Ep.8 敵情視察

 前を歩く四人の後姿を見つめながら、青木は数え切れない数のため息を吐いた末、もう一度、鬱然と淀んだ息を吐いた。


「まーた、青木さんは。こうもため息ばかりついていると、幸せ逃げますよ」


 呆れたような声で文句を言う舎弟を無言で一睨みし、青木は腕を組む。誰のせいでため息ばっかついてると思ってんだ、と心の内で舌を鳴らすと、高校生組の一人は苦笑いのようなものを浮かべて、大袈裟に肩をすくめた。


 青木、燈瑚、三人の舎弟は拠点である河原を離れ、ひと気のない廃倉庫へと足を伸ばしていた。その廃倉庫とは、すなわち菅谷一派のたまり場である。

 川のせせらぎと、爽やかな初夏の風吹き込む千束一派のたまり場とはうって変わった、草も伸び放題、錆びたドラム缶や雨ざらしになって色の薄れたパレットなど、粗大ゴミも多く放置され、手の施しようもないほど荒れ果てた雰囲気の場所だった。


 元々この辺には、車の部品を作る工場があったのだが、今から二年程前に廃業し、工場自体は壊されたものの、傍にあった倉庫だけは何故だか今も取り残されたままだ。

 今となっては、不良集団の恰好のたまり場と化し、それを知っている民間人はあまり立ち寄ろうとはしないので、近辺に人の気配などは全くと言っていいほど感じない。


 そんな場所に彼女らが出向くことになったのは、四人の熱量に畳み込まれる形となった青木が、燈瑚と三人の舎弟に押しに押され、「ではせめて敵情視察だけでもさせてください」と値切り交渉術のような手法で丸め込まれてしまったからなのだ。


 己の覚悟の甘さにはほとほと呆れかえらざるを得ない。

 あれほどまでに鉄壁を思わせた青木の決心をも打ち破るほどの熱意とは、真面目一辺倒を地で駆け抜けた千束燈瑚の印象をがらりと変えるに等しい。


 燈瑚は、胸の奥深くで生まれた小さき灼熱の炎を双眸に揺らめかせ、正面に迫りくる敵の本拠地を見据えた。

 心臓の音に呼応するたびに熱さを増してゆく炎は、彼女の思考を沸騰させるかのように火力を増し、燈瑚の気分を熱く熱く盛り上げた。


 敵情視察――このような世界に全く縁のない燈瑚にすれば、なんと刺激的で胸の熱くなるような響きであろう。体感したことの無い緊張感に心が浮き立つ思いだった。

 数日前までの、争いごとに巻き込まれるのはごめんだ、と怯えていた自分の姿がまるで嘘のように、彼女は胸の内に芽生えた熱意に忠実だった。


 いつからだったか。己の本心に蓋をするようになってしまったのは。

《おとなしくて真面目な千束燈瑚》は、彼女が子ども社会を穏便に生き抜くために身に着けた鋼の鎧だ。

 女の子らしく、利口でか弱くて、上品な物腰の春風のような人――他人は彼女にそうあることを要求し、千束燈瑚の心の奥深くにある本来の人格を否定さえする勢いで扱ってきた。


 彼女自身、己の深層の部分を見て見ぬふりをしていたきらいもあるが、長きにわたって他人に押し付けられてきた《千束燈瑚》像の表層は、控えめであることを無理強いされ続けた燈瑚には脱ぎ捨てることのできない強靭な鎧となって、何年も何年もその華奢な身体を縛り上げ続けた。


 そんな剛毅ごうきな鎧を破壊することができるのは、他でもない自分である。幸い、彼らの中に《おとなしくて真面目な大学生》としての彼女を知っている人間は存在しなかった。ゆえに、己の身を守らんと強さを増し続けたその鎧は効果を発揮する必要あらずと、本来の燈瑚――《真面目なんかじゃない》千束燈瑚に内側からぶち壊される結果となったのだった。


