幸福への罪悪感

 私は普段から「食べたいもの」を聞かれるとひどく困る。少なく見積もっても八割の人間は私を見て嘘と断言しそうな事だが、事実だ。食べれば美味い。料理だってしないわけではない。寿司が好きだ。酒が好きだ。しかし、「何食べたい?」と聞かれると困る。困っている内に「まぁいいか食わなくても」などと考え始める。仕事を辞めた直後は特にこれが顕著で、昼近くに目を覚ました私が特に食べたいものはないと答えるたびに母は当惑していた。非常に申し訳ない気持ちになって、しかしどう考えても食いたいものがない。贅沢な悩みである。比較的、食べる気になるのは魚の刺身と焼き魚だったので、その頃はそれらと、思い出したようにチョコレートを食べていた。酒だけは毎週末欠かさずに飲んでいた。当然褒められた話ではない。スコッチを好きになったのはこの頃だったかもしれない。

 片付けの一つもまともにできないせいでホコリっぽい部屋。転がる酒瓶。酒瓶の隣で床に落ちている私。今考えるととてもまともな状態ではないのだが、その当時、日がな一日ごろごろと転がっていることしかできなかった。わけもなく悲しくて何もする気にならなかった。寝転がって天井を見つめている私を、父は「死んでるみたいだ。」と言った。事実、死んでいるようなものだった。卑屈で、一歩間違えば酒浸りになりかけていた私を家族も友人もよく見捨てずにいてくれたと思う。本当に申し訳ないことによく覚えていないが、何度か八つ当たりもしてしまった気がする。自分だったらとっくに切り捨てているタイプの人間だ。私の周りには、優しい人が多すぎる。

 時折SNSなどでも散見される話だが、仕事を辞めると時間ができてやりたいことができるかは人による。少なくとも私はあんなにも嫌だった仕事をしていた頃の方が趣味に時間を割いていた。熱中できていた。ゲームも絵も文章も手芸も料理も、やりたいことはたくさんある。そのどれもが仕事を辞めた途端にできなくなった。理由はいくつかある。その一つで、一番大きかったのが罪悪感だ。自分は就活に失敗して、やっと始めた仕事も一年で辞めて、収入もほとんど無く、何の役にも立たない穀潰しである――その事実は、何かを楽しむという行為の全てを否定した。楽しんではいけない。無駄遣いをしてはいけない。幸福を感じるべきではない。生きている価値がないくせに生かされているのだからそれだけで満足しろ。そういう言葉が、声が、いつも私の耳にこびりついていた。無論全て自分の声だ。誰かにそう言われた訳ではない。前述の通り優しい人たちに優しくされて生きていたから、自分を常に責め続けるのは自分だった。何度カウンセリングを受けても、薬を飲んでもその声はなかなか消えなかった。


 そんな調子で一ヶ月経った頃、一年働いて貯まったほんの少しの貯金はパソコンになった。この文章のタイトルのとおり私は八割方ニートだ。残りの二割は細々とだが働いている。そこでパソコンは使うのだからこれは買ってもいいはずだ、と自分に言い聞かせて買った。結果それは正解だったのだが、この仕事というのが少々特殊である。元々は前の勤め先での収入があまりにも少なかったので始めた副業だった。学生の頃からよく客として通っていた輸入雑貨店で、ネットショップの管理をする人員が足りないと聞いて手伝い始めたのだ。もっとパソコンに詳しい人が見つかればお役御免になるかもしれない、とはじめから言われており、私も軽く小遣いになればいいと思って気軽に始めた仕事だ。なにせ基本は在宅でいいと言うのだからありがたい。本業を辞めてからもなんやかんやと言いつつこちらは続いていたのである。在宅で、連絡は全てメールか電話。同僚とも店に買い物に行く以外では顔を合わせない。環境としては私にぴったりの仕事だ。

 しかし、本業を辞めたなら倉庫まで来てくれと言われて私は隣町の事務所兼倉庫まで出向くこととなった。ごちゃごちゃとした倉庫内に立つ仙人のようなオーナーに言われるがまま雑務を手伝った。主に商品に値札をつける作業である。今後もこういう機会があったら呼ぶ、と言われた。他に収入もない私には願ってもない話だった。何度か行く内に新しく作ったらしい倉庫の鍵を一本渡され、仰天したのを覚えている。オーナーはなぜか私を信頼しすぎている気がしてならない。私が盗みを働いたらだとか、そういう風には思わないのか。


「好きな時間に来て鍵開けて仕事して、好きな時間に帰っていいよ。勤務時間はどっかにメモしといて月末にメールで送って。エアコン切るのと、鍵閉めるのは忘れないで。」


 人間、手放しに信頼されていると感じると逆に悪いことはできないと思うものかもしれない。私はそうだった。今となってはこのオーナーはこういう人なのだと分かっているが、当時はえらく困惑した。スピーカーがあれば好きな音楽を流して作業していい。基本的に誰も来ないから一人で黙っていていい。食事は好きな時間にしていい。体調が良くなければ帰ってもいい。――世の中の職場という職場が皆こうならいいのに、と言ったらオーナーは笑っていた。


「仕事辞めてから、引きこもってるの?」

「はぁ、そうですね。気が塞いでしまって。」

「そうかぁ。」


 ――もっと外に出て働いた方がいいとか、そんなんじゃダメだとか言われるんだろうと思った。


「引きこもりたいときもあるよなぁ。外に出たくなったら出ればいいさ。あぁでも、運動不足は良くないか。気晴らしにここに手伝いにくるといいよ。」


 この後オーナーの話はついこの間インドへの買い付けに行ったときの土産話に続くのだが、私は肩すかしを食らった気持ちだった。オーナーの奥さんがこの人と結婚した気持ちが分かった気がした。漠然と、どうしてか罪悪感で諦めたゲームソフトを買ってもいいかもしれないと思うのだった。

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