第4話 七月二十五日 終業式

二週間前に例年よりも早く梅雨が明けた。連日三十度を超える暑い日が続き、体力的にだんだん辛くなってくる今日。蝉の声がうるさくなって、 日差しが強くなる。


 僕にとっては絶望的な、みんなにとっては最高な夏休みが始まる。


 やけに時間の流れを早く感じて、いつのまにか終業式も教室の大掃除も終わっていた。ぼんやりしていた僕に心配そうに声をかけてくれた人が居たような気もするけれど、よく覚えていない。そんなぼんやりしたまますみれと一緒に帰路についている。ぐるぐると色んなものが回っているみたいな気がした。


「どうかしましたか? 先程から元気がないように見えます」


「あ、ああ。暑いから」


 ヘラリと笑ってみせる僕にすみれはさらに不安そうな表情を浮かべた。熱中症なら危ないとか、夏バテにはさっぱりしたものがいいとか、自分が知っている限りの知識を必死に教えてくれる。そんな姿に僕はまた彼女に惹かれていく。


 心の奥がぎゅっと痛んで。どうしようもなくて。どうして離れなきゃいけないんだ、と普段は押し殺せる感情が湧き上がってくる。暴れまわる感情を、抑えきれなくて僕は感情のままに口を開く。


「ねえ、すみれ」


 まだ暑さ対策について話していたすみれは、首を傾げて僕の目を見つめる。やっぱりすごく綺麗な瞳だった。星も月もない夜空の色。


「駆け落ち、しようか」


 暑さに乱された頭はうまく働かなくて、本音がポロポロと口からこぼれ落ちた。溜め込んでいた思いが溢れ出して、じんわりと痛み出す頭でよく分からないまま言葉を紡ぐ。


「僕はすみれが好きだよ。何よりも大切で、卒業したら離れ離れなんて、そんなのごめんんだよ。今までずっと隣にいたのに。そばにいたのに。離れたくないよ、すみれ」


 すみれはびっくりしたようなかおで固まっている。母親から急に離された赤子のようなどうしたらいいのか全く分からないという表情を浮かべて、微動だにしない。その顔を見て、冷水を浴びせられたように働き出した脳みそは的確な謝罪の言葉を考え始める。


「ごめん、すみれ。嘘だから。そんなに驚くと思わなくて、暑さで頭やられたかもしれない。暑さ対策にはなにがいいんだっけ」


「いやです」


 僕の乾いた笑いを、すみれが遮った。


「嘘なんて嫌です。私は、真一と話すのが楽しいです。真一がいない休み時間は悲しいです。昨日の私も同じこと考えていた気がするんです。たぶん、一昨日も、その前も、ずっと。だから、だから嫌です。しましょう、駆け落ち。どこまでも二人で逃げるんです」


 すみれの白くて熱い手が僕の手を掴んだ。彼女の声は泣きそうで、僕まで涙が出そうになる。僕の手を掴んだまますみれは駅に向かう。ぎこちなく足を動かしながら、僕はすみれの後を追った。


 気の早い蝉の声がうるさくて。喉がからからに乾いて。バカなことをしている自覚があるのに止まろうとは思えない。


 僕の手を引くすみれの手が熱くて、それが妙に心地よくて、手が離れてしまうことだけが怖かった。


 僕らは電車に乗った。首都とは逆方向の海へ向かう電車だった。駅で買ったパンをもそもそと口に運ぶ。すみれはなにも話さない。改札をくぐった後につなぎ直した手が、熱い。


「海に行ったらなにをしようか」


 僕は初めてすみれの手を握り返した。


「ずっと眺めていたいです」


「じゃあ、そうしよう。気がすむまで」


 電車ががたんごとんと揺れる振動に身を任せながら、僕らはくだらないことをたくさん話した。今日の僕がどんなにぼーっとしていたかとか。天気がいいこととか。電車の冷房が効きすぎていることとか。そんなくだらなくて、僕でさえ明日には忘れてしまいそうな話ばかりだった。


