第六章

 柿沼大輔の遺体の身元確認が済んだ時点で、所轄に開設されていた「骨董店店員殺害事件特別捜査本部」は解散していた。そのうえ、柿沼大輔、及び彼を殺害した野島流海の両名は、被疑者死亡のまま書類送検されている。だが、柿沼大輔が坂田茂雄を殺害した動機が不明な点や、柿沼大輔と野島流海の二人以外にも被疑者の存在する可能性が否定できないこと――などを理由に、佐々木警部補が捜査の続行を訴えたのだ。

 佐々木の蛇のような執念深さが功を奏したのか、捜査一課殺人犯捜査第五係は捜査再開の命を受けた。坂田骨董店での事件とマンションでの事件とを包括的にとらえる必要から、証拠品などを調べるナシ割りはそれぞれの所轄に当てられ、捜査第五係は聞き込みを担うことになったわけである。

 もっとも、今回の尾行は偶発的だった。小野田は佐々木との聞き込み捜査の途中、商店街を歩いていたときに、生花店から出てくる宮下愛里をたまたま見かけたのである。佐々木とともにしばらく様子を見ていると、宮下愛里は寺の駐車場で堀口拓也と合流したのだ。

 しかし、小野田は捜査の突然の進展に喜悦する一方で、佐々木の機嫌が悪くなるのを予測し、憂慮した。

 商店街で聞き込みをしている最中に、小野田は冗談で佐々木にこんなことを言っていた。

「もしかしたら、今日辺り、堀口拓也か宮下愛里が、なんらかの動きを見せるかもしれませんよ。しかも、ここ……彼らのふるさとで」

「そういった都合のいい展開なんて、まあ、ありえないな。もし小野田の言うとおりになったら、一杯だろうが二杯だろうが奢ってやるよ」

 佐々木は鼻で笑ったが、小野田の冗談が現実となってしまったのだ。

 もっとも尾行中の小野田には、二カ所の墓地を回っただけで終わるのではないか、という懸念があった。どこまで泳がせておくかは佐々木の判断次第だったが、一線を越えた捜査は「プライバシーの侵害」と訴えられかねない。

 いずれにしても、事件解決への糸口を得たのは事実だろう。

 佐々木からの奢りは、丁寧に断るつもりだった。貸しだの借りだのを作りたくない相手なのである。

 小野田が第五係に転属して佐々木の部下になったのは、約二年前のことだ。しかし小野田は、未だにこの佐々木という男になじめていない。初対面の人間は誰しもが佐々木を鷹揚と感じるようだが、実際はかなり狡猾な男なのだ。聞き込みや取り調べでは、必ず自分の部下に横暴な態度を取らせる。そして、佐々木自身は穏和なベテラン刑事を演じ、被疑者や関係者を安堵させて口を割らせるのだ。まるで刑事ドラマである。

 聞き込みなどの外回りは主に二人一組だ。第五係には小野田より若い男性刑事が一人いるのだが、佐々木が捜査の相方に起用するのは、もっぱら小野田だった。どう抗おうとも、小野田は佐々木に言いくるめられ、外回りに担ぎ出されるのだ。

 しかし、警視庁捜査一課の刑事の仕事は、聞き込みやナシ割りだけではない。被疑者の取り調べや、膨大な量の書類作成もある。一連の事件の捜査でも、小野田は最初から佐々木につきっきりだった。おかげで、小野田の書類はたまり放題である。書類作成には後輩の手を借りるつもりでいたが、その後輩はすでに佐々木の報告書を代書していた。小野田は佐々木の狡猾さを呪った。

 佐々木のやり方がどうであれ、小野田が短気なのは事実だ。自覚もしている。この性格を佐々木に利用されているのは、概ね間違いない。

「小野田」

 堀口拓也が話し始める直前に、佐々木が振り向き、小野田に目配せした。さっさとメモの用意をしろ――という意思表示である。

 ため息をこらえ、小野田はスーツの内ポケットからメモ帳とボールペンを取り出した。

「こういうの、たまには阿部あべにもやらせてやれよな」

 誰にも聞こえないように、小野田は小声で自分の後輩を推していた。


 愛里は固唾を吞んだ。忘却の彼方に追いやられたはずの過去が――真実の過去が、今まさに暴かれようとしている。

「ぼくたち五人が一緒に行動するようになったのは、小学五年生のときでした。クラス替えで同じクラスになったんです」

 堀口が話し出すと、小野田はメモ帳にボールペンを走らせた。

 話の導入に虚偽のないことを認めた愛里は、黙して頷く。

「それ以前は」堀口は続けた。「坂田や宮下さん、ぼくの三人は、おのおの別々のクラスでした。以上の三人とは別のクラスだった流海と柿沼……この二人は三年生のときから一緒のクラスでしたが、特別に仲がよい、ということはなかったみたいです。ただ柿沼は、当時から流海に恋心を抱いていました。ぼくと流海が付き合い始めて以降も、柿沼は流海を好きでいましたね。もっとも、柿沼は宮下さんにも熱を上げていましたけど」

 ショルダーバッグのベルトを握り締めたまま、愛里は困惑する。

「柿沼くんが流海を好きだった、っていうのも、あたしは知らない。……それも、失った記憶の一つなの? 柿沼くんのあたしに対する気持ちは知っていたけど、そこに流海への思いが入っていたとは知らなかったよ」

「昔の君は、知っていたはずだよ」

 堀口は答えた。

「複雑な気持ちだよ」愛里は言った。「柿沼くんに対して恋心を抱いたことなんて一瞬もなかったけど、自分のたった一人のファンだと思っていた彼さえ、流海にも恋していたなんて。たぶん、流海のことが本命だったんだね」

 自分は柿沼にとって流海の予備にすぎなかったのかもしれない。情けなさの余り、思わず笑ってしまう。笑いながら横目で見ると、小野田がメモ帳に書き殴っていた。こんな話まで記録されている現状がむなしい。

