Ep.17 廃墟の囚われ人

 寒々しい雰囲気を醸し出した室内は外よりも一層薄暗く、壁にはいくつか窓が取り付けてあったが、天気が悪いせいか、鬱々とした雰囲気は払しょくできそうにない。

 他に部屋らしい部屋も見当たらず、ざっと見た限り、畳三十畳ほどの広々とした空間には、パラパラと石ブロックやジュースの空き缶などのガラクタが転がっているばかりだ。


 だが、それだけではない。全体的にがらんとした場所に、十人ほどの少年たちが立っていて、全員が全員、むすっとした顔で彼女らを出迎えた。思いのほか若いのが集まっているようで、そこにいる彼らは全員未成年、せいぜい中学生や高校生あたりだろう。

 そんな彼らこそが、北山をボスとしたチーム、北山サトル一派といったところか。


 一対多数という圧倒的背水の陣のもと、己の浅はかな行動に大いなる後悔の念を抱いたのはその時が初めてだった。

 ――また私はやってしまったわ。単身で敵陣に乗り込むなんてどうかしている。

 燈瑚は恐怖に震える手を握り締めることで、なんとか冷静でいることができた。


「ボス、それはどこのどいつです?」

 舎弟の一人が警戒心を剥き出しで問う。たかだか二、三歳年上の女の子一人にここまで威圧的にならなくても良さそうなものだが、いかな相手であろうと油断をしない姿勢を貫いているのは、なかなかに抜け目のないチームだと思わず感心してしまう。


「彼女は千束香の妹さんだ。僕と同じ大学に通っている」

 舎弟たちの間からざわめきが起こる。

 千束香の妹? 兄貴と全く同じ顔だぜ。双子か。――突き刺さる数々の視線と共に、そんな言葉が耳に届く。

 

「北山君、話の続きをしましょう。そのために私はここまできたのよ」

 舎弟たちのざわめきを突っぱねるように毅然きぜんと言い放った燈瑚。

 状況は圧倒的にこちらが不利なのだから、話し合いの主導権くらいは自分で握っていたかった。けれど、残酷な北山少年はそれすらも許してくれないようで、


「ああ、そうだったね。でも、その前に……」

 北山は彼女を振り返った。それが合図であったかのように、一斉に襲い掛かってきた数人の舎弟が燈瑚の身体をいとも容易く組み伏せて、あれよあれよという間に細い腕や足首を結束バンドで拘束する。


「あ、ちょっと、何をするの! 放しなさい!」

 もちろん燈瑚は抵抗を試みたが、数人がかりでものすごい力で押さえつけられ、しっかりと抱え込んでいた鞄や買い物袋は乱暴に奪われ、あっという間に、いくら暴れようとも手も足も動かない状態にされてしまった。唯一、言葉だけが自由の身であった。


 そのまま、埃やら泥に汚れた床の上に転がされると、床から立ち上るかび臭いにおいがつん、と鼻を突き、息をするのも億劫になる。それでも、僅かに吸い込んだ埃が喉の粘膜を刺激して、燈瑚は激しく咳込んだ。


「ごめんよ、乱暴なことをして。でもね、君に余計なことをされないための用心をしておきたいんだ。許しておくれよ。ちゃんと君の質問にも答えてあげるから」


 北山は、その辺にあった石ブロックをざりざりと音を立てながら引き寄せ、その上にちょこんと腰を下す。


「えーと、なんだっけ……。ああ、そうそう、どうして、舎弟を襲ったのか、だっけ?」

 北山はそう言うと、どこか遠くを見るような目付きで語り始めた。


「僕はね、子どもの頃からなんでもできた。勉強も、スポーツも、楽器も、どんなことも、ほんの少しの努力でそつなくこなしてきた。どの分野においても一番だった。医者の両親のもとに生まれ、生活にも何一つ不自由なく、様々なものを与えられ、欲しいと思ったものは口に出す前に僕の元へやってきた。子どものころから僕の手には、望んだものがたくさん入っていた」


