう、あの家の人間じゃないのかもな……。

 

 そのこと自体に寂しさは感じていないが、戻る家がなくなるというのは、なんとも心を不安定に落とし込む。

 帰れる家があって、初めて人間は、心身ともに安定するのかもしれない。

 

 俺の帰るべき場所は……。


 家に着くと、呼び鈴を鳴らした。

「はいはい」

「俺だよ」

「ああ、オレオレね」

 母が笑いながら戸を開いた。あの日の馬鹿げたやり取りを思い出したのだろう。その手の詐欺が流行っていることも最近知った。

「父さんは?」

「午後までには帰るって言ってたよ」

 父は、定年退職を控えて、再就職先を見つけたらしい。今日は有給を使って、そこを見てくると聞いていた。

「そんで、どうすんだい? これから……」

「ああ、取り合えずわかったことだけ話す、その後……」

 決断の時だろう。

 

 時は戻せない、記憶も取り戻せなかった。だけど……。


 自分の部屋に行く。きれいに片付いていた。

「これ……」


 一つのナップザックを目が捉えた。開封してみる。中学時代の部活用具一式、この日の待っていたかのように再び自分の前に姿を現した。

「お疲れ様……」

 そんな言葉を口にしていた。ずっと心の奥で澱みになっていたなにか、ようやく取り除けた感覚がそう言わせたのかもしれない。

 リビングに行き、ダイニングテーブルに腰かけながら、テレビをつけた。いつの時代も変わらないワイドショーをなんとなく見る。

 その時、ガラス戸から、再びあの来客が入ってくるのが見えた。

「なんだまた来たのか」

 白毛に所々黒毛が混ざった、牛みたいな模様の猫。

 前と同じく、食器棚の上に、我が物顔で乗っかった。

「大した態度だな、お前はなんの悩みもなくていいよ」

 微笑を浮かべてそう言ったその時、

「え……?」

 空気が凍りついた。目の前の空間がぐにゃりと歪んで見える。

「な……んだ、これ……」

 そして、猫がガラス戸にヒビを入れんばかりの咆哮を上げた。

「なっ⁉」

 テーブルが激しく振動し始めた。横に縦に、悪い霊でも宿ったかのように家の床を激しく叩く。

 必死にそれを抑えようとするが、床までなにかおかしい、立つのが難しいほど、震えている。

「くっ!」

 必死にテーブルにしがみつく。食器棚がすさまじい音を立てながら、中の皿やコップを吐き出した。

「地震か⁉」

 ようやくそう判断した。テレビに映ったスタジオもかなりの音を立てて揺れている。司会のキャスターが、しゃがみながら、冷静になってテーブルの下へ退避するよう呼びかけていた。


 修二もとっさに小学校で散々やった避難訓練を思い出して、そうやろうとしたが、依然として揺れは収まる気配がなく。しゃがみながらテーブルにしがみつくのがやっとだった。

「修二!」

 奥の和室から母の声がした。

「地震だ! そっちは⁉」

「大丈夫だ! 動くんじゃないよ!」

 そう大喝してきた。取り敢えず無事のようだ。

 その時思った。あの二人の事を。

「ゆ……き!」 

 揺れは一向に収まる気配がない、これまでの人生でこれほど長く続く地震は初めてである。照明ランプが回転木馬のように回り続ける、備え付きの電話から受話器が外れて、床に落ちた。

 キッチンに目をやると冷蔵庫がホラー映画のように振動している。あれでは中は大惨事だろう。壁に掛けてあったフライパンや鍋蓋はすべて見えなくっており、床を踊っている音が聞こえた。

「どうなってんだ……⁉」

 テレビ番組はいつのまにか終わっており、緊急事態を告げる画面が写し出されていた。

 五分はそのままでいただろうか、ようやく収まってきたようで、立ち上がり、辺りの様子を窺う。

「う……あ……」

 強盗にでもあったのかと思えるほど、家の中はぐちゃぐちゃになっていた。

「母さん!」

 呼びかけたと同時に、母が部屋に入ってきた。

「なんてこったい……」

 リビングの惨状に言葉を失う母。

「地震だろ、でも……!」

 なにか異様な感じがする。猫はいなくなっていた。

 母がキッチンに向かって駆けた。なにかに必死の目を走らせている。ガスの元栓が閉まっているか調べたのだろう。

 戸を開いて外を見ると、

「ああ……!」

 塀が崩れて、家の敷地が道路まで直結していた。

 緊急アラームがあちらこちらで鳴り響いている。どこかで事故が起こったのだろうか。

「修二! これは普通の地震じゃないよ!」

 母の怒号のような叫び、振り返ると網戸が外れているのが見えた。

「一体どうなって……⁉」

「おら! これでさっさと行きな!」

 母がなにか殴るほどの勢いで渡してきた。自転車の鍵、

「え?」

「なにぼさっとしてんだい⁉ 由希ちゃんのとこに行きな! あそこは海岸沿いだろ!」

 それを聞いてすぐに理解した。


 波が押し寄せてくる!


「わかった! ここは……!」

「いい! さっさと行け!」

「ああ!」

「死ぬんじゃないよ!」

 自転車の鍵を開けて、またがると同時に全力でペダルをこいだ。父も気になったが、今はあの二人を助けねばならない。東区までの国道に向けて、自転車を走らせた。

 道路のあちこちが盛り上がっているかと思えば、陥没している箇所もあり、なかなか思うように進めない。一瞬、駅に行こうかと思ったがすぐにその考えを振り払った。この惨状で電車が運航しているはずがない。

 あちこちで煙が上がっており、炎上している車すらあった。大通りのカフェやストアの窓ガラスにはひびが入っており、緊急警報が鳴り響いている。

 身動きが取れないでいる車の脇を抜けて、道路をひた走る。


 早くも、息が乱れてきた。平坦な道ならいざ知らず、でこぼこに歪んだ道を車輪で走るというのはかなりの体力を消耗することだと身に染みて思い知る。

 電柱が倒れており、自転車を持ち上げて、超えて行ったところに今度は、トラックが横転していた。まるで自分の進路を遮るかのような、妨害に赫怒するも辺りの人々の動揺も尋常ではなく、悲鳴が響き渡っている。誰かが、トラックの下にいるのかもしれない。手を貸したいが、今は、自分の、そう自分の家族を助けねばならない。心で詫びて、ひたすらにペダルをこいだ。

 西浜区と東区の間の中央区にようやく差しかかった、後は国道沿いにまっすぐ行くだけだが、なにかの振動音が再び鳴り響いてきた。


 また地震か……?


 そう思って自転車を止めて、足をつけるも地面は動いていない。


 地震じゃない……? いや、これは……!


 そう思った次の瞬間、黒い影が轟音とともに迫ってきた。それは、


 嘘だろ⁉


 巨大な津波が、あらゆるものを吞みこみながら道路を埋め尽くす勢いで接近してくる。あれに呑まれれば命すら危うい。自転車を捨てて、目に入ったビルの梯子にしがみつき、そこを登っていく。

 一気に上まで上がっていき下見ると、

「ぐあ……!」

 たった今自分がいた場所が、土気色の波に埋め尽くされていた。

 波が自分がよじ登っているビルを激しく揺らす。振り落とされないように懸命に耐える。

 ようやく上まで上がってから、下を見て呆然とした。

 建物が建物を押しつぶす、あまりにも非常識な光景に言葉を失う。

「あ……う、由希さ……ゆきぃぃぃ!」

 彼女の名前を絶叫していた。


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