第24話 改造島

 ヒカルは見当をつけた小さい五つの島を巡るつもりだった。ところが交通費を節約しているうちに日にちが過ぎていく。九州本土の中はともかく、その先は船が無いと前に進めない。ある程度の島には定期航路があっても、その先が問題だ。


 事故ったり、虫歯が悪化したり、何やってんだろ。なんで映画の主人公は冒険に出かけても虫歯にならないかなぁ。歯、磨ける状況じゃないのに。いてぇよぉ。歯医者さんこわいなぁ。ふぃぃ、知らない町の歯医者は特にこえぇ……

 カバンの中の、ママが無理やり持たせた健康保険証を真夏の太陽に掲げた。


 おれは今、冒険してるんだよな? トイレのことで結構考えるけど。どの場所も誰かの持ち物。無料のトイレって、誰かの税金か企業のサービス、ありがてぇ。


 冒険の物語を創るんなら、舞台は原始時代だな。土地は誰のものでもないから。どこでもトイレ。


 やっと来たぁ。

 船酔いでゲッソリしたままフェリーを降りた。


 港のコンクリートは真夏の日差しでギラギラ発光し、魚の臭いまで焼ききっている。暑さでヒカルの強気はしぼみ切った。歯の痛みが取れてから、何でもできる気になっていたのに。眩しい広い海を見て、その深さを想像し、ますます弱気になった。

 ここに着くまでいろいろ考えたやんか。


 ヒカルは漁師さんたちが船の片付けに入るまで、辛抱強く待った。一番話しかけやすそうに見えるおっちゃんを観察する。めどをつけてある島に連れて行ってもらえないだろうかと、ビクビクしながら声をかけた。


「漁師は誰もあの辺には行かんとよ。潮の流れがな、押し返すと。無理して近づいて、転覆した船は数えきれん。やめとき」人懐っこそうな、そのおっちゃんが言った。

「どうしても行きたくて」ヒカルは、どう言えば相手が自分の思い通りにしてくれるのかわからない。頭を掻いた。


 どの学年でも、対人関係が抜群にいい奴が何人かはいた。コツを聞いときゃよかった。持って生まれた資質や家庭環境の差とは思いたくない。コツなら自分で何とかなるはずじゃないか? 頭を掻きすぎて血が出そうな気がする。頭頂部の髪の先が目の前にかかった。

 この旅に出てから一度も散髪に行ってない。さらさらした髪質のおかげでボサボサにはならなかった。


「船が着ける岸も無いとよ」

「じゃあ、近くを通る漁師さんはいませんか。ゴムボート買って、出直します。途中の海の上でゴムボートに乗り換えます」ヒカルは小柄な体から勇気を振り絞って食い下がった。

「そこまで言うとなら、」そのおっちゃんは五艘先の漁師に声をかけてくれた。「よおうぃ!」

 ヒカルは折り畳みゴムボートを手に入れるために再びフェリーに乗ることにした。



 ゴムボートを手に入れて漁船に乗せてもらうことができた。出航した大地の影が、遠くに霞んで大気の中に溶けて消えた。大洋の水が足のすぐ下、甲板に届きそうな位置で重そうに波打っている。ゆったりとうねる海面は、青が濃すぎて黒にさえ見える。


 ここで落ちたら? 巨大タコが下からアシを伸ばして来たら? 海底のひび割れからガスだとか、何かが噴出してるかもしれない。


 怖くて怖くて船酔いすることもできない。勇気を振り絞って進行方向に目を凝らした。輝く夏の海面に目指す島影が幽霊のように漂っている。


「できるだけ近くまで行ってやろうとおもったばって、呪いが怖いけん、悪いが、やっぱり近く通るのはやめるわ」漁船を操縦するおっちゃんが言った。「おやっさんが言うからあんたを乗せたけど、本当に悪いな。おやっさんは事故っちいうけど事故やない。祟りや」

 おやっさんという言葉を使ったが、このおっちゃんの方がよっぽど年長者だ。「なんかあるんすか」


「むかぁしっから、あの辺に近づいて帰ったもんはおらんとよ。風向きによっちゃ吠える声をきいたもんもおると。あすこだけ変な雲がいっつも掛っとうと。あれ、ほら、すり鉢をひっくり返したような雲が、あの島にだけ、笠みたいに。なんかを隠すみたいにな。祟りや。ワシ見たんや。その笠みたいなんの上に、風車みたいな雲ができるんや」


 しかたない。ゴムボートを広げた。おっちゃんは電動エアポンプをバッテリーに接続してくれた。


 ライフジャケットのベルトを確認し、ボートに移った。

「ありがとうございました、本当に感謝しています、こんなとこまで連れてきていただいて」そう言いながら自分の顔が引きつっているのがよくわかった。


 静かで青黒い波がボートを上下に揺らす。果てしない深みが、漁船で感じるよりも近くに迫っている。


「あんちゃん、ほんとにいいとね。海上保安庁の船でも助けに行けんとよ。ヘリでも近づけん。風向きがあそこだけおかしいとよ」

「大丈夫です!」 ぜんぜん、ダイジョウブじゃないですっ!


 思い切ってオールを海中に入れた。漕ぐのは想像以上に大変だった。


 汗が益々吹き出す。漕いでも漕いでも、近づくことができない。


 うねりに追い返される。岸がうねる波の向こうに見えても、すぐに遠ざかる。


 ここで遭難するわけにはいかない。島を見据えた。


 波が削る絶壁の上は、深い森に蔽われ、波打ち際に生えている松がところどころ海面まで枝をおろしている。


 岸、岸、岸!


 漕ぐだけで頭の中は空っぽ。腕も肩も背中も腰も悲鳴をあげている。疲れで意識が薄らぎそう。


「でも、アンタにはできやんことやないと思うよ」急に大学の友達の三重弁が蘇った。


 力が湧きあがる。うねる波のタイミングを計り漕ぐリズムを、脳内に録音された音楽のような三重弁のリズムにひたすら、合わせる。


 いける、そう信じたときオールの片方が引きずりこまれた。「うわっ」必死で抵抗したが小さなゴムボートは転覆しヒカルはライフジャケットの前で腕を交差させた。


 ライフジャケットのサイズが大きすぎるものしか手に入らなかった。あわてず、両腕をあげない! じゃないと脱げる! 腕を前で組む!


 おかげで顔は自然に水の上に出た。ホッとしたのもつかの間、脚が引っ張られるのを感じた。海中を除くと輝く長い海藻が揺らめいている。


 足が海藻に引っかかった?

 髪の毛みたいに細くて黒い海藻。でもなんで引っ張る?


 ぞっとする美しい顔が下から近づいてきた。

 うそだ! 人魚? 人魚だ!


 その白い長い指がライフジャケットのベルトとファスナーを外すのを感じる。

 やばい!

 必死にベルトを掴みながら人魚を蹴った。つるんとしてつま先に抵抗を感じない。いつのまにか目の前は水。鼻に海水が押し入ってきた。

 苦しい!


 人魚が一人ではなく、たくさんいる。次の瞬間、気を失った。

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