 堀口が佐々木に顔を向ける。

「とにかく、それ以前のぼくたちは、ばらばらだったんです。しかし、五年生に進級し、この五人が同じクラスになったことで、一つのグループができたんですよ」

「つまり、自然とグループができ上がった、ということですか?」

 佐々木は尋ねた。

 しかし、堀口は首を横に振る。

「違います。それ以前の五人は、特定の友人がいなかったんです。流海や坂田や柿沼みたいに浮いた存在とか、宮下さんやぼくみたいに目立たない存在とか。それを、野島流海が強引にまとめたんです」

「何を言っているのよ」愛里は動揺した。「みんな気が合っていたじゃない。仲よしだったじゃない。なのに、強引にまとめただなんて」

 と訴える愛里を、堀口は見る。

「宮下さん、それはね、故意に消された記憶なんだよ。そして代わりに、違う情報が植えつけられた」

「故意に消された?」と佐々木が首を傾げた。

 混乱したまま、愛里は堀口に向かって反駁する。

「忘れてしまった、というのならわかるけど、記憶を故意に消すなんて。……じゃあ、誰があたしの記憶を消したの? 違う情報を植えつけるだなんて、まるで催眠術じゃない」

「催眠術と言えるかもしれないけど、そんなに大げさなものじゃないよ。宮下さん、君はね、暗示にかかりやすいんだよ」

「暗示……」

 呆気に取られ、愛里は言葉を失った。

 佐々木に視線を移し、堀口は続ける。

「流海は野島家の娘です。父親は大地主で、帝都交易株式会社の社長でした。そのためか流海は、絵に描いたようなお嬢様で、気随気ままでした。おかげで、ほとんどの同級生に敬遠されていましたね。だから彼女は、五年生に進級すると同時に、自分に恋心を抱いている柿沼をそばに置いたんです。恋人としてではなく、下僕としてね。同時に、柿沼と同じくらいに喧嘩の強い坂田をも取り込んだんですよ。坂田も柿沼も、それまでは浮いた存在でした。お嬢様のお付きになったことで仲間ができて、さぞ、嬉しかったんでしょう」

「まずは三人の仲間ができた……ということですか?」

 佐々木が問うと、堀口は頷いた。

「はい。それも、かなり強力な仲間がね。しかしそれだけでは、三人揃って、浮いた存在になってしまいます。近所であろうと学校であろうと、評判が悪くなります。そこで流海は、目立たない存在だった宮下さんに白羽の矢を立てたんです。仲間内でのバランス取りを計ったんですよ」

「違うわ!」愛里は声を上げた。「流海はそんな下心なんて持っていなかった。いつだって、あたしに優しかったもの」

 ここまで流海を愚弄するとは、いくら相手が堀口でも、愛里にはとても許せなかった。

 メモを取っていた小野田が、佐々木の背後で小さく舌打ちした。若い女の感情論まで書き込んでいたのでは切りがない――とでも言いたそうな表情である。

「小野田、真面目にやれよ」

 振り向きもせずに佐々木が戒めた。

「申し訳ありません」

 小野田は一瞬にして事務的な面持ちを取り戻した。

 タイミングよく、堀口が話を再開する。

「流海は、最初のうちは宮下さんを下女のように扱っていました。パシリ、というやつです。とはいえ、次第に情が移ったんでしょう。ほかに話せる同性もいなかったし。いつの間にか流海は、宮下さんをかわいがり始めたんです。もっとも今の宮下さんは、流海のパシリだった頃なんて、まったく覚えていないでしょう。……だよね?」

 と堀口は愛里の顔を見た。

「パシリなんて、やっていないよ」

 答えたが、自信はなかった。

 堀口は佐々木に顔を向ける。

「最後に、五人目の仲間が、このぼく……堀口拓也です」

「堀口さんが仲間に入ったおかげで、ようやく役者が揃ったわけですな。小学生が五人なら、戦隊ヒーローごっこもできるし」

「しかし佐々木さん、敵がいないと戦いになりませんよ」

 と佐々木の諧謔に反応したのは小野田だった。空気を読んだのか、小野田は咳払いをしつつ、メモに集中する。

「ぼくを仲間に誘ったのは」堀口は言った。「坂田と柿沼でした。かなり強引で、脅しとも取れる誘い方でしたね。もちろん、流海の指図です。最初は、何が目的なのか、まったくわかりませんでした。しかし、すぐに理由が判明しましたよ。流海はぼくと付き合おうとしていたんです」

「それは、なんとなく覚えている。どうして堀口くんを誘ったのか、あたしにも最初はわからなかった。けど、流海は堀口くんに熱を上げていたもの。だから、告白する目的で堀口くんを仲間に入れた。この記憶は、正しいんだよね?」

 不安を押し殺し、愛里は堀口に尋ねた。

「ああ、そうだよ。告白するのにも条件がいいし、とりあえずは仲間に入れたんだろうな。しかしぼくは、仲間への誘いを断ろうとしたんだ。坂田のことも柿沼のことも嫌いだったし、流海のことだって嫌いだったしね」

「どうして……どうして、嫌いだった、って言うの?」

 愛里は涙声になってしまった。

 そんな愛里を、堀口は見つめる。

「坂田と柿沼はなんでも暴力で解決しようとしたし、流海はなんでも金や権力で解決しようとした。それに流海だって暴力を肯定していた。気に入らない相手には、坂田と柿沼とを差し向けた……自分たち以外の生徒が横行するのを絶対に許さなかったんだ。そんな悪辣なグループなんかに、ぼくは入りたくなかった。でもそんなグループに、ぼくの大好きな子がいたんだよ」

 堀口の視線は愛里に定まっていた。

「あたしのこと?」

 戸惑いを隠せず、愛里は目を丸くした。

「そうさ。宮下さんのそばにいられるのなら、と決意して、ぼくは流海のグループに入ったんだよ」

「それ、本当なの? 堀口くんがあたしのことを好きだったなんて、まったく気づかなかった」

 愛里は自分の顔が熱くなっているのを悟った。

 よほど呆れたのか、小野田がメモを取りながら顔をしかめる。

「しかし、君に告白できる状況ではなかった」堀口は続けた。「ぼくがグループに入ると、流海はここぞとばかりにしつこく迫ってきたんだ。デートに行こうとか、一人でうちに遊びに来いとかさ。ぼくは頑なに断り続けた。そして断るたびに、坂田と柿沼……この二人から暴力を受けたんだ。特に柿沼は、流海に気があったし、流海に誘われるぼくが憎かったんだろう。……あいつには毎日、殴打され、蹴り飛ばされたよ。怪我をしない程度に手加減はしていたらしいけど、ぼくにとってはこのうえないほどつらかったね」

