すみません、替え玉。

駿河 明喜吉

Ep.1 兄貴の入院

 昼食後の眠気に襲われる三限目。

 教壇に立つ日高時子ひだかときこ助教授が黒板に向かって小泉八雲の経歴を綴り始めると同時に、隣の椅子に置いたトートバッグの中で、スマートフォンの画面が光った。


 画面上に浮かんだ通知を見て、千束燈瑚せんぞくとうこは思わずそれを手に取る。送信者である母は今日はパートの日で、この時間はまだ仕事中の筈なのだが。

 何か急用でもできたのだろうかといぶかしんで、日高助教授に見つからないように、机の下で画面をタップする。

 コミュニケーションアプリが受信したメッセージは、ごくシンプルなものだったが、内容はその文字数に反して衝撃的とも思えるものだった。


《お兄ちゃんが入院した》


 燈瑚は冷めた表情でため息をついてアプリを閉じると、再び黒板の方を向いて、シャープペンシルを握った。


 小泉八雲信者である日高女史は、先週の永井荷風よりも些か生き生きした様子で、手にした白いチョークで黒板を高らかに奏でている。

 しばらくの間そうして講義に集中しようと試みたが、メッセージの内容に気が散ってしまい、日高女史の手が踊るように動き続ける中、燈瑚は再びスマートフォンを手にし、母へ《どうして?》と素っ気無い一言を返信する。

 するとすぐに、相手がメッセージを読んだことを告げるマークが付き、間もなく返ってきた言葉に、燈瑚は呆れ返る外無かった。


《大勢で喧嘩したって》


 予想を裏切らない答えに、燈瑚は大きく肩を落とした。

 兄貴はいつもそうだ。

 毎日毎日、まるで息をするように、腹が空いたら食事をするのと同じように、何かと言えば喧嘩、けんか、ケンカ。

 常に顔には絆創膏の二枚や三枚張り付いていて、見ているだけで痛々しい。

 他人を常に威嚇するような口調で、品のない態度で、どうしてそこまで人間の価値を下げることに余念がないのかしらと、妹の燈瑚は首を傾げたくなるばかりである。

 血を流してまで互いに殴りあうことの何が楽しいというのだろう。

 生まれてこのかた、一度も道を踏み外すことなく、あまつさえ品行方正の四文字を人型にしたような人生を歩んできた燈瑚は、幼少の頃の面影すら残さず人の変わったような兄貴を軽蔑していた。

 兄の顔を見るたび、「昔はこんな人じゃなかったのに」と思わずにはいられなかった。


 そんな兄貴が、喧嘩が理由で病院に担ぎ込まれるのは、遅かれ早かれいずれ訪れる未来だと、彼女は予測していた。

 いい歳して無意味な争いに明け暮れていれば、やがては痛い目を見て面子が立たなくなるのは火を見るより明らかだと常々思っていた。

 無慈悲だと言われるかもしれないが、彼女は兄のことを全く心配などしていなかった。これに懲りて、少しは素行を改めてくれることに関しては微かに期待しておいてやろう、と頭の片隅で思っていたくらいである。


 子どもの頃、一緒にすごろくゲームをやった兄も、一つのアイスを半分こして食べた兄も、色違いでお揃いの服を着ていた兄も、もうどこにもいない。傍にいたあの少年は、幼少の頃に見ていたただの幻なのではないかとすら思える。

 ……きっと、そうだったのだ。幼いころ、ずっと傍にいてくれたあの少年は幻。そう思うことで、変わってしまった兄とのかつての思い出を、燈瑚は一枚の絵画を眺めるような心で受け止めるようになった。


 物悲しい懐旧かいきゅうの念に浸っていると、目の前の黒板は白く塗りつぶされたように文字の羅列が完成していた。

 我に返った燈瑚は慌てて授業に集中しようと試みたが、結局は板書の文字を書き写すので精いっぱいで、合間合間に語られる日高女史の熱い小泉八雲愛は、話半分で燈瑚の記憶の中には残ることはなかった。


 それから間もなくして、本日最後の講義は終わりを告げる。

 席を立った燈瑚は、ぞろぞろと出てゆく学生たちに紛れて、少人数用の小さな教室を後にした。


                ▼▽▼


 つい先日、気象庁から梅雨入りの発表があったにも関わらず、ここ数日の空はカラッと晴れ渡り、紺青こんじょうの空の所々に薄絹のような雲が浮かんでいる。

 最新の週間天気予報でも、しばらくの天気は晴れ、曇り、降っても小雨と、見事な空梅雨からつゆ状態が続くことを予想しており、ベテランの気象予報士は今夏の水不足を心配している様子でコーナーを締め切っていた。


