03 テロリストたちの反撃
ローラン・ハンドがテロリストに追われ、血塗れの格好でケースを抱えてマンションに潜り込む直前のはなし。
〈ハナフダ不動産〉の営業所長トルーマンは、マンション〈マテンロー〉内の一階ロビーで客を待っていた。その客はこのマンションの一室を購入予定であり、ここへやって来るのはこれで二度目。前回やって来たときにはもう購入を決意したようすだった。だからトルーマンにとって、今日客がオファー(=購入申し込み)を入れるところまでもっていくのは確実に思えた。
簡単な仕事である。
とはいえ、気を抜くことはできない。
むしろ一定の緊張感をもってこの度の商談に臨んでいる。
なにせ、マンハッタンの物件は世界で最も高価なのだ。この契約ひとつを取ることができれば、トルーマンの年収分に匹敵するほどの利益が会社にもたらされることになる。当然トルーマン自身も、少なくない額の報奨金を得る。
所の先月の営業成績はマンハッタンでトップだったが、今月はダウンタウンにあるべつの営業所に水をあけられている。
是が非でも今日契約を取って、挽回したいところだった。
トルーマンにとってそれは、昇進にも関わる大きな問題でもあるのだ。
昼過ぎ。約束の時間ちょうどにその客――アダムズ夫人が来訪した。
前回聞いたところによると、夫は証券会社の外部役員を掛け持ちしているそうだ。つまり支払い能力については問題がない。その話を聞かなくとも、アダムズ夫人の美しくカールされたブロンドの髪をはじめとするエレガントな風貌をみれば、経済的能力の高さは瞭然である。
物件の選定は夫人に一任されているらしく、旦那の姿はみえない。証券会社の役員を掛け持ちだなんて、その多忙さはトルーマンには想像もつかない。だからその人からおつかいを頼まれたとおっしゃる目の前の女性が、おなじ世界に住む生き物には思えなかった。
とはいえ。
そんな存在と日常的に遭遇するのがこのマンハッタンなのだが――。
「こんにちは」
アダムズ夫人は柔和な笑みを浮かべて言った。
「お待ちしておりました」
トルーマンはビジネス用のスマイルでもって挨拶を返した。
「上のラウンジへ参りましょう」
「ええ」
5階にあるラウンジまで夫人をご案内する。お茶を出し、テーブルに向き合って座る。わかりやすくまとめた資料を見せながら、クロージング(=決済を済ませて契約を完了させる)までの手続きを説明する。オファーを入れたなら弁護士を選定する必要があること。契約書はその弁護士と売り手の弁護士が細かな点をすりあわせて作成すること。〈コンドミニアム〉ではなく〈コープ〉での契約となるから、厳密にいえば部屋を買うのではなく、部屋の所有会社の株を購入し、部屋に住む権利を得る契約であること。また、その契約に必要な書類のいくつかは旦那さんにも書いてもらう必要があること。すべての手続きを済ませるまでには半年ほどかかること。グリーンカード(=永住権)があるかの確認。……等々。前回来たときにも軽く話した内容であるし、アダムズ夫人はマンション購入の経験があったようだし、トルーマンにとっては資料がなくともそらですべて並べ立てられるほど身体に染み付いた文言であるため、この話をするのにはそれほど時間がかからなかった。
――そう。
せいぜいテロリストがやって来て受付のコンシェルジュ二名を殺害したのち、管理人二名も殺してマンションの制圧を済ませる程度の時間しか経ってはいない。
「オファーを入れるまえに、もう一度だけ物件の内覧をしたいですわ」
アダムズ夫人が言った。
「ええ。もちろん構いませんよ」
トルーマンはそう言って、アダムズ夫人を購入予定の部屋まで案内することにした。
エレベーターに乗って――55階へ。
静かで平和な廊下を進んで、目的の部屋のまえに着いた。
「こちらの部屋ですね」
「ええ。そうね」
トルーマンはポケットからさっと鍵を取り出し、ドアノブの下へと突き刺した。
くるりと回す。
「……ん?」
なぜだか鍵が回らなかった。
――どういうことだ? 鍵を間違えたのだろうか?