「信じられない」

 愛里が首を横に振ると、堀口は周囲を見渡した。

「宮下さん、ここでみんなと遊んだのは小学生のときだったけど、どんな遊びをしたか、覚えているかい?」

「えーと……五人で鬼ごっこをしたり」

 目を泳がせながら、愛里は答えた。

「あとは?」

 堀口は迫った。

「あとは……」

 声の震えが止まらなかった。胡乱な記憶ばかりが脳裏をよぎる。どうしても答えが見つからない。

 不意に、小野田がメモ帳から顔を上げた。

「あのなあ、堀口さん。宮下さんは思い出せないんだよ。男らしく自分で言ったらどうなんだ」

 怒気を孕んだ声だった。

 部下の出しゃばりが気に入らなかったのか、佐々木が大仰にため息をついた。

 堀口が小野田に向かって頷く。

「そうですね……いいでしょう。ぼくの話を聞いているうちに、宮下さんも思い出すかもしれない」

 そして堀口は、愛里を見つめた。

「そりゃあ鬼ごっこもしたよ。しかし、一番多かったのは、反省会という名の、いたぶりだったんだ」

「いたぶり……って、まさか、堀口くんが、殴られたり蹴られたりしたの?」

 愛里は尋ねた。

「そうさ。反省会では、いつもぼくだけが吊し上げられていた。坂田と柿沼が、流海に命令されるまま、ぼくを殴ったり蹴ったりしたんだ。それを流海は満足そうに眺め、そして宮下さんも、黙ってそれを見ていた。とにかく五人の仲間のうち……本当の意味で仲間とは言えないだろうけど、三人が死んでしまった。しかも君は記憶を失っている。覚えているのがぼくだけでは、信じてもらえないかもしれないけどね」

「いや」佐々木が容喙した。「同級生など関係者に聞き込んで得られた情報と、ほぼ符合しますよ」

「さすがは刑事さんですね」

 堀口は苦笑した。

 暗澹とした空気が満ちた。

 愛里の目に涙が浮かぶ。

「あたし、堀口くんが暴力を受けているのを、黙って見ていたの?」

「ああ、そうだよ。ぼくの大好きだった宮下さんは、ただ黙って見ているだけだった。大丈夫とか、しっかりしてとか、なんの一言もなかったよ。宮下さんも流海の言いなりになってしまったんだな……って、ぼくは受け取ったんだ」

「あたし、本当に何も覚えていない。どうしても思い出せないよ。そんなひどい出来事を忘れてしまうなんて」

 しゃくり上げながら、愛里は訴えた。

 しかし、堀口は冷ややかな表情で言う。

「宮下さんはぼく以上に内気でおとなしかったし、ただ単に流海に逆らえないんだ、と最初は思ったんだ。でも、それだけじゃなかった。宮下さんは暗示にかかりやすい、とぼくは言ったよね。あの頃の宮下さんは、衝撃的な出来事や恐ろしい目に遭うと、自分自身に暗示をかけて、記憶の一部を消失させていたみたいなんだ。担任に小言を言われるなどの些細な出来事なら、本当に記憶から消していたしね。一晩経つと、前日の担任の小言をすっかり忘れていたんだよ。その事実に気づいたのは、流海だった。そこで流海は、ぼくへの暴力の様子を忘れさせようとして、宮下さんに暗示をかけてみたんだ」

「どうやって?」

 涙をぬぐい、愛里は尋ねた。

「簡単なことだよ。宮下さんの耳元に優しく囁きかけるだけさ。何もなかった……あなたは何も見ていない……嫌なことは全部忘れよう……わたしがついているから大丈夫……そんな感じでね」

 堀口の言葉が流海の言葉と重なった。


 愛里は何も悩まなくていいんだよ。

 嫌なことなんて忘れちゃいなさい。

 大丈夫、わたしがついているからね。


「うそよ」

 流海によって自分の記憶が消されていたなど、愛里は信じたくなかった。

 堀口は続ける。

「実際、宮下さんの記憶では、今年の暑気払いでの騒動が、柿沼の単なる告白に置き換えられている。流海も苦労したらしいよ。下手をすると、暑気払い自体が宮下さんの記憶から消えてしまう恐れがあったんだ。だから、宮下さんの記憶にある暑気払いは、曖昧なものになっているのさ」

 消された記憶と作られた記憶。自分の記憶のどの部分を信用すればよいのか、愛里はわからなくなっていた。

「暗示……なるほど。そして実際に、宮下さんは、嫌な思い出を忘れてしまったわけだ」

 佐々木が言った。

「そうです」堀口は佐々木を見た。「ぼくだけじゃなく、仲間以外の誰かが坂田や柿沼によって暴力を受けるたびに、流海は宮下さんに暗示をかけていたんです。宮下さんは、争いごとや暴力が嫌いだった。そんな宮下さんに嫌われないために、流海は流海なりに画策していたんですよ」

