第17話 異変の当日

 ――時間は僅かに巻き戻る。

 


「な、何これ? い、意味が分からないんだけど……」



 世界に異変が起きたその瞬間、秋野スズネの姿は会社まで後数十メートルの場所に在った。



「わ、私、夢でも見てるのかな?」



 スズネの目に映ったのは、存在する筈のない豊かな自然で、受け入れ難い光景を目の当たりにしたスズネは思わず目頭を擦る。



「くぅーん」


「あっ……ワンちゃん」



 そんなスズネの目に続けて映ったのは、立木の陰から顔を覗かせた白い子犬。

 スズネは半ば混乱状態に陥っていたものの、可愛らしく鳴き声を上げる子犬の姿を見て、僅かにだが精神を落ち着ける。



「迷子になっちゃったのかな? こっちにおいで」



 こんなことをしている場合ではない。

 スズネはそう理解しながらも子犬の頭へと手を伸ばす。

 子犬に触れることにより乱れた精神を癒し、延いては、混乱している頭を整理しようと考えた結果だ。



「ブオオオオオオオオッ!!」


「ギャッ! ギャギャッ!」


「へ? な、何これ?」



 が、状況は更に一転し、頭を整理する時間をスズネに与えてはくれない。

 幾つもの魔法陣と共に魔物が現れ、魔物の姿を目撃したスズネは、より一層、深い混乱状態へと陥ってしまう。



「も、もしかしてオークとゴブリン……?」



 とはいえ、スズネの理解は早い。

 スズネには高校二年生と中学二年生の妹がいるのだが、下の妹は漫画やアニメといった趣味に傾倒しており、その趣味に付き合った結果、ファンタジー漫画やアニメの知識を人並み以上に蓄えていたからだ。


 故に、蓄えていた知識と照らし合わせることで、異形の正体をいち早く看破してみせたという訳なのだが……



「わ、分かったところで……って話だよね……」



 スズネが口にした様に、分かったところでどうこうなる話ではない。

 なにせ、スズネは二十代前半の一般女性でしかなく、漫画やアニメの登場人物――それらが当然のように保有している特殊性など皆無なのだ。


 要は、オークとゴブリンの名前を言い当てただけであり――



「ははっ! 知ってる! 俺は知ってるぞ!

コイツはゴブリンといってゲームの序盤で狩られちまうような雑魚だ!

きた、来た、キターッ! ここから俺のハーレム生活が始ま――いってぇ!?」


「ギャッ! ギャッギャ!」


「ちょっ!? 三匹がかりはずるいだろ!?

順番! 順番を守って掛かって――おまっ!? 順番だって言ってるだ――おげえっ!?」



 スズネ同様、言い当てただけの無力な青年は、ゴブリンの手によって無残にも命を散らしてしまう。


 そして、その光景を目の当たりにしてしまったスズネと周囲の人々。



「う、うわああああああ!!」


「ね、ねぇ! お、置いていかないでよ! 私ヒールなんだよ!?」


「うるせぇ! 離せよ! その手を離せよ! ひぎゅ?」


「へ? 武田君? 武田君!? ちょっ!? いやっ! 来ないで! 来ないでよ化け物!」  

 


 恐怖と混乱は急速に伝播していき、阿鼻叫喚の惨劇が幕を開けてしまう。



「は、ははっ……こんなの嘘だよ」



 地面へとへたりこんだスズネの目には、逃げ惑う人々と、人々を蹂躙する魔物の姿が映っていた。



「ゲギャッ! ゲッゲッゲッ!」


「がえじで……そで、俺のだがらぁ……」



 腹から内臓を――腸を引きずり出して縄跳び遊びを始めるゴブリン。


 

「ブオッ! ブオッ! ブオオオオオオッ!」


「ブオオオオオオッ! ブフゥーッ!」 


「痛い痛いッ! 千切れちゃう! 千切れちゃうよッ!?」



 人の身体を使用し、綱引き勝負を始めてしまうオーク。

 その他にも様々な惨劇が繰り広げられていたが、どの惨劇もスズネの足腰から力を奪うには充分過ぎるほどの惨劇で、地面へとへたりこんでしまったスズネは僅かに下着を湿らせてしまう。

