星夜⑤

 一週間ぶりの自宅は、色を失ったように冷え切っていた。もともとせていたのだからそう驚きはしないが、やはりあの暖かい部室が恋しくなる。

 ナオは一年半ぶりの帰宅だった。久しぶりに家族四人が顔をそろえ、ダイニングテーブルを囲んで顔をうつむける。

 沈黙が痛い。時計の針がやけにうるさく響き、その音につられるように心臓も鼓動を鳴らす。


「……ナオ、与鷹。顔を上げなさい」


 言ったのは父だった。その声に二人そろって肩を震わせる。

 おそるおそる見ると、向かい合う父は疲れた目で二人を見ていた。母は目をつむっている。口元が震えており、萎縮した様子だ。こんなに小さく細かっただろうか。今にでも音を立てて崩れそうだ。


「二人とも、つらい目に合わせてすまなかった。本当に、謝っても許してもらえないと思ってる」


 父はテーブルに頭をぶつける勢いで背中を丸めた。それにつられて母もゆっくり頭を下げる。そして、肩を震わせて嗚咽を漏らした。


「ごめんなさい」

「……謝って済むと思ったら大間違いだからな」


 ナオが冷たく言った。声はわずかに震えている。

 彼は怒りを向けることを選んだようで、容赦ようしゃなく左の手のひらを広げた。母がその手から目をそらす。


「ちゃんと見て。これ、覚えてるよね? これについて少しでも罪悪感があるなら、俺のやることにもう口出しするなよ。連絡もするな。正直、もう会いたくないんだ」

「お前がそうしたいならそうしていい。こんなことは二度とないようにする」

「父さんには聞いてないんだよ! あんたはずっと逃げてただろ! 干渉しようともしなかったくせに! その結果がこれだよ! ヨダもひどい目にあったんだ!」


 左手を握り、ナオはテーブルに拳を落とした。

 その強さに母が怯えて息を飲む。父も言葉をなくしていた。


「俺たちは一生消えない傷を負った。そう簡単に許してやるもんか」

「兄ちゃん」


 息巻くナオの服を引っ張る。それでも彼の勢いは止まらない。


「いいか、これは警告だ。あんたたちがやってきたこと、無視してきたことがどんなことか、これで分かっただろ」

「兄ちゃん、落ち着いて」

「お前もなんとか言ってやれ。今のうちだぞ。どうせ一年経ったらケロッと忘れてんだから」

「その気持ちはよく分かるけど、とにかく落ち着いて。それじゃあ母さんと同じことをしてるよ」


 与鷹は兄の腕をつかんだ。人が怒っているところを見ると、なんだか冷静になれるらしい。

 ナオは鼻息荒く口を開いたが、ここは弟の言うことを聞く気になったようだ。息を吸って、椅子にもたれる。そして、腕を組んで両親を睨んでいた。

 ひとまず、落ち着いたところで与鷹は喉を振り絞って、緊張気味に口を開いた。


「あの……母さん」


 小さく丸まる母の頭に呼びかける。


「ぼく、母さんの気持ちは分かるつもりだよ。仕事や家のことで大変で、ストレス溜まるのは分かる。お金がないことも知ってる。それがどんなに大変か、まだそこまで想像はつかないから、えらそうなことは言えないけど」


 溜まった息が喉元に引っかかった。ゆっくり少しずつ吐き出すと楽になっていく。与鷹は声が震えないように努めた。


「でも、こんなのは間違ってるってはっきり言えるよ。ぼくは、父さんや母さんみたいになりたくないと思った。兄ちゃんが言うように、許せない。許せないけど……家族だから許したい。そのためには、もうあんなことはやめてほしいんだ」


 分かってくれるだろうか。その不安が胸の中で広がる。指先が震えそうになった。それをテーブルの下に隠す。

 母はしきりに頷いた。


「ごめん。ごめんね、二人とも。ごめんなさい……」

「本当に分かってんの?」


 鋭く聞くのはナオだった。父が母の背中をさする。

 その様子をナオは冷たく見ており、いっぽうで与鷹は兄ほどの冷たさはないが、情けなさを感じていた。

 こんなにみじめな両親の姿をこれ以上、見たくない。やはり、両親には威厳というものを求めていた。頼れる指標であってほしい。それは当分望めそうにない。


 母が抱えるものは、おそらく巨大な負の感情だろう。いつの間にか溜め込んだ膨大なストレスだ。そして、母も助けを呼べなかった。

 完璧なものなんて存在しない。まだやり直せるはずだ。そう信じたい。


「ぼくも、トラウマを抱えたままでこの先、生きていくわけだけど……ぼく、頑張るから、だから、父さんも母さんも頑張ってほしい」


 気休めだろうか。兄はため息を吐いているが、同じ気持ちであってほしい。そんな期待を込めて見やると、ナオは目をそらした。


「俺は許せる自信はないからな。お前みたいに優しくないから」

「兄ちゃん、ぼくもまだ怖いよ。でも、そう言ってられないじゃん」


 頼むように言うが、兄を動かせるほどの力はない。


「……本当に優しくないんだよ、俺は。やっぱり簡単には信用できないし。大体、この家に来るだけでも怖いんだから」


 俯瞰ふかんして見れば、この家で起きたことの悪夢が思い起こされる。それでも飲み込んで耐えるしかない。

 でも、四人が笑いあって楽しかった思い出も残ってはいる。どんなに色褪せていても、見えないほどに薄れていても、過去は確かに残っている。傷ついても、まだ生きている。現状はそれだけが唯一の希望だ。

 両親は黙り込んでしまった。父も耐えられなかったようで、鼻をすすっている。それを見てしまうと、涙が溢れそうで懸命にこらえようと天井を見上げた。


「ぼく、また星を見に行きたいな」


 精一杯おどけて言ってみるも、誰も答えてくれない。

 今はまだできなくても、いつかできたらいい。その日が来るまでは、まだ頑張れる。

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