第1章 動き出す運命

1.少年は街を駆け抜けて

 空の下に広がる春の訪れた地上界ヒュオリム。

 咲き誇る花々や生い茂る草木、飛び交う蝶や鳥達が春の訪れを告げている。空も青く澄み渡り、太陽は春の訪れたこの世界を明るく照らしていた。


 地上界の南方に位置する大陸――グラド大陸を統治する大国グラドフォスにも、春の暖かな日差しが降り注ぎ、春の訪れを感じさせている。

 グラドフォスは豊富な資源を持つ豊かな大地と盛んな貿易、そして優れた軍事力により栄華を誇る大国だ。豪奢ながらも気品と古くからの伝統を感じさせる城が聳え、街の方は人々の活気ある声で賑わっている。


 その活気ある賑やかなグラドフォスの王都を走り抜ける一人の少年がいた。

 少年の名はマルス。

 彼は大国グラドフォスの王都で暮らす、ごく普通の少年だ。向かい風に靡くやわらかな明るい色の茶髪と、海のように深い青色をした澄んだ瞳が彼の優しく真っ直ぐな性格を表しているようだった。


「よお、マルス! 後で今週分の給料、取りに来いよ!」


 マルスが雑貨屋の前を通りがかると、接客途中の店主が店の前を走っていく彼に向かって叫ぶ。


「はーい!」


 マルスは一瞬だけ店主の方に視線を向けて手を振りながら返事をすると、そのまますぐ前に向き直って慌てた足取りで駆けて行った。

 彼が慌ててどこかへ駆けて行く姿は雑貨屋の主人や客にとっては見慣れた光景らしく、その後ろ姿を微笑ましく眺めているのだった。


「あー! 早く行かないとまた文句言われる!」


 マルスは自分に言い聞かせるように言いながら商業区の通りを走る。

 店が多く立ち並ぶ商業区は買い物客や観光客で溢れていて、油断していると道行く人とぶつかってしまいそうだ。何度もぶつかりそうになっては謝りつつ、マルスは変わらず慌てた足取りで駆け抜けていく。


 商業区の東の大通りを抜けると、いくつもの住居が立ち並ぶ居住区に出た。

 井戸端会議に花を咲かせる女性達や庭先の畑を手入れする老人、明るい声を上げながら駆け回る子ども達の姿が目に入る。人で溢れかえった賑やかな商業区とは対照的に、居住区はゆったりとした空気が流れていた。

 そのゆったりとした空気の中でも、マルスの急ぐ足は止まらない。

 だが、とある小さな一軒家の前に差し掛かった時だった。


「あら、マルス君。こんにちは」


 ふと、先を急いで走るマルスにゆったりとした口調で声が掛けられる。

 立ち止まって声の方を向くと、庭先の小さな畑の手入れをする老婆の姿が視界に入った。

 老婆は肩ほどの長さをした、白髪混じりの灰色の髪を後ろで一つにまとめ、日除け用の帽子を被っている。

 マルスと視線が合うと老婆は柔らかな緑色の瞳を細めて微笑んだ。

 手にしていた水やり用のジョウロを適当に置いて、やや曲がった腰を叩きながら彼の方へ歩み寄る。


「こんにちは、メイばあちゃん」


 彼女の穏やかな雰囲気に焦る気持ちを吸い取られたかのように、マルスは笑みを浮かべて彼女のそばに歩み寄って行く。

 メイばあちゃんと呼ばれたその老婆は、マルスが生まれる前から彼の両親と仲が良く、家族同然の付き合いをしている人物だ。

 マルス自身も幼い頃によく彼女に面倒を見てもらっていた事もあり、彼女を実の祖母のように慕っていた。


「今日も探検かい?」


「うん。実はね、この前森で洞窟を見つけてさ」


 実の孫と話をするかのように皺だらけの顔を綻ばせるメイの質問にマルスは答える。

 彼女が自分の話を心底楽しそうに聞いてくれるのが嬉しくて、マルスはつい急いでいる事を忘れてしまっていた。


「そこを探検しに行くんだ。アイクが夜じゃないと来られないから、今日の夜行くんだけど」


「洞窟を探検なんて、ロマンがあるわねぇ。昔よく冒険記で読んで憧れていたわ」


 マルスの話から、昔の事を思い出して笑みをこぼすメイ。

 その瞳は昔抱いた憧れを思い出して輝き、皺だらけの顔には少女のような笑みが浮かんでいた。


「探検はロマンに溢れた素敵な事だけれど、気をつけるんですよ」


 探検や冒険といえば少年時代の憧れの象徴であり、王都でも幼い少年達が剣に見立てた枝を片手に冒険ごっこをしている姿はよく見られる。

 メイの幼馴染みであった、今は亡き彼女の夫も少年時代は朝から夕暮れまで探検に夢中になり、時には彼女自身も共に冒険譚を読んでは冒険の旅に思いを馳せていたものだった。それ故、メイにもマルス達が抱くものが理解出来た。

 だが、成人である十八歳を迎える二年手前の年齢だとしても、メイからすればマルスはまだまだ子どもだ。決して無茶はするなという意味を込めて、彼女はマルスにやんわりと忠告した。


「うん、分かった!」


 マルスはメイの忠告に大きく頷く。


「じゃあ、オレもう行かないと。二人の事、待たせてるんだ」


「それじゃあ早く行かなきゃ。引き止めて悪かったわね。またいらっしゃい」


 返事と共にマルスは笑顔でメイに手を振りながら、再び走り出した。

 その足は迷う事無く居住区の通りを駆けていき、途中でその通りから外れて森へと続く道にマルスは入っていく。


 居住区を駆け抜けたマルスは、森に足を踏み入れた。森の中は木々の隙間から差す木漏れ日によって、明るく照らされている。

 人々の声や足音、馬車や噴水の音などが溢れる街中とは違って静けさの漂う森には、マルスの足が草を払い、地面を蹴って走っていく音がよく響く。

 耳を澄ませば小鳥のさえずりも聞こえるが、急ぐ事に集中している今の彼の耳には届かなかった。

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