 だが、納得できない愛里は、涙目で堀口に疑念をぶつける。

「あたしに嫌われないようにしておいて、どうして堀口くんには坂田くんや柿沼くんを使って暴力を加えていたの? 流海は堀口くんのことが好きだったんだよ」

「ぼくが逆らわないように……これが理由さ。事実、暴力に怯えていたぼくは、仲間から抜け出せなかった。それでも、小学生時代のぼくは、流海とは付き合わなかったけどね」

「ところで堀口さん……手鏡とやらは、どこで絡んでくるんですか?」

 痺れを切らせた趣で佐々木は尋ねた。

「そうでしたね。それは、ここからです」

 堀口は答え、右手に持つ灰色の革袋を見下ろした。

「聞き込み捜査によると、昭和の何か、というものもかかわっているとか?」

 割って入った小野田を見て、堀口は失笑する。

「坂田と柿沼との言い争いを耳にした人たちの、聞き違いですよ」

「聞き違い?」

 佐々木が眉をひそめた。

「はい……ショウワ、ではなく、ショウマ、です。ぼくの持っているこの手鏡のことを言っているんですよ。国語辞典にも載っている照魔鏡です」

 と説明しながら革袋を揺らす堀口に向かって、佐々木は意味深長な表情を浮かべる。

「人の魔性を映すという鏡ですな。明治時代には、文壇照魔鏡事件、と名づけられた騒動もあったくらいだ」

「佐々木さんって、意外に該博なんだ」

 感心した顔で小野田が言った。

 しかし、振り向きもせずに佐々木は一喝する。

「余計なことはいい。きちんとメモを取っていろ」

「はあ」

 小野田はしぶしぶと答えた。

「堀口くんの持っているその手鏡が……人の魔性を映すの?」

 嗚咽混じりに、愛里は堀口に尋ねた。

「本当に人の魔性を映すかどうか……それは別としても、見たとおりのことを話すよ」

 答えた堀口は、佐々木に顔を向ける。

「先ほど野島流海の墓参りに行きましたが、そこで偶然に、流海の父親……元社長の野島祐蔵さんに会いました。ぼくは手鏡の購入のいきさつを子供の頃に聞いていたし、手鏡を巡る騒動も概ねは見てきました。しかし、ちょうどいい機会だったので、それらの事実を宮下さんに知ってもらうために、野島さんに説明していただいたんです。

 この手鏡は、野島さんが中国で購入して日本に持ち込んだものです。とても古い品みたいですが、中国の土産店で売っていたものなんです。だから野島さんは、安物だと思ったらしいですね。でも、この手鏡の謂われ……人の魔性を映し出すものであることは、土産店の店長から聞いてはいたそうです。それを娘である流海に土産として渡したんですよ」

 堀口は口を閉じ、愛里を見た。

「さっきもおじ様が話してくれた、あたしの記憶から消えていた部分……」

 生気のない声で愛里が言うと、堀口は再び佐々木に顔を向けた。

「野島さんが照魔鏡を流海に渡したのは、ぼくたちが小学六年生のときでした。六年生への進級ではクラス替えがなかったんで、五人とも五年生のときと同じクラスのまま、四六時中一緒でした。仮にクラスが分かれてしまっても、流海はなんとかして五人の仲間という形を維持したでしょうけどね。

 で、照魔鏡ですが……人の魔性を映し出すという手鏡を、流海はとても気味悪がっていました。とはいえ、父親の土産です。捨てるのも忍びなかったんでしょう。流海は、骨董店の息子である坂田に手鏡を無償で譲り、骨董品として売るといいよ、と言ったそうです。坂田は両親に内緒で店の隅に手鏡を置いたのですが、両親に気づかれないくらいですから、客にも気づかれず、結局は売るのを諦めたんです。野島さんが三万円で購入したのに対し、坂田は五万円の値をつけていましたね」

「その先は、あたしにはまだわからない」

 どうにか嗚咽を抑え、愛里は告げた。

 堀口は愛里を見つめるが、表情が険しい。

「手鏡を店に置くのを諦めた坂田は、それを流海に返そうとしたんだ。坂田本人は手鏡なんて使わないだろうし、売れないものを持っていても仕方がない。どうしようか、ということになり、ぼくたち五人はここに集まったんだ。冬の昼下がりだったな。とても寒くて、ちょうどその辺りで、たき火をしたんだ。当時は、まだアスファルトじゃなかった」

 と堀口は駐車場の隅のほうを指差した。

「子供たちだけでたき火とは、感心できませんな」

 そう言う佐々木を無視して、堀口は愛里に顔を向ける。

「骨董店では坂田の両親の存在が気になって、仲間たちはなるべく手鏡に目を向けないようにしていた。特に、宮下さんと柿沼、ぼくの三人は、手鏡をじっくりと見る機会がなかった。実質上は、冬のあの日が、きちんとしたお披露目だったのかもしれない。

 ここに集まったみんなの前で、流海は手鏡を掲げた。先に宮下さんに伝えておいたとおり、手鏡は銅鏡で、鏡面も背面も持ち手も、銅合金でできていたんだ。鏡面はぴかぴかに磨き上げられていたけど、それ以外の部分はいかにも中国らしい装飾というか、たくさんの蛇の体が巻きついたかのような、派手な彫刻が施されていた。

 あのときの宮下さんは、それはもう、うっとりとしていたよ。宮下さんどころか、柿沼でさえその彫刻に見入っていたもんな。もっともあいつは、金になるかならないか、それだけが問題だったみたいだね」

「ね、堀口さん」佐々木が苛立たしげに吐いた。「問題の手鏡とやらは、あなたが右手に持っている袋に入っているんでしょう? 出して見せれば早いじゃないですか」

 しかし、堀口は反論する。

「ぼくの話をちゃんと聞いておかないと、あとで後悔する……かもしれませんよ」

「ふっ……後悔ですか。そこまでおっしゃるんであれば、話を進めてください」

 呆れ顔で佐々木は促した。

 堀口はそれを受けて口を開く。

「では、進めます。手鏡の本来の持ち主である流海は、もちろん、手鏡に映る自分自身の姿を見ています。骨董店の片隅にそれを置いた坂田も同様に、手鏡に映る自分自身の姿を見ています。仲間内で三番目に手鏡を持ったのは柿沼でしたが、異変はそのときに起こりました。あの日、この場所で、恐ろしいことが起こったんですよ。手鏡に映った柿沼の顔が、柿沼ではなかった……というか、人間の顔ではなかったんです」

「これは参ったな」佐々木が高笑いした。「それでその手鏡が、照魔鏡、ということになったわけですか。見る角度によっては映ったものが歪んだりするんじゃないんですか。ましてや、相当古いものらしいですし」