 夏本番もそう遠くない未来に控えた関東の地では、陽に温められた風が人々の服の内側をじっとりと湿らせ、一足早く夏の装いを促している。

 たった一、二分陽光の下を歩いただけの燈瑚の額にすら、じんわりと汗を帯び始め、ちくちくと刺すような日差しに手をかざさずにはいられなかった。


 燈瑚は、校門より手前にある構内のカフェに入ると、辺りをざっと見渡して、空いている区画の席を陣取った。

 講義が終わったばかりのためか店内に人はまばらで、空席が全体の七割を占めている。

 弱くクーラーのきいた居心地のいい空間には、メニューにあるホットケーキの匂いに満ちていて、訪れた者の空腹を促す。

 飲み物だけを買うつもりだったが、何かおやつ代わりになるものも一緒に買うか、と席に荷物を置いた燈瑚は、財布を手にしてレジカウンターに向かった。


 ここで一番安いアイスティーはSサイズで百九十円。それにミルクを三つ入れて、ガムシロを一個半入れて飲むのが彼女のパターンだった。今日はそれと一緒に、プレーンのホットケーキ一皿二枚付きを買った。

 勉強で使った脳を糖分でほぐし、一時間ほど読書を楽しんでから家に帰ろう。燈瑚は上機嫌で、レジカウンター横から注文した品が出てくるのを待った。


 常に何かしらの本を持ち歩いていないと不安を感じるほどに書を愛する燈瑚の鞄の中には、いつでも一、二冊は小説が常駐している。

 特にミステリやファンタジーを好んで愛読するが、面白ければジャンルを問わずに何でも手に取る。


 今読んでいるのは、贔屓にしている若手作家のアジアン・ファンタジー小説だ。争いの絶えぬ世を、主人公の少女が旅の中で出会った仲間たちと共に再建してゆく大長編小説である。


 主に若い女性読者を獲得し、原作者のデビュー作にして大ベストセラーとして書店の一番目立つ箇所で大きく展開されているのをよく見かける。

 売れているだけあって、このシリーズがなかなかに面白い。

 三週間前に書店で運命的な出会いを果たしてから、毎日毎日、貪るように読み進め、今やシリーズ十作目の最新刊にまで追いついた。

 文字通り寝る間も惜しんで、魅力的なキャラクターたちが繰り広げる手に汗握る冒険譚に夢中になり、寝る前に少しだけ……と思いきや、気が付けば深夜二時を回っていることもしばしば。よって、ここ数日は寝不足気味である。


 ほとんど真っ白になった超ロイヤルミルクティーと、ホットケーキの皿が乗った盆を手にして席に戻ると、鞄の中でスマートフォンが静かに振動していた。着信だ。母からだった。

 電話の内容が安易に想像できたため、燈瑚は気乗りしないながらも、通話の文字をタップした。


「もしもし」

『燈瑚、もう学校終わった?』

 母の慌てた声が妙に耳に響いて、僅かに顔を顰める。

「終わったわよ」

『ママ、これから仕事パート切り上げてお兄ちゃんの病院行くから、あなたも着いてきなさい』

「どうして?」


 燈瑚は乱暴にストローをかき混ぜながら言った。電話の向こうにいる母にも、氷ががちゃがちゃいう音が聞こえているかもしれないが、知ったこっちゃないとばかりの

無表情だ。


『どうしてって……お兄ちゃんが入院したのよ?』

 母は娘の非情さに、責めるように声を高くした。僅かにスマートフォンを耳から遠ざけて、あまつさえスピーカーの辺りを軽く手で押さえた燈瑚は、はっきりと自分の意思を告げる。


「悪いけど、私は行かないわ」

 今度は母の方が『どうして』と言う番だった。だんだんと声が高くなってきて、カフェ内に、いもしない母の声が反響しそうだ。


「行く必要ない。別に心配なんてしていないもの。兄貴の自業自得でしょう? 私はいずれ兄貴がこうなることくらい予想していたよ。ママはしていなかったの? あんな奴、放っておけばいいのに、どうしてそんなに兄貴を甘やかすの?」