「自慢話は結構だわ。私の質問に答えてくれるのではなかったの?」


 燈瑚は彼の話を遮るように鋭く言い放った。

 噛みつくような視線に射止められても、北山は一切ひるむことなく、子猫にでも向けるような穏やかな微笑を深め、彼女の言葉など歯牙にもかけず、続ける。


「まあ、最後まで聴いてよ。君が求める答えに通じる話をしているんだからさ。――みんな、多才な僕に羨望の眼差しを向けたさ。それが僕だけに向いている視線だと思うと、途轍もない快感だった。両親もさぞ、鼻が高かったことだろう。愛情をこめて育てた一人息子に立派な才能ばかりが芽生えたのだから。もちろん、僕だって鼻が高いったらなかったよ。みんなが出来ないことを、この僕一人だけが出来る。《特別な人間》とは、きっと僕にことをいうんだ、なんて思っていた。事実、そうだろう? 日々、僕だけに降り注ぐ周囲からの賛美の言葉の数々は、さながらシャワーのように僕の身に輝きをもたらし、日を重ね、歳を重ねるごとに、僕は最高の人間としての自信を身に着け、順風満帆な未来予想図に希望を持って生きてきた。……けれど、あいつら――不良たちだけは、いつも卑屈そうにつり上がった不快な目で僕を睨みつけてきやがった。人目を避けるように日陰に引っ込んで、じめじめした陰気な声であいつらは僕の陰口を叩き、時には些細ではあったが、嫌がらせを受けたりもした。もちろん、そのような底辺の奴らの視線なんざこれっぽっちの価値もないからね、気にもしていなかったさ。……はじめはね。けれどある時、そんな奴らに僕は制裁を与えてやりたくなった。ただ人の陰口を叩き、努力一つしないで湿っぽいところから他人の頑張る姿を見て、ささくれ立った心を持て余した乱暴者どもにも、正義の心があれば負けることなんてないと思っていた。愚かな僕は早速実行に移したけれど、お察しの通り、惨敗さ。もちろん、喧嘩なんてしたこともなかったからね、当然だよね。今の君のように単身で不良たちに挑んで返り討ちにあったのが中学三年生の冬。裏門に面した薄暗い一角で、五人もの不良相手に立ち向かった僕は、最初から最後まで手も足も出なかった。一方的に暴力でねじ伏せられ、彼らが帰った後、顔に痣を作って仰向けに転がると、どんよりと曇った鉛色の空が僕を見下ろしていた。まるで無様な格好の僕を嘲笑うかのように、分厚い雲はゆっくり、ゆっくりと遠くの方へ流れていった。――悔しかった! はじめて人に負けた。僕は喧嘩でだけ唯一の敗北を喫した。それが、僕の初めての敗北だったのだ。けれど、僕は存外負けず嫌いでね。たった一度負けたくらいじゃ諦めなかったさ。その喧嘩で、腕っ節では一生あいつらに適わないと理解した僕は、まず始めに別の角度で奴らを黙らせようとした。次の日、僕はその不良チームのリーダー以外の奴らに金を握らせた。君を僕のボディーガードにしたいんだ。その腕っぷし、この金で買わせてくれ、と言ってね。そうしたら全員、自分たちのリーダーをあっさり裏切って、たちまち僕の舎弟さ。そして僕は、ボディーガード全員に命じたんだ。君たちの元リーダーを叩きのめせ! ってね。フフフフフ、二倍の快感だよ。わかるかい? あのムカつく不良たちを、この僕の下につかせてやったのと、僕に一番ひどい嫌がらせをしてきたリーダー格の男は、僕に寝返った舎弟たちに手のひら返しよろしく裏切られたんだからね。僕の勝利だ。その日以来、そいつは学校へは来なくなった。卒業式にも来てなかったかな。かわいそうにね。ちゃんと進学できたのかな?」