 そんな放言を予測していたのか、堀口は余裕の笑みを浮かべる。

「いろいろと試してみましたよ。もう一度、流海と坂田が手鏡を覗いたんですが、何も異常はありませんでした。しかし、柿沼の顔を映すと怪物のような顔になってしまうんです。爬虫類……真っ黒な蛇のような顔です。ぼくが柿沼の背後から手鏡を覗くと、ぼくの顔はぼくのままなのに、柿沼の顔だけが怪物でした。ところが、当の本人である柿沼は喜んでしまいましてね。その時点では誰も照魔鏡なんて知りませんでしたから、柿沼は流海の言葉をまねて、これは呪いの手鏡だ、と言ってはしゃぎ出したんです。

 有頂天になる柿沼に勧められて、宮下さんも手鏡を持ちました。柿沼の顔が怪物として映ったのを宮下さんだけは見ていなかったんです。だから、柿沼の顔が怪物として映った、なんて信じられなかったんでしょう。当の柿沼がはしゃいでいたくらいだし。宮下さんは、うそばっかり、なんて笑いながら自分の顔を手鏡に映したんです。ところが……そこに映った宮下さんの顔も、柿沼の場合と同じく、真っ黒な怪物でした」

 愛里の全身が粟立った。信じられない、というより、信じたくなかった。流海の言っていた「恐怖症になってしまうほどインパクトがあること」とは、これだったのだ。

 さすがに、佐々木はもう笑わなかった。

 メモを取っていた小野田が、神妙な顔を堀口に向ける。

「続きがあるんなら、どうぞ」

 小野田の一言に堀口は頷く。

「宮下さんは泣き叫びましたよ。まさか柿沼のようには喜べないでしょう。そして、宮下さんをかわいがっていた流海も動揺していました。

 そんな状況だったので、ぼくは流海が手鏡を破棄するものだと思ったんです。ところが流海は、手鏡を……手鏡の鏡面を、ぼくの顔に押しつけてきたんです。流海はこう言っていました。わたしの思いを受け入れてくれない堀口くんこそが怪物よ、ってね。ぼくは逃げようとしましたが、坂田と柿沼につかまり、押し倒されてしまいました。熱く燃え盛る、たき火の上に」

 愛里の震えが大きくなった。否定したいのに、言葉が何も出てこない。否定できる材料が、何もないのだ。

 メモを取る小野田が、顔を強ばらせていた。

 佐々木は呆然としている。

 黙する三人の前で、堀口が自分の足元に革袋をそっと置いた。そして、テーラードジャケットを手早く脱ぐ。脱いだジャケットは、革袋の上にかぶせられた。

「そのときの火傷の痕ですよ」

 Uネックのカットソーという姿の堀口は、左の袖を上腕までたくし上げた。

 肘の周辺がケロイド状にただれている。

 愛里は目を見開いた。癒えることのない傷――これが、サポーターの下に隠されていた傷なのだ。

 袖を下ろし、堀口は言う。

「ところで……その後、何度も試してみたんですが、手鏡に映ったぼくの顔は、ぼくのままでした。不思議ですよね。照魔鏡なら、ぼくの悪意の部分も映すはずなのに」

 堀口は冷笑し、足元のテーラードジャケットを拾うと、土埃を払ってそれを纏った。

「堀口さんにも悪意があったんですか?」

 佐々木に尋ねられた堀口は、革袋を拾い、空を仰ぎながら答える。

「流海や坂田にしたって同じです。あの二人も照魔鏡に怪物としては映りませんでしたが、では、彼らに悪意はなかったんでしょうか? 悪意のまったくない人間、なんているんでしょうか? それにぼくは、自分の仲間たちを恨んでいましたから。特に、ぼくを失望させてくれた……宮下さんをね。ぼくにだって、悪意はあるんですよ」

 そして堀口は、愛里を見つめた。

 射抜く視線に圧倒され、愛里はゆっくりとあとずさる。

「君はそうやっていつも逃げていた」堀口は愛里に詰め寄った。「嫌な記憶や都合の悪い記憶は自分で消そうとし、どうしても消せない記憶は流海に消してもらった」

「ごめんなさい……あたしも堀口くんを追い詰めていたんだね。けど、本当に何も思い出せないの。記憶を流海に消してもらったとか、自分で消したことさえ。堀口くんの左肘のサポーター……火傷のことも……本当に思い出せない……」

 コンパクトカーの車体が背中に当たり、それ以上は後ろに下がれなかった。懺悔したくても、記憶がないのでは、どう詫びてよいのか、わからない。

「だろうね。ぼくが火傷を負った事件も、流海が君の記憶から消したはずだし」

 堀口は愛里を追い詰めるのをやめて振り向き、佐々木を見た。

「そのあとすぐに、手鏡は坂田が保管することになりました。流海が坂田に譲ったものですからね。しかし柿沼は、それを自分に譲れ、と坂田に執拗に迫っていました。

 ちなみに、騒動を知った野島祐蔵さんは、ぼくやぼくの両親に謝罪し、慰謝料や治療費を支払ってくれました。もっとも野島さんは、手鏡に怪物が映ったことなど、信じてはくれませんでしたが。流海はというと、それ以降、少しはおとなしくなりましたね」

 愛里にとっては、堀口の語る「過去」のすべてが、忌まわしい出来事だった。吐き気を催しそうになるくらいに、悲しみと苦しみが胸を締めつけている。

 だが、耳を塞ぐわけにはいかない。自分も、かかわった一人なのだ。

 堀口は続ける。

「手鏡に照魔鏡と名づけたのは、ぼくです。火傷を負った事件のあと、インターネットや本で調べました。伝説の照魔鏡とは違うのかもしれませんが、便宜上、そう呼ぶことにしました。みんなもそれに倣いましたね。

 その照魔鏡は、つい最近まで坂田が保管していたんです。坂田は流海と同様に気味悪がっていましたが、そんな魔力があるのなら値打ちはあるに違いない、とは思っていたみたいです。無論、それを使って一儲けしたい、と考えていた柿沼も同じでしょうけど」

