第12話 高校生

 翌年、二〇一二年四月、由希は高校生になった。


「皆さん、ご入学おめでとうございます」式辞、長いのかな、寝そうかな。「知性とは、変化に対応する力のことです」

 なぜだか、パパを思い浮かべた。変化はストレスみたい。計算がどっぱやい。電卓なしでどんな計算でもできる。でも内気。

 反対に、ひょろひょろ痩せ体質のママ、変化はストレスどころか飽きっぽい。パパを振り回している自覚がない。心が傷つく、って感覚、子供のころから無いらしい。

 この二人が小学校か中学で同じクラスだったら、同性だったら、いじめられる側といじめる側になるんじゃね? いじめる側は認識してなくて。


 入学式の翌週、一階の五組に初日から病気で欠席している女子がいることを知る。それを聞いたときは可哀想と思った。が、新しい生活に馴染むのに必死で、聞いて数秒後には忘れてしまった。


 入学式して二週目の日曜の夜、入院していた叔母が電話をくれた。

「あたしと同室だった子、覚えてる?」

「うん」

「あの子ね、あんたと同じ高校!」

「そういえば」由希は階下のクラスのことを伝えた。


「その子ね、高校入試の得点、九十七パーセントだったんだよ。院内入試でね、早朝から試験官三人来てね、別の部屋で受験してた。病室戻ってきて、当日夕方のテレビで、解答やるでしょ、あたしも一緒に見てたんだ、ほとんどマルでさ、一緒にワーって喜んでたんだ」

「アタシ」由希は慎むことにした。アタシと同じ点。「スゲー。でも、院内入試だから特別な問題なんでしょ?」


「全部みんなと一緒だって。すごく厳格だったよ」

「ふぅん」由希はちょっと安心した。そんな自分を冷たいのかな、と思った。


「入試の前、十二月から二月いっぱい、抗がん剤治療でぐったりしててね、よく泣いててね。学校行きたいって。三月、入試の直前、手術に備えてMRIやらなんやら検査たくさんでね。入試の三日前なんか、担当のお医者さんが、手術後は一生、自力で歩けなくなる、て言ったの。あたしにも聞こえた。ホントはその子のママは二月には知ってたんだけどさ、どう伝えればいいか分からないって、あたしに言ったんだ」

「そういうことって、始めに説明ないん?」


「最初はね、あたしも聞いてたんだけどさ、いや、聞こえてきたんだよ。立ち聞きしたわけじゃない。腫瘍がある部分、右坐骨の骨だけを切り取って、七十度弱くらいのお湯に浸して、悪い細胞を殺して、元に戻すって計画だった」

「骨を切り取る? そんなことできるん?」心の許容範囲が追い付けないから、ならあたしも大腿骨を切り取って付け足して背高くしてもらお。百六十五センチがいいかな。そう紛らわそうとする自分が愚かに思えた。


 叔母はいつものようにしゃべり続ける。放射線治療の辛さは波があるらしい。今日は良いんだろう。「入試当日の朝、採血必要なのに、これまで何十回も同じところで採血したから血管が固くなって、うまく採血出来なくなっててね、看護師さんが、お医者さんに頼みに行くって行ってしまった。朝食も抜き。受験開始時間十分前にお医者さん走って来てね、利き手の甲から採血したの。あたしも経験したことあるんだけど、チョー痛い、肘の内側でも痛いけど」

「う。想像しただけで痛い」


「受験に遅刻しそうなのに、歩くことも大変になってたから、看護師さんが車椅子、用意してくれて、それでギリギリ間に合ったらしい。三日後の別の高校の入試んときは、抗がん剤の影響でまつ毛も抜けてさ、直前の夜に! 朝、起きたら、まつ毛がたくさん目に入って、目が開けられなくなってた。可哀そうに! 朝六時半に着いたその子のママが、ガーゼをぬるま湯に浸して両目を覆ってた」