 でも僕が一生忘れられるはずがない話だった。


 繋いだ手にはお互いの汗が滲んでいたけど、離す気にはなれなくて僕はぎゅっと握りしめる。


 まだらだった乗客は、終点の四つ手前で完全にいなくなった。会話が途切れてすみれは窓の外ばかり見つめていて、僕は目を瞑っている。線路の軋む音が耳に心地よかった。


 電車が終電の駅のホームに滑り込む。大きめの駅から一歩外に出れば、人気のない海が広がっていた。


「すごいです。私は海を初めて見ました」


「……僕も初めて見た」


 幼いころに互いの両親に連れられて、この海に来たことを当たり前のように忘れているすみれに鋭く胸が痛む。


 僕ばかり、思い出が増えていく。


「もう少し近くに行ってみようか」


「はい。水はまだ冷たいでしょうか」


「どう、かな。もうすぐ海開きのはずだから、温かいと思う」


「泳ぎますか?」


「僕はいいよ、水着持ってないし」


「そうですね。海に来るのに水着を忘れました」


 はにかんだように笑うすみれが、ただ愛しい。その笑みは太陽の中にとけこんでしまいそうなくらい眩しかった。忘れられない表情がまた一つ増える。明日の彼女の中に僕は居ないのに。


「どうかしましたか?」


「なんでもないよ」


 笑った僕にすみれはホッとしたように息をついた。それでもいつもよりも表情が硬い彼女は隠しているだけで、ずっと緊張しているのかもしれない。まだ繋いだままになっている手をぎゅっと強く握る。


「風が気持ちいいですね」


「そうだね、心地いい」


 キラキラした海を熱い浜辺に立って見つめる。


 肌を焦がすチリチリとした痛み。すみれから伝わってくる体温。


 そのすべてを忘れないように、頭の片隅に焼き付ける。簡単には思い出せない場所に。けれど簡単には忘れないところに。


「真一」


「どうした?」


「少しだけ水に入りませんか?」


 日が傾いて、もうすぐ海に太陽の片足がつかってしまいそうな時間。すみれは思い切ったようにそう言った。僕はその緊張した声になんだかおかしくなってしまって、小さく笑いをこぼす。


「うん、靴を脱いで入ろうか」


 繋いだ手を離して、靴を脱ぐ。ズボンの裾を折る動作に無性にワクワクしている自分がいた。すみれが楽しそうだからかもしれない。ぎこちない動作で海に近づいていくすみれの後ろをゆっくりと追った。


 波打ち際でまだ少し冷たい海水が足をさらっていくのを楽しむ。すみれは言葉も出ないくらい感激しているみたいだった。子犬みたいに波と追いかけっこを始める。僕はそれを眺めているだけでよかった。


 ただ、幸せで。


 どうしようもなく、幸せで。


 この時間が終わらなければいい、と願った。願っても仕方ないのに、そんなことばかり願ってしまう。本当に、切実に。


 ─────ぴしゃり。


 苦しい思考を遮るように冷たい水が顔にかかった。


「ふふっ、真一びっくりしましたか?」


 楽しそうなすみれの顔に怒る気も失せてしまって、僕は思わず笑う。すみれは釣られたようにニッと笑顔を見せた。そのままもう一回水をすくう動作に入る。僕は足を勢いよくあげて、すみれに水をかける。短い悲鳴をあげた彼女は、そのまま海水の中に座り込んだ。


「あははっ」


 久しぶりに僕は声を上げて笑う。


「大丈夫?」


 なんだか楽しくなってきた僕は、笑いながらすみれに手を差し伸べる。


 ぐっと強く手を引かれた。


「うわっ!」

 ビシャッと全身に水がかかる。手をついた先には細かい砂。指の間に砂と海水が流れ込んで、制服がずっしりと重くなる。隣ではすみれがからからと笑っている。


 僕も一緒になって海に座り込んだ。二人分の笑い声が、真っ赤な海に染み込んでいく。カラスの鳴き声が、笑い声と一緒に脳にこびりついた。沈んでいく太陽を見つめながら笑い転げたことも、僕はきっと忘れないのにすみれは明日には忘れてしまう。


 覚悟していたはずなのに、それがただ苦しかった。


 分かっていたことなのに、それがただ痛かった。

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