「ところで、堀口さんと野島流海は、最近はいい仲だったのではありませんか?」

 佐々木の問いに堀口は答える。

「中学一年生のときには、もう付き合っていましたよ」

「ほう、それはまたどういう風の吹き回しがあったのですか?」

「中学一年生のときは、ぼくと流海は一緒のクラスでしたが、あとの三人は別々のクラスでした。中学では、二年、三年と、毎年クラス替えがありましたが、五人が揃って一緒のクラスになることはありませんでした。中学時代にぼくと流海が一緒のクラスだったのは、一年生のときだけです。

 とにかく、中学生になっても五人の仲間は続いていました。また同じことが繰り返されるのか、と気が滅入りましたよ。だから、流海と一緒のクラスだった一年生のときに、不本意ではあったんですが、思いきって流海と付き合うことにしたんです。中学生になった彼女は、ぼくに火傷を負わせた事件について真摯に反省していましたし……急に成長した、そんな感じでした。半袖のときは左肘にサポーターを巻くといいよ、と言ってくれたのも彼女だったんです。

 そして付き合ってみると、意外にも、流海は素直で一途な女の子でした。ぼくは次第に彼女に惹かれて……いや、一緒にいても苦ではなくなっていったんです。表向きだけでも流海と付き合い出したせいか、坂田と柿沼も、街で会っても笑顔で話しかけてくるようになりました。出る杭は打たれる、という可能性も考えたんですが、流海の恋人となったぼくを邪険にできなかったんでしょう。もっとも柿沼は、ぼくを恋のライバルととらえていたみたいでしたがね」

「そんな程度だったの?」愛里は黙っていられなかった。「あんなにいつも楽しそうだったのに、本気ではなかったの? 不本意だったの?」

 愛里の悲痛な声を浴びた堀口が、静かにうつむく。

「自分のことなのに、正直言って、よくわからない。あのときだって、ぼくはどんな思いでその事実を受け入れたのか……実は高校二年生のとき、流海は柿沼に強姦されたんだ」

 信じられず、愛里は「うそよ」と声を裏返した。

 佐々木の眉がわずかに動く。

 小野田のボールペンが、一瞬だけ震えた。

「流海の様子がおかしかったから、本人に問い質したんだ。あのときも、流海は気丈だったな。流海は全部話してくれた。柿沼も自分のしたことを認めて、流海とぼくとに土下座して謝罪したよ。

 宮下さんだけじゃなく、坂田もその事実を知らなかったはずだ。だから流海は、ぼくと柿沼とに、誰にも知らせないでほしい、と懇願したんだ。幸いにも妊娠はしていなかったし、流海の両親でさえ気づかなかったみたいだね。

 流海は柿沼を許したけど、さすがにぼくは柿沼を殴った。……ただ、本当に悔しかったのかどうか、わからない」

「そんな、わからないなんて。……けど、堀口くんは流海と別れなかったんだし……やっぱり、流海のことを愛していたんだよね?」

 願いを込めて愛里は問うが、堀口はうつむいていた。

「嫌いではなかった……というか、やっぱり、よくわからないな。なんせ流海と付き合い始めたのは、自己防衛のためと、復讐の一環のためだったからね」

「復讐?」とすぐに反応したのは佐々木だった。

 顔を上げた堀口が、哀感に満ちた目を佐々木に向ける。

「流海と付き合い始めて間もない頃、中学一年生のときでした。ぼくは、坂田と柿沼とを仲違いさせようとしたことがありました。消しゴムやノートなど坂田の文房具を、チャンスがあるたびにこっそりと……柿沼の机の上に置いたんです。すると毎回、坂田は、柿沼が盗んだ、と言い、一方の柿沼は、坂田が自分でわざとやった、と言い返しました。

 ぼくの計画は四回限りで終わりました。五回目の行為に及ぼうとしたとき、ほかの生徒に目撃されそうになったんです。これ以上は無理だ、と悟りました。しかし、柿沼は坂田が保管していた照魔鏡をほしがっていたくらいです。坂田の柿沼に対する疑いはぬぐいきれなかったんでしょうね。ぼくの思惑どおり、坂田と柿沼との間に深い溝ができました。

 そんな坂田と柿沼をなんとか収めようとしたのが、流海でした。ぼくの仕業であると知らない彼女は、自分たちグループ以外の誰かが真犯人に違いない、と言って二人をなだめたんです。表面上は収まりましたが、それ以降の坂田と柿沼の関係は、友達とは呼べない感じでした。坂田と柿沼のそれぞれは、ぼくとは仲よくしようとしていました。あの二人だってほかに仲間なんていなかったし、孤立するのが嫌だったんでしょう。まあ、ぼくは適当にやり過ごしていましたけど。

 仮に、坂田と柿沼との軋轢の原因を作ったのはぼくだった、と判明しても、流海がなんとか収めてくれたでしょうね。なんせ、このぼくは流海の恋人なんだし。そういう裏打ち的な狙いもあって、流海と付き合い始めたんですよ」

 ここまで黙って聞いていた愛里だが、もう耐えられなかった。

「あたし、とってもつらいよ。友達ではいられなくなるだろう……って、こういうことだったのね?」

 憤激と悲嘆とを込めて、愛里は堀口を睨んだ。

「まだ終わっていないよ」

 堀口は愛里を一瞥した。

 間髪入れず、佐々木が炯眼で尋ねる。

「まさか、今回の一連の殺人事件に関与しているんじゃないでしょうね?」

「それはありませんね。柿沼を惑わすきっかけにはなったかもしれませんが」

 答えた堀口は、重々しい視線を愛里によこした。

 愛里は躊躇するが、堀口は続ける。

「成人式を迎えても坂田と柿沼の関係は平行線を辿っていたし、流海は何かと気遣うようになった。夏が来れば暑気払い、年末には忘年会……いろいろと企画しては、坂田と柿沼に主催させたんだ。社会人になって以降も二人は実家にいたし、少しでも互いが協力し合えばいい、と仕向けたわけだよ。そんな裏事情があって、都心に出たぼくたち三人が帰省するたびに、坂田と柿沼の主催による催しがあったのさ」