 まるで畳みかけるような口調に、電話の向こうの母はしばし沈黙した。

 どんな叱りの言葉が飛んでくるかと、ほんの少し身構えていた燈瑚だったが、意外にも、

『そんなこと言わないで。少しだけでいいのよ、会いに行きましょう』と、気弱な態度で説得を試みてきた。


「……」

 燈瑚は、別にそんなつもりは微塵も無いのに、母をいじめているような気分になって、少し語気を和らげて言った。

「……私は自分で行くよ。だから今日はママだけ行って?」

 母は暫く黙り込んだ後、諦めたように了承して、電話を切った。


 燈瑚は苛立ったようにスマートフォンを鞄の中に放り込む。

 どうも母は兄に甘いところがある。もちろん、悪い仲間とつるんだり、喧嘩に明け暮れる息子には酷く手を焼いているようだが、今回のように自分のせいで怪我をした兄に対して、やや過保護なところがあることに、母親本人は気が付いていないだろう。

 兄もなのだし、そろそろしっかりしてほしいところなのだが。


 その時、カフェに駆け込んできた女学生が、燈瑚に向かって「千束さぁん」と甘えた声で呼びかけた。

 振り返った燈瑚の視線の先には、艶々した鳶色のボブカットを揺らして近寄ってくる少女がいた。

 地味な薄化粧の燈瑚とは対照的に、彼女はやや濃いめの化粧を施し、勉強しに来ているだけの大学に高価そうなアクセサリーや鞄をこれ見よがしに提げた格好で登場した。


 彼女は同じ学部ので、今しがた終わった近現代文学でも机を共にしている。――が、今日の講義では姿を見かけなかった。


「こんにちは、秋野さん」

 燈瑚はにっこりとを浮かべて、秋野みつきに向き直った。

 学友は挨拶も早々に、

「ね、千束さん、今日の近現代文学、出席した?」

 と、軽く息を乱して、図々しくも向かいの椅子に腰を下した。きつい香水の香りが鼻腔を突く。

「ええ、出たわ」

「ほんと! 私、寝坊しちゃって出られなかったの。今日の分のノート、貸してもらってもいい?」


 燈瑚は、口から出そうになったため息をやっとのことで口の中に推し留め、愛想笑いを深めながら、うんうんと頷く。

「もちろん、いいわよ」

 燈瑚は鞄の中から猫のシールを貼ったノートを取り出し、秋野に手渡す。

「ありがとう。すぐ返すね」

「いつでも大丈夫よ」

 彼女はそそくさと立ち上がってカフェを出てゆくと、講義室のある方向には見向きもせず、そのまま食堂へと向かって行った。


 ――ノート借りに来ただけかよ。


 燈瑚は、乱暴に愛想笑いを拭い去り、深く椅子にもたれると、甘ったるいミルクティーにさしたストローを忌々しげに噛み締めた。


 大学一回生の初夏、千束燈瑚の心は荒れていた。その理由は、同窓たちとのにあり。

 真面目で一切断りの言葉を口にしないのを良いことに、燈瑚の周りには今のようにノートを借りに来たり、配布された資料をコピーさせてくれとせがんだり、さらには図々しいことに、代返を頼んだりと、怠惰な輩が集う。


 自分が学友たちにとって、都合の良い人間だというのは理解しているし、正直、腹立たしい。自分が頑張って作り上げたノートを、授業に出席すらしていない怠け者たちに、どうして見せてやらねばならないのか。


 何より苛立つのは、そういう子らに対して「嫌だ」という返答を叩きつける事が出来ない自分に対してだった。

 それには明確な理由があって、ここでノートを貸さない選択をしてしまえば、たちとの関係にひびが入ってしまう。最悪、「あの子、ノートも貸してくれないのよ」などと理不尽な悪口の標的になってしまうのが不本意だった。それらを避けたいがため、彼女は己の努力を犠牲にして、現在の交友を保っているのである。