 今、ここにはっきりと示そう。本来の千束燈瑚という少女を。

 彼女が、姿かたちがそっくりな兄、野蛮で粗野な性格の香の妹であるという動かしようのない真実を。

 それは後に、燈瑚を危険にさらす重大事件の際に明らかになることだろう。


 五人は低く腰を屈めて、敵の本拠地、廃倉庫の前まで駆け寄った。昨日、誘拐された燈瑚が連れて来られた場所である。

 意識を集中して耳を澄ませてみると、中から微かに人の話し声が漏れ聞こえてくる。

「五人以上はいますね」と、舎弟の一人、素肌学ランことコージが鋭い洞察力を発揮する。

 菅谷の下には全部で十三人の舎弟がいる。その大半が高校生や中学生で、チーム全体は若い層で構築されている。


 それを聞いた燈瑚は、元気有り余る少年たちが昼間っからこんなところに集まって何が楽しいのだろう、と憐れみ半分の感情で思った。大事な学校をさぼってまで廃墟に入り浸っていては、大人になった時に絶対後悔するぞ、と独り言のように言うと、高校生三人組は大きく頷いて、「おれらは元々午前授業だったんですよ! 勉強も怠るつもりはありませんぜ!」と誇らしげに言った。


 なら家に帰って勉強した方がいいのではないかと思ったが、先ほど河原で教科書片手に額を寄せ合っていた姿を思い出すと、三人は河原で勉強会でも開いていたのかもしれない。

 不良のくせに案外真面目だな、と内心で感心していると、一方の不真面目集団・菅谷一派をまとめるボスの人となりについて、あまり詳しく知らないことに思い当たる。


「ところで、相手のボス――菅谷というのは、どういう男なのですか?」

 燈瑚の質問に答えたのは、短ランことキイチだ。

菅谷一郎すがたにいちろう――何を考えているかわからん奴ですね」

 ざっくりとした紹介文に付け加えるように、三人の中で比較的口数の少ないグレーの学ランを着たアマネが補足する。

「ウチのボスが熱血で単純な性格なのに対し、菅谷は冷静沈着、無情、己の舎弟に対しても心無い対応をすることもしばしば。口数も少ないし、こいつの言う通り、思考の向きがよくわからんのです」

 アマネは他の二人と比べると、いくらか利発そうな言動や振る舞いを見せる。あまり不良とはいえないタイプだ。進学校と名高いK高の制服をその身に纏いながらも、彼が身を置くチームのボスが我が兄貴だとは到底信じられない。


「腕っ節はなかなかの奴なんですが、他人に対する情が無さすぎてイマイチ人間味に欠けるといいますか、俺だったら、あんな奴の舎弟になるのは嫌です」と、きっぱりと言い切るコージ。


「それに、ちょっと、不思議に思うことがあるんですよ」

 難しい問題を解いているときのような表情になって、アマネが言う。その先を燈瑚が促すと、彼は小さく頷きながら、

「何のためにおれ達と対立しているのか」

「何のために……?」


 昨今の不良少年はそんなことを考えながら喧嘩に明け暮れていたのか、と感心してしまう。もっと、心に巣食う獣が暴れたがっているとか、誰かを殴って己の力を誇示したいとか、野蛮な理由だと思っていた。――もっとも、今共ににいる彼らがそんなことを思って喧嘩に明け暮れている姿は些か想像しがたいのだが。なかなかどうして、香の舎弟たちは《不良》という枠から外れた人種に感じる。味方だからだろうか?


 ――と、ここでもう一つ浮上する疑問。燈瑚は、敵地の中心部にほど近い場所にいることも忘れて、世間話を始めるかのように訊ねた。


「あなたたちは何のために、兄貴の傍に付いているのですか?」

「そりゃあ……」

 青木も含め、四人は互いに顔を見合わせる。

「ボスの強さに惚れたから」

 四つの声が見事に重なる。質問の答えになっているかどうかは別として、燈瑚はまさかあの兄貴がここまで舎弟らに慕われているとは思ってもみなかったので、あからさまに驚いて見せた。

「ウチの兄貴、そんなにすごいんですか?」

 そう訊ねると高校生組は「信じられない!」とばかりに瞠目した。

「燈瑚さん、知らないんですか?」と、キイチ。

「おれらの世界じゃ、ボスは半ば伝説の人ですよ」アマネが言う。

「で、伝説ぅ?」

 やけに大げさな言葉が出たものだ、と燈瑚は他人事のように思う。三人は、彼女のそのリアクションが気に入らなかったのか、少しむきになって自分たちのボスのプレゼンを始める。


