ドルフィンボーイ

星向 純

1.ぼくの生い立ち

 青い海が、ぼくのふるさとだ。

 その海を、人間たちは「御蔵島沖みくらじまおき」と呼んでいた。


 そこは、青く、深く、き通った、暖かく、流れの速い海だった。

 海底は急な岩場になっていた。岩場には明るい陽光がり、珊瑚さんごや海草が着き、魚やエビたちの住まいになっていた。魚もエビも、エビを食べにくるイカも、とても美味しかった。


 母はその海でぼくを産み、育てた。

 ぼくが産まれて初めて見たものは、青い海のかがや天井てんじょう……海面だった。ぼくが初めて感じたのは、ぼくが海面で呼吸できるよう押し上げてくれる、母の鼻面はなづらの固さだった。

 ぼくは父を知らない。ミナミハンドウイルカは父親を知らない。イルカの子育ては、母親がするのだ。


 母はぼくに、海で生きるための様々な方法を教えてくれた。

 <アジの群れを取り囲みなさい>

 ぼくは、母と一緒いっしょに、そうした。アジの群れは、丸く固まった。ぼくは、まだ赤ちゃんばなれしたばかりだったので、びっくりした。

 <うわあ、まるくなった!>

 <さあ、すくい取るように食べていきなさい>

 ぼくは、ぴちぴちしたアジを、おなか一杯食べながら、お母さんはえらいと思った。

 フグやウツボや、ミノカサゴは放っておくように教わった。

 <毒のある生き物です。追いかけるのは、無駄なことです>

 <はーい>


 そして何より大切な、イルカの言葉、イルカの歌を教わった。

 母は、御蔵島みくらじまの生まれではなかった。人間たちが天草灘あまくさなだと呼ぶ、豊かでおだやかな海からはるばる泳いで来たのだ。

 母は、ふるさとの天草灘に伝わる、イルカの昔話を教えてくれた。それは、イルカたちののんびりとした歴史の連なりだった。



 ――晴れた日、漁師の船から、きらきら、きらきら、降ってきて……。

 足のけた、ひとでのような、珊瑚さんごの枝の、折れたような、きらきら、きらきら、舞い降りて……。

 かしこいイルカは、つかまえて遊び、投げ上げて遊び、舞い降りてはのぼり、昇っては舞い降り、きらきら、きらきら……。

 かしこいイルカは、漁師のおくり物、大切にし、わだつみの、いろこのみやに、かざき……。

 きらきら、舞い降りて、飾り置き、きらきら、舞い降りて、飾り置き、いつまでも、いつまでも、きらきら……。



 ぼくは不思議に思い、母にたずねた。

 <漁師の贈り物は、なんだったの?>

 母は、おごそかに答えた。

 <きらきらしたものです>

 <そうなのか……>


 母は、賢明けんめいな子育てを行った。だが、賢明さもむごたらしい現実には及ばないことがある。

 シャチも、母に劣らず賢明……いや、狡猾こうかつだった。イルカが御蔵島の海で子育てすることを、知り尽くしていたのだ。


 ある晴れた日、ぼくと母をシャチの群れが襲った。母はぼくとシャチの間に割って入り、ぼくを逃がそうとした。

 <逃げなさい! 生きるのです!>

 その後のことは、よく分からない。

 気がついたら、ぼくはシャチの群れに囲まれていた。

 まれては放され、また噛まれては放された。海中深く沈められ、息ができなくさせられては、放された。

 群れは、シャチの子にイルカのりかたを教えていたのだ。

 海は、血の色で満たされていた。ぼくは体中を噛み傷だらけにされ、もう駄目かと思った、そのとき……。


 人間の乗った船が近付いてきて、頭が割れるような轟音ごうおんを放った。轟音は、船から海に突っ込まれた、鉄の棒から発していた。

 シャチの群れは逃げ散った。ぼくは波間なみまに漂っているところをあみで救い上げられた。

 それが、ぼくの育ての親であり、ぼくに人間のような知恵をさずけてくれた、荒熊あらくま教授との出会いだった。

 「おお、かわいそうに……今、傷の手当てをしてやるぞ」

 当時のぼくは、まだ、人間の言葉が分からなかった。だからぼくは、荒熊教授の温かく、分厚いてのひらを感じながら、ぶるぶる震えていただけだった。


 荒熊教授はのちに、この日の思い出話をしてくれた。

 「私は、お前の母を助けることができなかった」

 ぼくは、この時にはもう、人間の言葉で返事することができた。

 「やはり、母は殺されていたのですね」

 教授は、プールサイドに横たわり、ぼくの背中をでながら言った。

 「手は尽くしたが、すでに遅かった。それでもお前のお母さんは、最後に、おまえに輸血することができたのだ」

 「ぼくの体には、母の血が流れているのですね」

 教授は、陽に焼けた顔を、泣き笑いのようにゆがめた。

 「そうだ。ユウキよ、母は、お前の中に生きている……」


 ユウキ。それは、荒熊教授がぼくに与えた、新しい名前だった。



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