 


「サ、サクラ……シラツユ」



 しかし、スズネは妹たちの――守るべき存在が居ることを思い出すと、抜けた足腰に力を込め始める。

 


「あ、あれ? ち、力が入らない……な、なんで? う、動いてよ!」



 が、想いは空回りするばかりで、スズネの足腰は想いに応えてはくれない。



「ご、ごめんね……お姉ちゃん、ここで死んじゃうかも……」



 従って、スズネは「死」という言葉を思い描いてしまう。



「こ、こんなことになるなら……小野屋先輩に「好きです」って伝えれば良かったな……」



 加えて、想い人の笑顔を思い浮かべたスズネ。

 後悔や悔しさ。それに諦めが混ざったような、なんとも形容し難い感情を覚え始めてしまうのだが――



「くぅん?」


「ワン……ちゃん?」



 白い子犬が手の甲を舐めたことにより、別の感情がスズネのなかに生まれる。

 その感情というのは僅かばかりの責任感。

 ここで私が死んでしまったこの子犬の命も――と、いった責任感がスズネのなかで生まれ、生まれると同時にその感情は肥大していく。



「そうだよ……諦めちゃ駄目だ……」



 スズネは、活を入れるようして震える足を何度も叩く。



「サクラとシラツユは――私が守るんだ!」



 そして、声を出すことで諦めかけていた心を奮わせると――



「と、取り敢えずこの場から離れなきゃ! ワ、ワンちゃんもおいで!」


「わっふ!」



 スズネは拙い足取りで立ち上がり、子犬を抱えながら会社までの数十メートルを駆けるのであった。






 

「そこの君達! 君達は何か武器になりそうな物を集めてくれ!」


「は、はい!」


「そこの男性陣! 男性陣はバリケードになりそうな机や棚を運んでくれ!」


「わ、分かりました!」



 スズネが社内へと駆け込むと、社内はまるで前線基地を思わせる様相を呈していた。

 エントランス中央へと運ばれてくる鉄材や刃物。

 床を擦りながら運ばれてくるデスクや金属製の棚。

 壁際では怪我人の手当てが行われており、血と埃の混じった臭いが濃く漂っている。



「ひ、酷い……」



 スズネは、そのような光景に眉を顰めながら勤務するオフィスへと向かう。

 子犬を抱えながら一階分の階段を上り、廊下へと出ると歩幅を速めるのだが……



「……下着が気持ち悪い」


  

 オフィスまで後僅か――と、なったところでスズネは不快感を覚えてしまう。

 覚えると同時に羞恥心を覚えたスズネは、踵を返して三階に存在する更衣室へと向かうことを決めた。

 