 彼女らは勉強に対しては酷く怠惰であるが、燈瑚は友人関係を築くことに対して怠惰な性格だった。


 本当、嫌になってしまうわ。友人も、私も。燈瑚は苛立った思考を鎮めようと、読みかけの文庫本を手に取り、栞が挟んであるページを開いた。

 読書は、彼女の荒くれた心を鎮めてくれる。

 一番の友達は、いつも傍にいてくれて、とても面白い世界を見せてくれるかれらだ。

 片時も離れたくない。嫌なこと、辛いことがあったとき、燈瑚を慰めてくれる友人など、彼らの他に存在しないのだ。


 彼女の周りはたちまち本の中の世界に塗り替えられてゆく。

 切り立った崖に沿うようにして、幅の狭い道が伸びる。主人公たちはその足場の悪い道を励まし合いながら渡り、遥か眼下に流れる大河の激流に身を竦ませた。

 ああ、恐ろしい。半身の先に広がる無限の空間。時折吹き付ける風に煽られれでもすれば、たちまち体は死の底へ真っ逆さまである。


 文字通り手に汗握りながら、冷めゆくホットケーキの存在も忘れて、燈瑚はしばし本の中の住人となった。

 しばらくして、ふと顔を上げると、壁にかかった時計の針が思ったよりも進んでいたので、冷たくなったホットケーキをぱくつきながら、残りのミルクティーを飲み干して席を立った。


               ▼▽▼


 外では太陽が西へ傾きかけ、一日の終わりが間もなく訪れることを地上の人間に叫んでいる。


 大学と家との往復は、電車で十分もかからない。家から最寄り駅までが歩いて十五分。駅から大学までが六、七分で、トータルの通学時間は、三十分~四十分程度だ。


 燈瑚は、兄の入院や、友人との会話で得た鬱々とした心を抱えたまま、ぼんやりと駅を目指した。

 来た電車に乗り込むと、車内では制服を着た高校生が賑々にぎにぎしくおしゃべりをしている姿が多く目に付いた。

 三駅先で下車し、人々の賑わいから離れ、物静かな住宅街の方へ向かう。


 西日の作り出すノスタルジィな雰囲気のせいか、気分はどこか物寂しい。

 大学に入学して二ヶ月は経つと言うのに、どうも心にゆとりが出ない。例えるならば、常に作文発表の順番を「今か、今か」と待ち続けているような心地とでも言おうか。意味もなく焦って、あがいて、ありもしない正解を追い求めている。


 勉強だけしていたい。大学での友人関係などすべて放棄して、ただ己の知識だけを高めていけたら楽なのに。

 彼女の心を無意味に急き立てるのは、一方的に搾取されるだけの現在の友人関係が原因だった。


 すれ違った二人の女子高生が、今流行の映画について楽しそうに議論を交わしながら駅の方へ歩いてゆく。その心から楽しそうにしている彼女らを見て、燈瑚は抗いがたい虚無感に襲われた。

 ――羨ましいな。友達……。


 子どもたちが元気に駆け回る公園の前を通過したその時、鞄の中でスマートフォンが振動した。母からのメッセージを受信していて、内容は《今から帰る》とのこと。続いて、《夕飯は、今日はお惣菜買って帰るね》。

 燈瑚は道の端に立ち止まり、《了解》のスタンプを押して、アプリを終了させた。


「まったく、馬鹿兄貴」


 ひと気のなくなった道の隅っこでポツリと呟いた。

 ――本当、どうしてあんな不良なんかになっちゃったのよ。入院するまで喧嘩に本気出しちゃって、馬鹿野郎。

 心の中で兄への不満をぶちまけていたその時である。


「千束ッ!」


 急に背後から名前を呼ばれて反射的に振り返ると、同い年くらいの男の子が三人、横に並んで立っていた。妙に厳めしい雰囲気の、――ガラの悪い少年たちだ。


 ――誰だったかしら。中学時代の友達……?

 といっても、彼女に話しかけてくるほど仲のいい地元の友人は少ない。ましてや異性の友人など、一切存在しないと言ってもあながち間違いではないのだ。


「えーと……」

 全く見覚えの無い顔触れをまじまじ眺めていると、彼らは親のかたきにでも向けるような恐ろしい顔で、彼女に詰め寄ってきた。


 いきなりのことに思考が追い付かない。「あの」、「えっと」と、意味のない声を漏らすことしかできないまま、格好悪く後退りする。

 ようやく、まともな言葉として「何のご用で……」と訊ねたその時だった。

 ガツン、と側頭部に衝撃が走って、燈瑚の声は不自然な余韻を引いて途絶えた。


 ――え、何、今の……。


 燈瑚は、脳の奥から響いてくるような耳鳴りに聴覚を支配されながら、地面に倒れ伏すなり、意識を手放した……。

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