 北山は、大勢の前で何度もその話をしてきたベテラン講談師のような流暢さで、想像もつかないような恐ろしい過去を語った。

 燈瑚は批判の言葉さえ思い浮かばず、ただじっとしているばかりだ。


「けどね、もっと楽しいことがあったんだ。それが何かって? フフフフフ、教えてあげるよ。僕をお利口な優等生だと思っている奴らの目の届かないところで悪さをするのが、一番楽しかった。その日から僕は不良というコミュニティにも進出を果たし、一つのチームのリーダーにもなれた。僕は常に一番でなくてはならない。だから、千束香も菅谷一郎も、僕の下につかせてやりたくなったんだ。そのための作戦だよ。両チームを同じタイミングで襲って、勝手に相手のチームの仕業だと思って無意味な争いでもしてくれれば、あとは漁夫の利でもって僕が両チームの頂点に立てるってわけ。フフフフフ、簡単なお話だろう? ようはどちらかが負けて、どちらかが勝ってくれたら、僕たちはその残った方を叩きのめすつもりだったのさ。けど、なかなか思うようにはいかないね。まさか両チームのボスがぼろぼろの状態で《引き分け》になっちゃうなんて。はやくどちらかが決着をつけてくれないと、たった一勝で僕たちサトル一派がこの界隈のトップになる効率のいい夢は叶いっこないのさ」


 燈瑚は愕然とした。

 これが、己の心を奪っていった男の言葉だと信じたくなかったのだ。


「嘘だわ、北山君。あなたがそんな事を思うはずがないもの」


 悲痛に嘆く彼女を、北山は無慈悲にも一笑に付す。


「ごめんね、燈瑚ちゃん。君のことはって思ってたんだけど、こうなってしまっては、もうどうしようもない」

 北山はわざとらしく肩を竦める。

「申し訳ないと思ってるよ、ホント。君の理想の僕になれなくて」


 その言葉には嘲るかのような風情があった。

 数ヶ月に亘る北山との思い出が頭の中を錯綜する。

 はじめて会話をした日。

 同じ講義室で肩を並べた日々。

 終わらない課題を手伝ってくれたこともあった。

 食堂で共に昼食を摂ったり、徹夜で課題を仕上げた燈瑚に、彼はジュースを奢ってくれたこともあった。


 その全ての記憶おもいでが、まるでまやかしであったと、目の前にいる北山が無慈悲に語るのだ。

 ついに堪えきれなくなって、燈瑚の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。

 美しい青春の一ページを無残にも踏みにじった男を前にして、彼女は涙を禁じ得なかったのだ。


「ああ、泣かないで、燈瑚ちゃん」

 無情な手が、燈瑚の頬へ伸びてくる。

「女の子が泣いているのを見るのは嫌いなんだ。――うっとおしいからね」


 まるで凍ったナイフで胸を貫かれたような気分だった。今まで生きてきた中で、この身に受けたどんな痛みよりも痛む心。

 まるで悪夢でも見ているような心地だった。今、己の身に起きていることが悪夢であればいいのに……彼女は心の底からそう願ったが、現実はどこまでも非情で、燈瑚の心を一方的に傷つけるばかりだ。