確認してみるが、間違いなくこの部屋のものである。――ならなぜロックが解除できないのか? 理由はなにも思いつかない。
ドアノブを引いてみたが――当然、開くわけがなかった。
「……どうかされました?」
「え」
振り返ってみると、アダムズ夫人が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
『なぜだか鍵が回らないんです』……と素直に状況を説明するのを躊躇う。かといってべつの言葉を用意することもできずに、すこしの間沈黙したまま夫人と目をあわせていると、瞬く間にトルーマンはパニックに陥った。
「え、あ、あのう……ちょっと、すみません」
小走りで移動して夫人と距離を取り、スマホで営業所の部下に電話した。
「どうしたんですか、トルーマンさん」
電話の相手はのんきな声で言った。
「どうしたんですか、じゃない、ドアが開かないんだ」
「へ?」
「ドアが、開かない、んだ……!」
「内覧ですか?」
「そうだ。もうほとんど決まっている案件だ。……このままではパーだ。なぜ開かないんだ?」
「と、言われましても……」
「なぜ開かないんだ?」
「なぜ開かないんでしょうねー……?」
――失敗した。とトルーマンは思った。部下に電話を掛けたところでこの問題は解決しなさそうだ。
「もういい」
諦めて電話をきった。
「下のフロアへご案内いたします」
トルーマンは夫人に向き直って言った。
「え」
夫人は目を丸くした。「わたくしは、購入予定の部屋をみたかったのですけれど」
もっともな意見である。
「……ここと、まったくおなじ間取りの部屋が、下の階にもございますので」
トルーマンは引き攣った顔でそう言って、すぐさま廊下を歩みだした。
はあ、と納得のいかないようすで相槌をうち、夫人がそのあとを追う。
ふたたびエレベーターに乗って――30階へ。
「こちらです」
「ええ」
困惑する夫人をよそに、トルーマンは強引な調子で、その部屋のドアを開けようとするが――
「なっ」
こちらも開かなかった。
――どうなっているんだいったい。
不動産営業をはじめて十八年――経験したことのない事態に直面し、トルーマンはいよいよ頭が真っ白になった。
「こ、こここ」
「こここ?」
「ここここ……ここのマンションは、マンハッタンのなかでも特に優良でして、先月の不動産投資に関する政府の非優遇税制措置もあいまっていまは価格も下がり特にお買い得になっているのでございます」
自分でもわけのわからないことをトルーマンは捲し立てた。もはや思考は問題の解決には向かっていない。商談が破綻してしまうことへの恐怖から、とにかく物件の良さをアピールしなければならないとの思い込みが発生していた。
「へえ?」
アダムズ夫人は顔をしかめた。
「奥さま、どうですか?」
「なにがですか?」
「どうか耳をすませてください――ほら、外の音はなんにも聴こえませんでしょう? 防音性能が業界最高クラスとなっています。それだけではございません。私ども経験豊富な不動産エージェントによる度重なる調査の結果、このマンションの住人はとても物静かな方ばかりであることが判明しております。――まさに! 一歩この建物に踏み込めば、街の喧騒からは開放され! そこにあるのはシャッター通りがごとく完全な静寂! スラム街に横たわる古老がごとく心臓の音すら聞こえやしない! パーフェクト! このマンションはまさに、マンハッタンの〈安穏〉の象徴なのです!」
両手を広げてそう言い切ったときだった。
トルーマンとアダムズ夫人の間を、猛烈な速度で少年(エミル)が横切った。
ちいさな身体で空気を切り裂き、その影響でトルーマンとアダムズ夫人の髪がたなびくほどの速さだった。
「「…………」」
トルーマンは目を白黒させた。
アダムズ夫人はぽかんとくちを開けている。
「あの……奥さま」
トルーマンはなにかを言おうとしたが、いましがたこのマンションの平穏を並べ立てたくちからは何も出てこなかった。
「……子供が活発なのは、いいことですわ」
アダムズ夫人が言った。
その言葉は、トルーマンにとってはまさに救いの手だった。もうだめかと思ったが、まだ大丈夫らしい。
「そ、そうですよね! 奥さま! 元気な子供の姿というのはまさに平和の象徴! そうです! じつはこのマンションの廊下こそが、マンハッタンを代表する――ひいては全米を代表する平和のシンボル!」
「待てごらあああああ! ぶち殺すぞガキがあああああああ!!」
少年を追う大男(バリー)がそう怒鳴り散らしながら、二人の間を鬼の形相で駆け抜けた。
「「…………」」
トルーマンは蛇に噛みつかれた蛙のように目を剥いて、アダムズ夫人は嘔吐のさなかのカバのようにくちをあんぐりと開けて、その大男の離れゆく背中をみつめた。
「……どこが、平和のシンボルですの」
すこしの沈黙を破ってアダムズ夫人がようやく言った。発声そのものは静かだったが、そこには確かな不快感がこめられている。
「まったく、良い環境とは言えませんわね――」
そして彼女はトルーマンにとっていちばん聞きたくなかった言葉をくちにした。
「きょうはオファーを入れにきたつもりでしたが、いったん、保留にさせていただきますわ」
「そんな」
あえぐような声が出た。
「もう帰らせていただきます」