「鬼神のような強さを有していながら、決して驕ることのない謙虚な人となり」

「仲間想いで情に厚く、頼り甲斐のある背中!」

「この人に着いてゆけば、己の求める強さにたどり着けるはず。おれたちはそう思ったので、自らボスの舎弟になったんですよ」

 順に、コージ、キイチ、アマネ。三人はさらに熱弁を振るおうと口を開いたが、

「おい、お前ら声が大きい。気付かれるだろ」

 青木が顔を顰めて注意する。

 三人は慌てて口を噤んだが、自分たちのボスを賛美する声はなりを潜めぬばかりか、さらに苛烈さを増してゆく。


「ボスがボスになる前のボス――先代を俺たちは知らないんですが、どうやら香さんは、先代のお気に入りだった時代からその名を他チームに轟かせ、香さんから一勝でも巻き上げようと画策した奴らが揃いも揃って返り討ちにあい、その数日後、元いたチームを抜けて、自ら舎弟にしてくれと頭を下げたようです」


「で、先代が引退してまもなくボスの地位を手に入れた香さんに、他チームの連中がに来るわけです。その戦いぶりと言ったら――はああ、感嘆の溜息を禁じ得ない……」


「実を言うと、元々オレら三人も他のチームに所属していたんですがね。香さんに負けたのがきっかけで元いたチームが解散しちまったんで、路頭に迷ったところを土下座……いや、土下寝する勢いで仲間に入れてくれるようお願いしたんです」


「敵として拳を交えた数日後に仲間にしてくれと頼み込んで、ああもあっさり快諾してくれるとは思わなかった。やはりボスは心の広いお方だ」


 チームが解散しただけでという表現が適切と言えるかは置いておいて、彼らの抱く千束香像はなんとなく理解できて来た。

 強くて、懐が広くて情に厚い。……そんなこと、燈瑚は小さい時から知っていた。

 けれど香は、その優しさを妹に向けることをしなくなった。


「そうですか……。私は、やさしかったころの兄貴しか知りません」

 燈瑚は不貞腐れたように言った。いくら兄を軽蔑していたって、双子のきょうだいなのだ。好きで避けているのではないし、できるなら昔のように仲睦まじく過ごしたいに決まっている。だから、妹である自分以上に兄・香と深い交流を持つ彼らが、ほんの少し羨ましかった。


「何言ってるんです? ボスは今だってやさしい男ですよ」

 アマネが、慰めるような柔らかい声で返す。

「そんなわけないですよ。昔は、喧嘩なんかしない利口な兄貴だったんですもの」


 初めのころは、香が悪い仲間とつるむようになって、自分に妙に素っ気無くなったのが寂しくてたまらなかった。中学生くらいの時期だったから、双子の兄といつまでも仲良くしていられるなんて思ってなかったけれど、まさか大好きだった兄貴が不良少年ごときに奪われてしまうなどとは、これっぽっちも考えていなかったのであるから、当時の彼女の心境は察しがたいものがあろう。

 垣間見えた燈瑚の心境に、その場にいた彼らはなんだか心が温まるような心地だ。なんだかんだ言いながら、兄を大事に思っているのがひしひしと伝わってくる。


「おれらは昔のボスを知らないけど、きっと燈瑚さんが今まで見てきたやさしさを、ボスはまだ忘れていないと思いますよ」

「そうですよ。世間一般に見たらオレらは不良ですが、ボスの人情味は不良の枠を超えて全世界に通用するものがあると断言できますね」

「きっと燈瑚さんに冷たくなったのも、大事な妹をこの世界に近寄らせないためじゃないですかね?」


 舎弟らは口々に香を立てる言葉を口にした。それと同時に、自分が兄貴に対して憎からず思っているのがバレてしまったようで急に気恥ずかしさが込み上げてくる。


 そうこうしている間に、一人離れた青木が薄く開いた扉の隙間から、倉庫の中の様子を覗き込んでいた。

「おい、お前ら」

 こちらを振り返って小声で燈瑚たちを呼び寄せ、中を覗いてみろ、とジェスチャーする。

 四人は足音を殺して近寄り、頭を縦に重ねるようにして隙間を覗いてみる。


 倉庫内には全部で六人の少年が談笑を楽しんでいた。

 年の頃は十五~十八前後といったところか。派手な改造学ランに身を包んだ高校生が五人ほどいて、みんなそれぞれ放置されたパレットの上に胡坐をかいている。

 倉庫の隅には、脚立や鉄パイプが乱雑にまとめられ、壊れて使い物にならないと思しき機材などもそのままになっていた。


 高い位置についた窓から差し込む日差しの中を細かい埃が舞い、冷たそうなコンクリートの上には砂埃が積もっている。彼らが出入りしているとはいえ、あまり清潔なところではないようだ。