 だが、燈瑚の中で彼への想いが断ち切れたのも、この瞬間だった。百年の恋も一時に冷めるとはまさにこのこと。


 この人はもう、自分の知っている北山君ではないのだ。

 淡い恋心を抱かせていたあの少年は幻だったのに違いない。己が勝手に見ていた、理想の少年の姿に過ぎなかったのだ。


 ああ、さようなら、私の恋心。彼によって彩られていた素敵な日々よ。

 悲しむのは後で。今、この場で悲しんではいられない。この男、北山サトルは、それを許してくれるような優しい人間ではないのだから。


 たちまち、心臓に火が付いたように胸が熱くなった。

 その熱に促されて、燈瑚は北山サトルに向かって、涙に濡れた鋭い視線を放つ。


「随分、汚い真似をするのね、あなた。金で舎弟を率いて何が楽しいの? ここにいる坊やたちも、金で繋ぎとめているのかしら?」


 身体の自由を大きく制限された燈瑚は、やっとのことで上半身を起こす。味気ない白いTシャツは埃で黒く汚れてしまったが、すべてが終わってから北山にクリーニング代を請求すればいいだけのこと、と開き直って、今一度、彼の方へにじり寄る。


「ね、教えてよ。どうなの? 私に勉強を教えてくれたときみたいに、答えてよ」

 北山は、人形のように感情の欠落した顔で彼女を見下ろす。

 その瞬間、たった今まで悲しみに暮れていた燈瑚の瞳が、闇夜に煌めく肉食獣のそれのようにギラリと光った。

「答えて。親の金での座を手にした感想を」


 北山は、その目と視線を交わした瞬間、ゾッと総毛立つ思いだった。

 まさに眼光炯々がんこうけいけいという表現にふさわしい、二つの光を放つそれは、今までのか弱い少女のものではない。

 これは、この目は、彼女の兄・千束香の目と同じ……ボスの目だ。


 そう思ったのは北山だけではない。周囲の舎弟らも、同じように後退りせん勢いで彼女の獰猛どうもうな双眸を見つめている。

 千束燈瑚とその兄・香の姿が重なって見える。二人が合わさるような幻覚が、彼らの視界を支配した。


 そのような幻から一足早く我に返った北山が、彼女の頬に触れていた手を、すっと後頭部の方へ滑らせ――

「さすが、あいつの妹なだけあるね。本当、馬鹿みたいだ」

「……ッ!」

 ゴッ、と鈍い音が響き、燈瑚は容赦なく顔面を床に叩きつけられた。

 燈瑚は悲鳴一つ上げず、歯を食いしばって痛みと屈辱に耐えた。

 コンクリートとぶつかった頬が焼けるように熱い。


「燈瑚ちゃん。僕が嫌いなのは、君のお兄さんさ。君のことじゃない。だから、ね、僕の言うことを聞いてくれるなら許してあげる」

「許す……?」

「僕の舎弟になってよ。そしたら許してあげる」

「意味がわからないわ……どうして、そんなことを言うの?」

「しっかりして。君は頭のいい子でしょ。いい? 説明してあげるからよく聞いてね? 君は僕の舎弟になる一方で、人質にもなるんだ。君が僕に囚われていると知ったら、青木や菅谷はすぐさま駆けつけて、君の無事と引き換えに僕の配下に加わると宣言してくれるはずさ。ただの足手まといな君だけど、その前に女の子だもの。あいつらは苦渋の選択をして、君を救ってくれるよ。よかったね」


 薄ら寒い微笑と共に吐き出された上品な暴言に、燈瑚は不気味なものでも見るような目で彼を睨みつけた。


「私を利用しようというのね」

「ハハハハハ! やだなァ。協力してもらおうと思っただけだよ。利用だなんて、そんな冷たい言葉」

 ハハハハハハ……と渇いた笑声が耳障りでならなかった。

 燈瑚の堪忍袋の緒が、まさに今、耐えきれなくなって……。

「……しいよ」

「うん、なに?」

「馴れ馴れしいって言ったのよ」

 燈瑚は、地を這うような低い声で、言った。

「馴れ馴れしいのよ、あなた。私を下の名前で呼ばないでちょうだい」


 まるで刃物のような鋭さを湛えた瞳に貫かれた北山は、嘘くさい笑みを貼り付けたまま、緩慢な動作で立ち上がり……。

「そうかい、それは残念だな」

 舎弟どもを振り返った彼は、言った。

「お前ら、お楽しみの時間の始まりだ」

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