第1話 出会い

 吉野と別れて十分ほど歩きようやく家に着いた。玄関のドアを開けた後、電気をけて二階へと上がる。俺は母子家庭で母さんは一日のほとんどを仕事にてている。そのため家に居ることはまれだ。そういう意味では俺は一人暮らしをしていると言ってもあながち嘘ではない。

 部屋のドアを開けるとベッドの上に何かが乗っているのが見えた。よく見ると人の形をしている、というか人だ。


「……なんだ?」


 そいつは赤い着物に重量感のある大きなまげかんざしがいくつかさっていて立つのは苦しそうに見える。枕も首元までズレていた。慎重に近づき顔を確認すると薄く白粉おしろいが塗られていた。性別は女で間違いないだろう。

 窓は完全に閉まっていて傷ひとつない。玄関のドアは出る前にちゃんと鍵を掛けたし、ベランダもトイレもリビングも、家の隅々の窓はしっかり確認した。この女を起こして侵入経路を問いただしてもいいが、まだ何者かわからない。警察に通報しようにもこの光景を見てどう思うか……。つーか、他人の家に侵入して寝るとかどういう神経してんだ。

 俺は気を取り直し、部屋着を持ってそっとドアに手をかけた。この女がいる状況では着替えづらい。


「……ん」

「え?」


 今、こいつ喋った? もしかして起きてんのか。

 俺が体をベッドに向けると、女は目を覚ました。それから体を起こして俺と目が合う。長い沈黙。俺はどうすればいいんだ。

 

「……ぬし様は、どなたでござんしょう」


 女が先に口を開いた。「ござんしょう」ってなんだ。どっかの方言か。


「それはこっちのセリフだ。お前、どこから入った」


 俺が訊くと、女は困惑した表情で返す。


「ど、どこから? どこからとおっせられても……そんなこと、わっちが訊きとうござんす」

「ござんすって……」


 一体何がどうなってんだ。マジで混乱してきたぞ。

 らちが明かないので俺は女をリビングの椅子に座らせた。女は床を見て言う。


「畳がありんせん。それに冷たいざんす」

「全部フローリングだからな。それより、もう一回訊くぞ。お前はどこからこの家に入った」

「わっちにもわかりんせん」

「……じゃあ、まずは名前を教えろ」


 厳しい言い方だったからか、女はわずかにおびえた。だが俺の知ったことじゃない。


「わっちは『はつね』と申しんす」

「字はどう書く」

「源氏物語の『初音』と同じざんす」


 こいつは古典文学が好きなのだろうか。まあ、字はわかったからいい。


「年は?」

「十七ざんす」

「じゃあ高校生か。どこに通ってんだ? 俺の学校で見たことないけど」


 女もとい、初音は怪訝けげんな顔を俺を見た。変なことを言ったつもりはないが。


「……ぬし様は、何を仰られているざんすか?」

「は?」

 

 俺は自分の耳を疑った。内容だけなら小学生でも理解できる。


「どこの高校に通ってるのかを訊いたんだよ。中卒じゃない限り今は高校生のはずだぞ」

「ぬし様、それはどこの言葉でござんすか? もしやぬし様、くににでも住んでおりいしたか。その服も外つ国で買った物でござんしょう?」


 全然通じてない。調子狂うな。


「……質問を変える。お前が住んでる場所はどこだ」

「江戸町一丁目にある『桐須屋きりすや』という見世でござんす」

「……江戸町一丁目なんて聞いたことねぇぞ」


 東京にそんな地名あっただろうか。もしかして地方出身?

 初音は首をかしげてきょとんとしている。意思疎通は一生できそうにない。


「ぬし様は吉原に来たことがありせんか?」

「吉原?」

 

 吉原。吉原ってあれか。時代小説とかアニメでもたまに出てくる……。


「吉原遊郭のことか?」


 初音は「あい」と言って頷いた。マジで言ってんのかこいつ。

 

「お前、吉原に住んでんの?」

「さっきそう言ったでござんしょう。江戸町一丁目の見世だと」

「だから江戸町一丁目なんて知らねぇんだよ!」


 吉原遊郭の知識はほとんどないんだ。わかるわけがない。つーか、吉原遊郭って江戸時代だろ。今、二十一世紀だぞ。


「親の連絡先は? メールアドレスか電話番号、メッセージアプリのアカウントIDどれでもいい」

「……ぬし様の仰られていることがちっともわかりんせん」

「わけわからん方言でごまかすな」

「わけがわからないのはぬし様でござんすよ」


 こいつなんなの? マジでキレそう。俺は冷蔵庫から適当にジュースを取り出した。一旦落ち着こう。


「お前も飲むか」


 もはや警察に通報する気は失せた。初音が警官とまともに会話できるとはとても思えない。


「わっちは要りんせん」

「……なぁ、お前これの意味わかるか」


 俺が指さしたのはパックの「オレンジジュース」の文字。初音はジッと見て考え込んでいたが、結局首を横に振った。


「見たことも飲んだこともない?」

「ありんせん」 


 いまいち信じられないので俺はコップに入れて薦めてみた。初音は毒が入っているのではないかと警戒していたが、俺がただの飲み物だと言ったら素直に飲んでくれた。こいつ、簡単に騙されそうだ。