 よくこんな埃っぽいところにみんなで引きこもっていられるな、と上から目線で思っていると、

「あのソファーに座っているのが菅谷だ」

 青木が小声で言うのを耳にして、燈瑚はそちらの方へ目を向けた。

 舎弟たちのおしゃべりを一切無視した彼は、市内にある公立高校の学ランを着ていた。顔には幾つも絆創膏を貼り付け、右の頬骨には痛々しい痣が浮いている。先の喧嘩での傷跡だとすぐに分かった。

 その風貌に加え、まるで十代とは思えないような鋭い目つきで、手中のルービックキューブを睨みつけながら悠々と脚を組みかえる仕草は、なかなかどうして様になっている。


「こ、高校生だったのですか」

 意外そうに燈瑚が呟くと、

「ダブりですよ。歳は十九。ボスと同級生です」

 コージが嘲るように言った。

「彼が、菅谷……」


 その刹那、燈瑚は背中に水を浴びせられたように全身が震え上がった。

 暗黒だ。菅谷少年を取り巻く空気は、息が詰まるほどの暗黒を思わせた。

 人間が太古の昔から恐れていた暗闇を人型にしたように、菅谷一郎という男は存在した。

 明かりのない夜、出口のない洞窟、深い深い地の底、死に絶えたような深海……このような恐怖に例えても、余りあるほどの怖気とでも形容しようか。


 直線距離にして五メートルは離れたところからそっと覗いているだけにも拘らず、菅谷一郎の放つ絶望を思わせる雰囲気は、たった一目見ただけでも抗いようのない恐怖に身を落とされる思いだった。


 まるで幽霊に、うなじに息を吹きかけられたかのような寒気に、燈瑚は総毛立った。


 たかが十九年の人生で、どんなことがあれば彼の目はあのように暗黒を秘めてしまうのだろう。まるで永遠の闇である。菅谷という男のすべては、禍々しき闇に包まれているように見えるのだ。さながら、彼自身が幽鬼であるみたいに思える。

 ただそこに存在しているだけで、人々の怖気を誘う。

 近寄ってはいけない。そんな風情を、菅谷一郎は衣服のように纏っているのだ。


 その威圧感に、思わず後退った燈瑚の足が、底が抜けて赤錆あかさびの浮いたバケツを蹴り飛ばした。

 その瞬間に「あっ」と声を上げてしまったのも悪かった。たちまち、倉庫の中の談笑が途絶え、ぎらっと輝いた瞳たちが一斉に隙間の奥をにらみつけてきた。


「ま、ずい」

 と青木が引きつった声を出す。

「誰だ!」

 放たれた矢のような叫びが扉の奥で響くや否や、いくつもの足音がこちらに向かってくるのが聞こえる。

「お前ら、逃げるぞ」

 青木が踵を返して先頭を走り出す。

 もういくら足音を殺しても無駄だと判断した五人は、初夏の空にどたばたと足音を響かせながら、全速力で駆け出した。


               ▼


「やれやれ、なんとか撒けたな」

 人通りの多い大通りの中ほどでで立ち止まった青木が、首を伝う汗を拭いつつ言った。

「ええ、そうですね……」

 学ラントリオが息を切らして頷く。

「大丈夫か、燈瑚ちゃ――」

 振り返った青木が思わず声を途絶えさせたのは、そこにあった彼女の状態がとんでもなく悲惨だったからである。

 血の気の下りた頬を大量の汗が滑り落ち、慟哭どうこくのような息継ぎで両肩を激しく上下させ、今にもばったりと倒れこんでしまいそうに膝をがくがくと震わせている様を見ては、誰もが言葉を失うのは当たり前だろう。


 根っからの文系人間で、運動神経といえば世辞を交えたって良いとは言いがたい。高校を卒業してからというもの、週に何時間かあった体育も同時に卒業し、そんな彼女が全力で町を疾駆しっくしたのは生まれて初めてだった。


「と、燈瑚さん!」

 おろおろする学ラントリオに、彼女は声にらぬ音を伴なって「大丈夫、大丈夫」とジェスチャーする。

「と、とりあえず今日はこの辺にしよう。さ、燈瑚ちゃん、家まで送っていくよ」

「それがいいですね」

「ええ。とりあえず今日のところは」

「お疲れ様です、青木さん、燈瑚さん」


 口々に言う三人に見送られてその場を去った燈瑚らは、蒸し暑い空の下を並んで歩きはじめた。

 やがて落ち着きを取り戻した燈瑚は、足に残る疲労を見下ろして、「こりゃ、明日は筋肉痛だな」とため息を漏らす。


 彼女は、ふと隣を見た。

 何も言わずに車道側を歩いてくれる彼のやさしさに、ほんの少し胸が熱くなる。

 ……まただ。こうして二人きりになると、隣を歩くこの青年に胸が高鳴ってしまう。とくん、とくん、と心臓が生命の息吹を全身に運ぶ音が次第に大きくなって、妙に頬がかっかしてくるのだ。