「変え置きの下着がこんな形で役にたつなんて……」



 湿った下着をビニール袋へと放り込んだスズネは、持ち手をギュッと縛りながら溜息を吐く。

 実際、別の緊急時を想定した備えであり、このような用途で使用することなど考えてもいなかったのだから、溜息の一つも吐きたくなるというものだ。



「備えあれば嬉しいな? ってやつだよね?」



 諺を間違って覚えていることは兎も角。

 長女であるスズネは、幼い見た目に反してしっかり者の一面があるのだろう。

 専用のロッカーには、替えのスニーカーや替えの制服などが備えられていた。



「リュックの中には……栄養食品と開いていないペットボトル。

裁縫道具に化粧品、それと生理用品に――あっ、たしか横のポケットに飴が入っていた気が」



 着替えを終え、スニーカーへと履き替えたスズネは、通勤用リュックの荷物確認を始め、ひととおり確認を終えたところで「よいしょ」という掛け声と共にリュックを担ぐ。



「ワンちゃんは……少しだけここで待ってて貰えるかな?」


「わふっ!」


「分かってくれたのかな? ふふっ、君はお利口だね」



 続けて、子犬がお座りしたのを確認したスズネ。

 更衣室を後にすると階段を駆け下り、歩幅を広げてオフィスへと向かう。

 そして、程なくしてオフィス前へと辿り着き、オフィスへと繋がる間仕切りをくぐった瞬間――



「た、立石課長に吉岡先輩! お二人も無事だったんですね!」


「おお! 秋野じゃねぇか!」


「あ、秋野君! 僕達は無事だよ! 秋野君も無事だったんだね!」



 立石と吉岡の姿が目に映り、二人から声を掛けられる。



「本当、お二人とも無事で良かったです」


「まあ、無事と言って良いのか怪しいところだけど……一応、ひとつの怪我も負っていないよ。

それで、いきなりで悪いとは思うんだけど……秋野君も手伝って貰えないかな?」


「手伝う……何をですか?」



 スズネは立石の手元へと視線を送る。

 それで分かったのは、武器になりそうな物を抱えているということで、その姿を見たスズネは、これからエントランスへと運ぶのであろうことを理解する。



「わ、分かりました! 手伝わせて頂きます!」



 立石の元へと駆けよると、抱えている荷物を受け取ろうとするスズネ。

 


「いや、手伝って貰いたいのはこっちじゃなく、自販機の方なんだよ」


「自販機? どういうことですか?」



 が、立石は受け渡しを拒否すると、視線を送ることでオフィスに設置されている自販機を指し示した。



「今は非常電源が動いているから問題無く動くけど、それも長くは持たないと思うんだ。

そして動かなくなった場合、水道も止まっている現状では飲み物の確保が困難になっちゃうからね。今の内に購入して、飲み物を確保しておきたいんだよ」


「な、成程。そういうことでしたか」


「うん。お金はそこに置いてあるから、買えるだけ買っておいてくれると嬉しいな」


「わ、分かりました!」


「申し訳ないけどお願いするよ。

吉岡君。この場は秋野君に任せて、僕達は荷物を運んじゃおうか」


「了解です!」



 そう言った立石と吉岡は荷物を抱えて間仕切りをくぐる。

 スズネは立石の指示に従い、飲み物の確保する為に自動販売機を稼働させるのだが……



「サクラ……シラツユ……」



 作業を始めてから数十分。スズネは焦りを覚え始めていた。

 何故なら、魔物から避難するという目的があって社内へと駆けこんだのだが、それは一時期的なものであり、荷物を回収し、用件を済ませたらすぐに妹たちの元へと向かう予定だったからだ。


 だというのに、安易に仕事を引き受けてしまったのだから、スズネは失敗したと思うのと同時に、焦りともどかしさを覚えてしまう。


 とはいえ、立石が言うように長く電源が持たないのであれば、スズネに任された仕事は、社内に居る全員の命に直結する重要な仕事と言えるだろう。


 スズネはそれを理解しているからこそ、もどかしさを覚えながらも放棄することも適わず、早く売り切れのランプが灯ることを祈りながら、一心に自動販売機のボタンを押し続けた訳なのだが……



「ど、どうしよう……もう二時間も経過してる……」



 スズネが想像するより手間の掛かる作業だったようで、気が付けば二時間もの時間が奪われていた。


 

「早く、早く売り切れてよ……早く戻ってきてよ……」



 スズネは無意味だと理解しながらも、自販機のボタンを連続で押してしまう。

 そして、焦りともどかしさの所為で、目頭に涙が溜まり始めてしまった瞬間――



「ご、ごめんね秋野君!

下での作業が長引いちゃってさ……吉岡君はいまだ作業中だけど、もう少ししたら戻ってくると思うから、購入した飲み物でも飲みながら先に一息入れようか」



 エントランスから戻ってきた立石から声が掛かる。



「た、立石課長! こ、この作業を変わって貰えませんか!?」


「え? 元よりそのつもりではいたけど……な、涙目? な、何かあったの?」



 涙目を指摘されたことで、慌てて涙を拭うスズネ。

 スズネは涙を拭うと、懇願にも似た表情で立石に訴えかける。



「わ、私! 妹たちの元へ行かなきゃいけないんです!」


「い、妹たちって……一緒に暮らしている妹たちのことだよね?