「……甘いざんす」


 だろうな。初音の思考はまったく読めない。

 時刻は午後五時を回り、俺は再び冷蔵庫を開けた。


「飯はどうする。腹減ってるならなんか作るけど」

「いえ、わっちは……」


 断ろうとしたのだろうが体は正直だ。初音の腹が大きく鳴った。素直じゃない奴。


「米でもいてやるよ。すぐにできるから待ってろ」


 初音は頬を朱色しゅいろに染めたまま、無言で頷いた。

 俺は部屋で服を着替えた後、キッチンに向かって冷蔵庫からレトルトカレーを取った。さすがに米だけでは足りない。

 本当はおかずも作りたかったのだが、俺の料理スキルは低いし、今から外に出て買いに行く元気もない。今日はカレーだけで我慢してもらおう。

 料理(というほどでもないが)は三十分も経たずにできた。皿をテーブルに置くと初音はじっくりとそれを見る。


「熱いから気を付けて食えよ」

「……米にかかっているこれは?」


 初音が恐ろしいものを見るような顔で訊いてきた。そんなに怖がらんでも……。


「カレーっていう調味料というか、味付けみたいなもんだよ。体に害はないから安心しろ」

「そうざんすか……で、では、ひとくち」


 初音は手を合わせてから箸でご飯をゆっくりと口に運ぶ。咀嚼そしゃくして顔をほころばせた。「美味い」という意思表示であることは容易にわかった。

 俺もカレーを口に運ぶ。甘口にしたのは正解だった。中辛だったら多分むせていただろう。初音が。

 初音はカレーが気に入ったようで次々と口に運んでいく。箸の使い方が上手いな。


「……どういたしんした?」

「いや、器用に箸使ってんなと思って。掴みづらくないか」

「そんなことはありんせん。むしろ、ぬし様の持っているそれの方が使いづらそうざんす」

 

 そう言って初音は俺の持っているスプーンを一瞥いちべつした。演技には見えないが、まだ確証が持てない。

 カレーを食べ終え、俺は初音をどうするか考えた。時間も遅いし今日は泊めるとして、問題は母さんにこの状況をどう説明するかだ。

 少なくとも、俺と初音が初対面であることは伝えるべきだろう。変な関係があると思われたら厄介だ。初音が吉原遊郭に住んでいる云々うんぬんは伝えなくてもいいな。話がややこしくなる。

 母さんが帰ってくるのはたいだい午後十時過ぎ。今は午後六時だからあと四時間ほどで言い訳を考えなくてはならない。うわぁ、めんどくせぇ。

 

「ぬし様」

「どうした。用があるなら手短に頼む」


 俺は今から言い訳を考えなきゃならんのだ。


「まだ名を訊いていなかったざんすな。教えてもらってもようござんすか?」


 言われて気付いた。まだ俺の名前は言ってなかったか。


高尾たかお蒼太そうただ。別に覚えなくてもいいぞ」


 安易に本名を教えるのはプライバシー的によくないかもしれないが、初音は多分悪用しない。相手がデ○ノート持ってたらヤバいけどな。漢字知られたら即アウトだ。怖い怖い。

 そんなことを思って内心ヒヤッとした俺に、初音が屈託くったくない笑みで言った。


「では『蒼太様』とお呼びいたしんすな」

「……初音、『様』は要らない。『さん』でいい」

「『さん』でござんすか?」

「ああ」

 

 俺は名前で呼ばれるだけでも恥ずかしいんだよ。初対面の男相手によく名前呼びできるな。

 言い訳はなかなか思い浮かばず時間だけが過ぎていく。一旦休憩しようと思った矢先、玄関からドアを開ける音がした。そして「ただいま」の声と足音。嫌な予感しかしない。そして予感は案の定、的中した。

 

「蒼太、その子誰?」


 おそるおそる声の方向に目を向けると、眉間みけんにシワを寄せた母さんの姿があった。俺の予想ではタイムリミットまであと二時間以上あるはずだったんだが……。


「蒼太さん、あのお方は?」


 初音は母さんにおびえているのか小声で訊いてきた。俺はもう言葉が出てこない。嗚呼……終わった。

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