 ――きっと……そう、きっと、これは私が男性に慣れていないせいだわ。

 燈瑚はこの歳になるまで、異性の友人がいたことはなかった。

 内気な性格で、流されるままに日々を生きてはきたが、何故だか幼少の頃は男性に多少の苦手意識があったのを覚えている。友人の父や兄弟といった存在は理由もなく恐怖の対象であったし、クラスメイトの男の子たちは乱暴者ばかりで近寄るのも嫌だった。


 そんなこともあったので、高校は女子高を選んだ。

 もちろん、恋人など居たことはない。やがて大学進学にあたり、このままではまともに社会に出られないかもしれないという懸念を払しょくするために、意を決して共学を選んだ。

 同じ学科の友人の中には北山を含め、数人の男友達がいるが、北山を除いた友人は、自分を利用するだけの偽りの友人なのである。


 二つ年上の青木は、落ち着いていて頼り甲斐があり、懐の深そうな人となりは、他者から見ても魅力的な男であるのだろう。

 だからなのだ。自分がこんなにも胸を躍らせてしまうのは、この青木という男が、誰の目から見ても魅力のある男だからなのだ。


 だから、異性と関わりの少なかった燈瑚は突然現れたこの男に、その様な感情を抱いてしまう。――そのように言い聞かせなくては、こうして隣を歩くのもままならないほどに心臓が暴れだしそうだった。


 二人は他愛もない話を切り上げて、千束家の前で立ち止まった。

「ありがとうございました。わざわざ、私のために」

「いいの、いいの。菅谷一派からしたら、君はいわばだからね。無実の罪で追われる味方なき少女に手を貸すのが俺の役目さ」

「……そうですね。私、今、警察から逃げてる犯人みたい」

 燈瑚は控えめに微笑んだ。

「さ、早く中へ。――ああ、そうだ、何か書くもの貸してくれないか?」

「え? ええ」

 燈瑚は頷いて、鞄の中から青い付箋とボールペンを取り出した。

「ありがとう」

 ペンを手にした青木は、そこにいくつかの数字を羅列する。携帯電話の番号だ。


「それ、俺の携帯の番号だから。何かあったら連絡して。じゃあ、またね」

 そう言い残して、青木は去って行った。

「ありがとうございました……!」

 遠ざかってゆく背中に向かって叫んだ燈瑚は、090で始まる携帯番号の書かれた紙を大事そうに胸に押し付けた。

 ――男の人の、番号……。

 おかしいくらいにどきどきして、頬がさらなる熱を持ち始める。

 自分のアドレス帳に、家族親戚以外の男性の名前が入るのは生まれてはじめてのことで、なんだか大人な自分を想像してしまう。


 ――ああ、どうしたのかしら、私。こんなにどきどきして、おかしいわ。

 燈瑚は、熱に浮かされたような熱い視線で、その姿が見えなくなっても、ずっと、彼の去っていった方向を見つめていた……。





「よォ」


 ぞくり、背筋が粟立った。

 上気していた頬から一斉に熱が下がり、首筋の産毛が逆立った。

 その声は、自分のすぐ後ろから這い寄るかのように近づいてきた。

 振り向けない……。背後に立つは、冷たく、黒く、どこまでも深い沼の底を彷彿とさせるオーラを漂わせてくる。


 逃げ出したい……! 本能がそう思って全身に危険回避の通達を出してなお、この身が言うことを聞かないのは、足元から忍び寄った不可視の手が彼女の足を地面に縫い留めてしまっているからなのか……。逃走を促す脳とは裏腹に、彼女はどうしてもその場から動けなかった。


 燈瑚はだんだんと浅くなる己の呼吸だけを聞きながら、錆びたように動かなくなった首を、ゆっくり、ゆっくりと後ろへ捻った。


「お前、千束香じゃねえな? どういうことだ」


 菅谷だ。

 そこには、あの恐ろしい暗闇を背負い込んだ菅谷一郎、その人が立っていたのである。

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