き、危険じゃないかな? だって外には化け物が居るんだよ? 秋野君も見ただろ? 下手したら――いや、下手しなくても死んじゃうよ……」


「だとしても! 私は行かなきゃいけないんです!」


「き、気持ちは痛いほど分かるけど……や、やっぱり無理――」



 スズネの訴えを聞いた立石は、「無理だよ」と断言しようとして、その言葉を飲み込んでしまう。

 何故なら、スズネの真剣な視線を受け、僅かばかりに気圧された――いや、家族がこの街に来ていると知っているのに怖気付いてしまい、探しに出ることを躊躇っている自分の不甲斐なさに気付かされたからだ。


 そして、このような会話が交わされたことにより、立石は家族の捜索をする覚悟を決め、変わり果てた家族と再会を果たすことになるのだが――


 

「そうか……家族の為にここを出ていくんだね」


「はい。家族の為です。だから行かせて下さい」


「そっか……それなら、ある程度の準備は必要だよね? 購入した飲み物を持って行きなよ」



 その悲しい現実は、今の立石にとって与り知ることのない現実だ。

 故に、スズネに対してどうこう言う資格が無いと気付かされた立石は、引き止めるという選択肢を捨て去り、ビニール袋に数本の飲み物と手持ちの食料を詰め込んでいく。



「い、良いのですか?」


「良いも悪いも、秋野君が買った飲み物だろ? 誰にも文句は言わせないよ」


「で、でも、その食料は……」


「これは僕からの餞別だよ。

ああ、遠慮はしないでくれよ? これは上司からの命令だ」


「あ、ありがとうございます!」



 立石に感謝の言葉を伝えると、スズネはチラリと時計を見て時間を確認する。

 そのことにより、陽が落ちるまであまり時間が残されていないことを理解したスズネは、もう一度お礼を伝えてから用件を果たす為の行動へと移る。



「可愛い便箋があれば良かったんだけど……」



 スズネは、B5サイズのコピー用紙を数枚手に取る。



「贅沢は言ってられないよね」



 続けてそう言うと、コピー用紙に短い一文――


『小野屋先輩のことが大好きです』


 後悔を残さない為にも、思いの丈を綴った短い一文を残そうとしたのだが……



「……こんなことしちゃ駄目だ」



 スズネは、その用紙をクチャクチャに丸めると、ゴミ箱へと放り込んだ。 

 代わりに綴ったのは、『小野屋先輩のことが大好きでした』という短い一文。

 その手紙をマコトのデスクに収めると――



「本音は伝えられないよね……」

 


 悲しみと期待が入り混じった、複雑な微笑みをスズネは浮かべた。


 

「小野屋先輩は優しいから……」



 そう言ったスズネの声は僅かに震えている。

 が、それも仕方のないことなのだろう。

 何故ならスズネは、マコトという人間の性格を知っており、どのような人間性であるか充分過ぎるほどに理解していた。


 理解している故に、スズネの身を案じたマコトが、スズネの後を追う姿が容易に想像できてしまったのだ。


 だからこそ、スズネは手紙の一文を書き変えた。

 偽った一文を綴ることでマコトを付き離し、後を追うという選択肢を排除しようと考えた。

 もう会えないかも知れないというのに――これが最後の言葉になるかも知れないというのに、マコトの身を案じて偽りの言葉を綴ったのだ。

 

 とはいえ、マコトの身を案じるのであれば、もっと直接的な言い回しや、突き離し方があることも確かであり、スズネもその事実に気付いていない訳ではない。

 だというのに、こんな中途半端な一文を綴ってしまった理由は――



「だって好きなんだもん……仕方ないじゃん」


 

 偽り切れない想いが根本にあり、言葉の裏側に本音があることを見抜いて欲しいという仄かな願いがあるからなのだろう。

 マコトの身を案じながらも、自分を追い掛けるマコトの姿を心の片隅に描いてしまう。



「私……女々しい女だな……」



 スズネは自分の女々しさを嘆いた後、頬を叩くことで気持ちを切り替える。



「た、立石課長。もし小野屋先輩がここに来たら、デスクを見るように伝えて頂けますか?」


「小野屋君にかい? ああ、了解したよ」



 続けて立石に言伝を頼むと、スズネは渡された飲食物をリュックへと詰め込む。

 そして、荷物の詰め込まれたリュックを背中へと担ぎ直すと――



「立石課長……どうかご無事で」


「ああ、秋野君が妹さんたちに会えることを願っているよ」



 頭をペコリと下げ、白い子犬と合流してから会社を後にするのだった。

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