第10話汚れた記憶

それは十年ほど前の出来事であった。

高校から帰宅した水原瑠加が目にしたものは、変わり果てた末の妹瑠美の姿だった。

口の両端から白い泡とよだれを垂れ流し、その大きな瞳は瞳孔が完全に開いたままだった。硬直した体は、まったく正気というものを感じなかった。

だが、ほんのかすかではあるが呼吸をしていた。それがわずかながらの希望であった。


傍らでは、泣きじゃくる武瑠が立っていた。


彼らは隠れて、ある遊びを行っていた。

それは、武瑠が瑠美の体内の水分を操り、幻覚や幻聴を見せたり聞かせたりし、夢の中にいるような気分に させるというものだった。

はじめはほんの些細な遊びであったが、それは回数を重ねるごとにエスカレートし、ついに生命の危機的状況に陥るところまできてしまった。

人間の欲望にはきりがない。

それは子供とて同じである。


「瑠美が……瑠美が……もっともっと気持ちよくなりたいっていうから……」

涙と嗚咽まじりに、武瑠は言った。

「壊れちゃったよ」

ゲホゲホと咳き込む武瑠を瑠加は優しく抱きしめた。

ぐいっと柔らかな胸に武瑠の顔を押し当てる。

ふくよかな胸に抱かれる武瑠は、少し落ち着いたようで、呼吸を整えていた。

スースーと寝息のような息をする武瑠の頬の涙を、瑠加はそっと舐めた。

生暖かいそれは、少し塩気かした。

「お姉さんにまかせなさい……あなたは何も悪くないわ……瑠美を完全には死なせないわ……」

そう言い、瑠加は硬直しながらも微かに震える瑠美の小さな体を抱き上げ、自室に引きこもった。

カッターで指先を切り、流れ出す血液でフローリングの床に複雑怪奇なる魔方陣を描く。

低い音律と高い音律の奏でる呪を唱える。


それは彼女らの家系である白梅に伝わる秘術であった。

人体に流れる体液を操作し、成長するエネルギーをすべて、肉体の維持に使用するというものであった。

魔術師としては、まだまだ未熟である瑠加にとっては、かなり高度な技術を必要とする難しい魔術であった。

だが、やるしかない。

このまま放っておけば、妹はこの世からいなくなってしまう。

たとえどのような形であっても、生きていて欲しい。

血をわけた肉親故のそれは切なる願い。

汚れた願いであるかもしれないが。


魔方陣の中で、目を見開いたまま、ゆっくりとした呼吸をする瑠美を見て、長女の瑠加は安堵のため息を漏らした。

どうやら秘術は成功したようだ。


いつの間にか部屋に入ってきていた武瑠がそっと血だらけの瑠加の指をなめあげる。

口いっぱいに指をいれると頬すぼめて、強くすった。

口腔内にさびに似た鉄の味が広がった。

よだれだらけになった指が口から離れると、出血は収まっていた。

「一応は魂の定着に成功したわ。でもね、もっても後十年ってところだわ。そのころにはまた別の入れ物が必要になるの」

そう言い、濡れた手を彼女は美味しそうに舐めた。武瑠の成長途中の体を力強く抱き締めるとそっと唇をかさねた。


飛び散ったガラスの破片を避けながら、朱椿伊織はそのオフィス内を見渡した。

紙が散乱し、破裂したウォーターサーバーのボトルが転がっていた。

床は一面水浸しだ。

靴にかかる水が不快だった。

「まったく派手にやりやがったな」

面倒臭そうに煙草に火をつけ、本宮文彦は言った。

ふわりと紫煙をくゆらす。

「防犯カメラにはなにも写っていなかった。巡回の警備員は眠らされていた。まあ、用意周到であったが、どうやらそうも言い切れないところもあるようだ」

ちらりと窓際に微かに残る血液を見て、文彦は言った。

「そのようね」

形の良い顎をなで、伊織はこたえる。

よく引き締まった腹部に両手を当て、彼女は精神を集中させる。

その場所は東洋医学で言うところの丹田と呼ばれる場所である。

大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。

かっと目を見開くと、その瞳は真っ赤に染まっていた。

充血しているのではない。

瞳の色がかわってしまっているのだ。


「鞍馬流狗道術‘’心‘’」

静かに、冷たく伊織は言う。


彼女の体が青白いオーラに包まれた。

心の力が魔力となり、体外に溢れだし、肉眼でも確認できるようになった。


それは彼女の家系が司る魔術の流派の名称であった。

朱椿の家は天狗と呼ばれる超自然の存在の能力を人の身でありながら、操るのである。

天狗の能力とは‘’風、炎、飛、剛、心、幻、時‘’の七つの力である。

朱椿伊織が扱えるのはそのうちの三つ。

すなわち飛、剛、心の三能力である。

「心」の力は人や物に染み付いた記憶を読み取り、あるいは操作することができる魔術であった。


赤い瞳には、その土地に刻まれた過去の光景が写し出されていた。

「おいおい、本当かよ‼️」

甲高い声で、思わず伊織は言ってしまった。

彼女の瞳には、水を使役する魔術師とそれと戦う褐色の肌の女戦士の姿がはっきりと見えていた。

激闘の末、腕を切り取られた魔術師は窓から飛び降りて、逃げていった。

「これは驚いたわ。魔書よ」

額から流れる汗をそのままに、伊織は言った。

手のひらで汗をぬぐうと、その赤い瞳は元に戻っていた。

苦虫を噛み潰した顔で文彦は伊織の猫のような瞳をみつめる。

「おい、今、魔書っていったよな」

ぐりぐりと携帯灰皿に煙草をおしつけ、その中にいれる。

「うん、そうよ。変態の魔法使いがここで小柄でかわいらしい感じの女の子を拘束したの。でもね、彼女はきりぬけたわ。魔書から女戦士をよびだしてね」

その目で見た事実をたんたんと伊織は言う。

「その女の子の名前は、幸村雪というみたいね」と付け加えた。


ちっ、と誰にでも聞こえるほどの舌打ちを文彦はした。

ぼりぼりと大げさに頭をかく。

「またあいつか。本郷字朗め……どれだけ世の中をかき回したら気がすむんだ」

聞き取りにくい声で、ぼそりと言った。




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