 堀口の弁に愛里は絶句した。

「それなのに」佐々木が言う。「あなたたち五人は中学の同窓会には参加しなかった」

 愛里にも覚えのある出来事だ。同窓会の誘いの便りが届いたが、自分たち五人は欠席したのである。

「そこまで調べましたか」堀口は苦笑した。「そのとおりですよ。同窓会の日、ぼくたち五人は自分たちだけで酒席を設けました。同窓会に参加しても、ぼくたち五人は楽しめなかったでしょうから。……同窓会は地元での開催だったんで、ぼくたちは都心で飲みましたよ。坂田と柿沼には最終電車で帰ってもらうことになりましたがね。同窓会をキャンセルしてまでの飲み会は、もちろん、流海の考えです」

「あの飲み会もなの? あの飲み会は、堀口くんが提案した、と思っていた」

 やっとの思いで愛里は声を出した。愛里の記憶では、堀口が主催したことになっている。

「最初に提案したのは、流海だよ」堀口はきっぱりと答えた。「でもぼくは、主催者になることを望んだんだ。流海が悪者にならないためにね。宮下さんは仲間全員揃っての同窓会のキャンセルをどう受け取るのかな……そう思ってさ。流海が提案した、という事実は、坂田と柿沼も知らなかったはずさ。あいつらだって、同窓会の誘いを蹴ってまでの飲み会なんて、多少は気にするだろうし」

「じゃあ、堀口くんは流海のことをかばって……?」

 そうであってほしいと願う。

「君を気遣ったんだよ。流海も、ぼくも」

 堀口の答えは、愛里にとっては複雑だった。

「わかった。……いいよ、続けて」

 諦念があった。流海と堀口との仲に嫉妬もしたが、応援したい気持ちのほうが大きかったのである。しかし流海はもういないし、その流海を堀口は愛していなかった。応援すべきカップルが存在しないのだ。ようやく、愛里は流海の死を受け入れる気持ちになった。

 同時に、堀口の冷たさが愛里の心に凍みた。気遣ってくれたことには感謝したが、堀口の流海に対する薄情な言いぐさが悲しかった。

 堀口は、重々しい表情を愛里に向ける。

「とにかく何をするにも、坂田と柿沼、二人の息は合わなかったみたいだ。相も変わらず、照魔鏡を自分に安く売れ、と柿沼は坂田にしつこく迫っていたらしい。嫌気が差した坂田は、流海に照魔鏡を返そうとしたんだ。でも流海は、迷惑をかけたのにただでは申し訳ない、と言って三十万円で照魔鏡を引き取ることにしたんだよ。今年の暑気払いで、流海と坂田がこっそり話し合っていたのさ。……結果的に、ぼくが預かることになったけど。

 どうだい、宮下さん。照魔鏡に関する甲論乙駁があったなんて、この十年間、君の記憶になかったよね? もっとも、坂田が殺された事件をきっかけに、ぼくが散々ほのめかしておいたから、多少なりとも予想はできただろうけどさ。

 とにかく、忘れた、とかいうのではなく、知らなかったはずだ。ぼくが火傷を負ったあの日以来、照魔鏡に関することは、流海は宮下さんに一言もしゃべらなかったし。それはぼくや坂田、柿沼にも徹底させていた。そして、流海の父である野島祐蔵さんにもね」

「そうだね」愛里は、力なく返した。「この十年間のあたしは、知らなかった……と思う。だから、堀口くんが照魔鏡を持っている、ということだって知らなかった」

「流海が照魔鏡を嫌っていたし、仕方なく、ぼくが預かることにしたんだ。ぼくも嫌だったよ、そんな手鏡を預かるなんて。しかも、肘の火傷を作る原因になった手鏡だ」

「ということは」佐々木が言った。「野島流海が照魔鏡を坂田さんから三十万円で引き取る、という話が、柿沼に知られてしまったのかもしれませんな」

 堀口は佐々木を見て頷く。

「はい。今年の暑気払いの帰り道で……その時点では金品の受け渡しはまだ済んでいませんでしたが、坂田本人が酔った勢いで柿沼に言ってしまったらしいんですよ。あの二人は一緒にタクシーで帰ったんですが、あとになって坂田から、柿沼に言ってしまった、とぼくに連絡がありました。柿沼は坂田に、金額を弾むからもう少し待っていてくれ、と申し出たそうです。数日後、照魔鏡を引き取るために、ぼくは坂田と二人きりで会いました。坂田骨董店では柿沼に見つかる可能性があったんで、ぼくの実家を取り引きの場所にしました。言うまでもなく、家族のみんなが留守の日、にしましたよ。

 そのときに見つけたんですが、鏡面に小さな傷がありました。保管の際に、何か固いもので引っかいてしまったみたいでした。坂田はそれを気にして、金はいらない、と言ったんです。流海に連絡してみると、傷なんてかまわないからお金は払ってほしい、とのことでした。だからぼくは強引に坂田に、流海から預かっていた三十万円を渡し、照魔鏡を受け取ったんです。しかし、照魔鏡がぼくの手元に渡ったことは、柿沼はまったく知らなかったんでしょうね」

 堀口の話を聞いた佐々木は、得心がいったらしい。

「なるほど。柿沼は、坂田さんがまだ照魔鏡を持っている、と思い込んで坂田骨董店へと向かった。しかし、野島流海に先を越されたことをそこで知り、口論の末、坂田さんを殺害した。それでも諦めきれず、照魔鏡を求めて、今度は野島流海の元へと出向いた」

「そして」堀口は言った。「精神を病んでいた流海は、呪いの手鏡を渡せ、と脅されて錯乱したようです。殺すほかに手立てはない、と誤信して柿沼をマンションに連れ込んだんでしょう。事情聴取のときに佐々木さんや小野田さんに話しましたが、流海は、柿沼に抱きつかれた、と電話で言っていました。あいつに強姦された経験があるし、たぶん、そんな恐怖も相俟って歯止めがかけられなかったんですよ。その挙げ句に、自らの命も……」

 マンションで強姦未遂があったなど、愛里は堀口から聞いていなかった。警察からも知らされていない。今、改めて、流海に降りかかった恐怖を推し量る。

 小野田が堀口を睨んだ。

「今の話、宮下さんには伝えない、ということになっていたよな。それにさっき言っていた、野島流海が高校生時代にレイプされた事件……おれも初耳だ。その事件を暴露したから、強姦未遂はもう隠しても意味がないというわけなのか?」