 由希は苦しくなってきた。

 ひとごと。いろんな人がいる。そんな人もいる。アタシはアタシ。他人事だと思うよう、自分に言い聞かせる自分に後ろめたさを感じた。

 後ろめたさなんて感じる必要はないのに。たまたま、そういう人が同じ学校にいただけじゃない。ダレの責任でもない。


 電話の後、自分の部屋でいつもの椅子に座った。近視が進んで、胸を張ると机の上の文字さえ見えにくくなった。

 背中曲がりそう。僧帽筋が減ったかも? 肩甲骨を寄せ、アーチェリーの弓を引く動作をしてみる。背骨を伸ばし目の前に並ぶ教科書の背表紙を眺めた。

 高一の理科が物理と生物でよかった。由希はページをめくった。


 なんか前にも見た気がする。これが生物の副教材。小さい文字で書いてあるはず、こういうことは。

 一秒で見開き二ページの内容、A3面積を頭に入れる。

 漢字とカタカナとひらがなって、表意文字と表音文字だから、速読にホントに便利。

 あった。がんと腫瘍……違うみたい?

 動物の体は全てチューブの構造をしている。入り口と出口。

 チューブ表面にできるのが癌。胃腸、肺、肝臓、前立腺、子宮、皮膚などにできる。

 チューブ表面で囲まれた、深部にできるのが腫瘍かぁ。骨、肉、脳など。

「癌は大人になるほど大勢の人が直面する。でも腫瘍は幼児にでもできる、ただ何十万人に数人」って、おばちゃんが言ってた。

 へぇ、一億五千万年前の恐竜の骨にさえ、異常な細胞が増殖した痕が発見されてるんだ。


 細胞の分裂、DNAコピー。この宇宙の成り立ち。量子論対アインシュタイン、両者を統合できるかもしれないM理論。


 十二歳の時は、完璧な物理法則で宇宙が動いてるって思ってた。でもアンドレイ・サハロフによると、宇宙創成の瞬間CP対称性が破れたから、宇宙には物質が存在し、地球に生物がいる。

 ふぅ、楽しい。変人? 生物部や物理部になら話しできる人いるかも。でも弓道部に入る。でも、でも。こんなこと喋れる友達、見つかる? いる。ふうぅ、マダ友達じゃないけど。下の階だし。アタシのこと知らないし。いつ学校来るのかな。絶対、友達になれそう。多分。量子論とボカロ、興味あるか、聞くチャンスあるかな。


 十月に入り同級生の数人から、同じ学校に双子が居るんだね、と言われた。違うというとその同級生たちはびっくりした。

 多分、あの子だ、学校、来れるようになったんだ。

 階段を降りる度に階段隣の五組をそっと覗いてみても、彼女を見ることはなかった。担任の先生に聞くと、たまにしか来れない、と答えた。


 十一月、体育で走っているとき、南門脇にある、青空を突くような高いイチョウが鮮やかに色づいているのに気が付いた。教室から遠くて知らなかった。


 次の体育の時間には葉が落ち始め、木の周りが落ち葉で黄色い絨毯になった。走りながら、一年前に病院の談話室から見たイチョウを思い出す。


 樹齢何百年も経つイチョウの古木には懐かしさを感じる人が多いらしい。


 由希も、燃える紅葉の中に鮮やかに光るイチョウを見るのは、十五年目よりもっと多い気がした。

 そのとき、保健室と体育館の間の通路を一台の車が歩く速度で門に向かって通り抜けた。何気なく見ると助手席に彼女が座っている。


 会ったことのない彼女だけど。

 髪型はボブでアタシと全然違うけど。

 確かに、アタシの横顔は、あんな風に見えるに決まってる。メガネの好みも同じ、目立たないフレーム。アタシと違って日焼けしてないけど。


 中三の暑い日、幻みたいな病院で見た自分が彼女だ。あのときの彼女はすごく日焼けして髪は長くて、あの頃のアタシと同じように斜め横で一つに黒ゴムでまとめてたけど。

 今、目の前にいる彼女は蒼白。彼女は走るアタシたちから目をそらすように進行方向だけを見てる。


 その車はゆっくり南門を出ていった。

 早退したんだ。

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