とアダムズ夫人は言って、来た廊下をすたすたと引き返す。トルーマンはその後ろ姿を追いかける。
「奥さま。あのー……」
必死になって、その背中に呼びかける。
「なんですの?」
アダムズ夫人は立ち止まることも振り向くこともしない。
――なにか言って、引き止めなくては。
「さっきのはきっと、仲の良い兄弟ですよ」
「まあ。殺してしまうくらいに仲が良いんですのね。センス・オブ・ワンダーですわ」
「こ、このマンションはとても安全ですよ」
「どこがですの?」
「銃を携帯したコンシェルジュが、24時間、常に建物の入口を守っています」
「それは――確かにそうね」
とアダムズ夫人は納得したが——このときにはすでにその二名は死んでいる。
「それだけではありませんよ」
トルーマンは内心で、自分に『落ち着け』と言い聞かせた。そしてあくまでなにも問題は起きていないかのように、心のそこから自慢げに、鍛え抜かれたビジネススマイルを顔面にびっしりと貼り付けて言った。
「至る所に防犯カメラを設置してあるのです!」
「防犯カメラですか」
「ええ。最新のものですよ。御覧ください。ほら、例えばあちらに――」
「ひゃっはーっ!!」
金属バットをもった少年(ダイスケ)が、愉快そうにその防犯カメラを叩き割っていた。
「「…………」」
アダムズ夫人とトルーマンはその光景を眺めて、くちをへの字にした。
金属バットの少年はこちらには気がつかず、嵐のごとく手当たり次第にカメラを割りながら、廊下のむこうへ遠のいていく。
「木っ端微塵ですわ」
アダムズ夫人は足元に転がった残骸をみて言った。
「ええ。木っ端微塵ですね」
トルーマンも、もうそれしか言えなかった。彼の瞳は生気を失っていた。いったいいつからこの建物内は『マッドマックス』の世界になったのか。
「……奥さま、エレベーターはこちらです」
トルーマンは自ら率先して、夫人をここから帰すように動いた。
「ええ」
と気の抜けた返事をしてアダムズ夫人はおとなしくついてくる。
チン、と音がなって、カゴが到着。
二人は無言でそれに乗り込む。
なぜか足元に、真っ赤な血が広がっている。(ローランのもの)
割られた防犯カメラのなかから、千切れたコードが飛び出している。(ヘディがやった)
ドアが閉まり、カゴが動きだす。
アダムズ夫人は黙りこんでいる。トルーマンは横目でちらりと彼女の様子をうかがった。
肩をわなわなと震わせていた。
そのわなわなが、しだいに大きくなって――
「……優良物件とおっしゃっていましたわね?」
ふと、冷え切った声でアダムズ夫人が言った。身体が震えているせいで、声も震えている。まるで独り言のような調子だったが、内容的に考えればトルーマンに投げかけた質問にちがいない。
「ええ。そのはずです」
とトルーマンは応えた。
その瞬間、アダムズ夫人は、ぱっと顔を上げて、きっ、とトルーマンを睨みつけた。
「その、はず、ですって!?」
彼女の怒りがついに爆発した。「どこがですか! これのどこが優良物件なのですか! まるで地獄絵図じゃありませんの!」
「まあ、奥さま、落ちついてください!」
「落ちついてなんていられませんわ! もうちょっとでわたくし、騙されるところだったんですよ! あなたにね!」
アダムズ夫人は怒鳴りながらトルーマンに詰め寄った。普段エレガントな風情の夫人も、怒れば大迫力だった。
彼女は人差し指をトルーマンにむけて捲し立てた。
「これは立派な詐欺ですわ! あなたさっき、弁護士を選定する必要があるっておっしゃっていましたわね? いいですわ! 弁護士を雇います! ……ただし、あなたの会社を訴えるために! 止めても無駄ですわよ! これほどの悪行、見過ごせません! ここを出たらすぐに、わたくしは弁護士事務所へと参ります! 冗談ではありませんわよ! 本当に参ります! ここ出たら! すぐに!」
そのときだった。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥウウウウン……と鈍い音がなって、照明が切れた。
「「え」」
カゴのなかが真っ暗になる。
「……な、なんですのこれ?」
アダムズ夫人の怯えた声が、暗闇に溶けた。
一瞬、ずっしりと自分の体重が増すような感覚がして、次の瞬間にはぴたりとそれが止んだ。
「エレベーターが、止まったみたいです」
トルーマンは感じたことをそのまま言った。
「でしたら、どうしてドアが開きませんの!?」
アダムズ夫人が狂ったように叫ぶ。
「……わかりませんよ、もう」
「なんですって?」
「わかりませんってばあもぉう! 私に訊かれてもわかりませぇん!」
トルーマンは泣き叫んだ。
「ここから出してください! 誰か、ここから出してください!」
アダムズ夫人も泣き叫んだ。
「出してぇー!」
「たすけてぇー!」
そのあと二人でドアをガンガン殴った。
殴り疲れてからは途方に暮れた。
二人一緒に絶望した。
それから互いに励ましあった。
……彼らが真っ暗闇のエレベーターから脱出できたのは、事件の解決後二時間が経ってからである。
なお、部屋の売買は成約したというから、人生何が起こるかわかったものではない。
***
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