「宮下さんには、すべてを知ってもらいたかったんです。話すつもりではいましたよ」

 悲しみの入り交じった笑みで答えた堀口は、愛里に顔を向けた。

「ぼくの話は終わったよ。流海がマンションで強姦されそうになったことは、照魔鏡を見せるとき……つまり、ここで伝えたかったんだ。今、聞いたとおり、小野田さんに、宮下さんには伝えないほうがいい、と事情聴取のときに言われてはいたんだけど」

 そう説かれても弁解に聞こえてしまう。

 愛里はかぶりを振った。

「どこで伝えられても同じだよ。流海が、かわいそうすぎる。全部がショック。それに、そんな話をたくさん聞いたけど……やっぱり、何も思い出せないよ」

「そうか。なら、そろそろ、これを出さなきゃならないみたいだね」

 堀口は灰色の革袋を愛里に見せた。

「うん、そうして」

 愛里が答えると、堀口は灰色の革袋からそれを取り出した。

 革袋をテーラードジャケットの内ポケットに収めた堀口は、右手に握るものを掲げる。

 直径が二十センチ弱の手鏡だった。持ち手の部分も含めると、長さは最大で三十センチほどである。

 鏡面に映り込まないように、愛里は手鏡の前に立った。

 全体の色は銅色、もしくはくすんだ金色にも見えた。だが、鏡面はまばゆいほどに輝いており、映り具合はよさそうである。枠や持ち手、背面など、鏡面以外の部分には、蛇の胴体――首のない蛇の模様が無数に彫刻されていた。何匹もの蛇がもつれ合っている、そんな意匠だ。しかし、はたしていかほどの値打ちがあるのか、愛里には想像もつかない。

「きれいな手鏡……だと思う」

 素直な感想を愛里は告げた。

「ふむ」照魔鏡の背面からではあるが、佐々木も見入っていた。「わたしにはよくわかりませんが、悪い品ではないようですね。細部まで技巧を凝らしている」

「そうですかねえ。蛇嫌いのおれには、薄気味悪く感じられますが」

 合点がいかないのか、佐々木の肩越しに覗く小野田は首をひねった。

 出し抜けに、堀口が照魔鏡の鏡面を自分自身の顔に向ける。

 愛里はすくみ上がった。

「みんなを陥れようとしたぼくなのに、なんともないな」

 堀口は平穏な顔で言うと、照魔鏡の彫刻を見ていた小野田に視線を投げた。

「小野田さん、ご自分のお顔を映してみてはどうですか?」

「いや、おれは――」と断りかけた小野田の背中を、佐々木が片手で押す。

「これも仕事のうちだと思え」

「わかりましたよ」

 憂慮する小野田に、堀口は照魔鏡の鏡面を突き出した。

 そんな様子に慄然とする愛里は、ふと、鏡面の下部に小さな傷を見つけた。見つけたまではよかったが、どうしても鏡面の正面からは身を引いてしまう。

「ははは……ただの古い鏡ですな」

 緊張から解放された様子の小野田は、佐々木に向かってへつらいの笑みを浮かべた。いつもの自分の顔が映っていたのだろう。

「宮下さん」

 堀口は愛里に声をかけた。

「わかった」

 覚悟を決め、愛里は右手を伸ばした。

「離すよ」

 愛里が持ち手を握ると、堀口は照魔鏡を離した。

 ずっしりとした手応えがあり、女性が化粧に使うには不向きかもしれない。

 鏡面は愛里に対して斜めを向いており、これでは顔を映すことはできない。とはいえ、今さら拒絶するわけにもいかないだろう。

「自分の姿を、鏡面に映せるかい?」

 堀口は尋ねた。

 鏡面を斜めに向けたまま、愛里は答える。

「怖いけど、やってみる」

 三人の注目を浴びながら、愛里は持ち手をゆっくりとひねった。

 照魔鏡の鏡面が愛里の正面に向く。

 愛里の顔が鏡面に映り込んだ。沈んだ表情だが、いつもの自分の顔だった――と、異変があった。

「何よこれ」

 愛里は声を漏らした。

 鏡面に映った愛里の顔が、見る見るうちに黒ずんでいった。黒ずんでいくだけではなく、皮膚が無数の鱗に覆われていく。

「いやあああ!」

 愛里は叫んだ。そしてすぐに照魔鏡を投げ出そうとするが、右腕が動かない。見ると、持ち手に施されたいくつもの蛇の彫刻が、銅合金製にもかかわらず、無数の触手のように伸び、愛里の右前腕部に巻きついているのだ。

 それだけではなく、鏡面の下部の傷から、黒い煙が細々と漂い出ていた。立ち上った煙が、愛里の鼻腔に入る。黒い煙は、たまらなく青臭かった。

「堀口さん、この蛇の尻尾みたいなのはなんだよ? これって金属なんだろう? それにこの黒い煙は、いったいなんなんだ?」

 焦燥も露わに、小野田が堀口に問いかけた。

 しかし、愛里の正面に立つ堀口は、困惑の表情で凝然としていた。照魔鏡の背面ではなく、愛里の顔を見つめている。

「宮下さん……」

かすれてはいるが、振り絞って出した声だったらしい。

 佐々木に至っては、声も出せずに立ち尽くしている。

 そのとき――失われていた記憶が、愛里の脳内に怒濤のごとく押し寄せてきた。人間のちっぽけな精神力では、抵抗するなど不可能だった。

 光沢のある黒の鱗にびっしりと覆われた醜貌が、鏡面の中にあった。爬虫類という形容が相当する怪物は、小学生のときに照魔鏡に映った自分の顔、そのものだ。

 自分の中に隠れていた魔性が映し出された恐怖のあの日を、そして黒々とした遠い日々を、愛里は思い出す。

 偽りの過去が解体され、本来の過去が再構築された。

 いくつもの楽しい思い出が、次々と悲劇に変転していった。

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