第2話 ルスのエルバ 2 

 ゴートが手渡してくれた水と干し肉を、エルバはむさぼるように腹に収めた。


 干し肉の塩味が舌に温かく染み渡る。奇妙なくさみもあったが、この時ばかりはスパイスだった。ただの水が甘いということを、エルバは初めて知った。


「水も食い物も、守印しゅいんさえ持たずに街の外を歩くとか、兄ちゃん一体何考えてんだ。」


 炎の向こう側から呆れたようなゴートの声が聞こえた。燃料の黒い石が高い音を立てた。


「守印って、先ほどいただいたこれですか?」


 エルバは己の首に巻いたチョーカーに手を触れる。


「ああ、そうだ。次からはちゃんと用意して街から出ろよ。聖教会せいきょうかいが発行してるからよ。まあ、効果の程も持続時間もピンからキリまでだ。俺らみたいな庶民しょみんの手に入るのはキリだぜ。よっぽど無理して寄進きしんしなきゃあな。」


 人々を救うとうそぶいてはいるが、溜め込むことしか考えてねえのさ。ゴートは口元を皮肉に歪めた。


「寄進……お金ですか?」


「金? レプト通貨か? まあ、カテドラルの勢力範囲ならそれでいいだろうよ。」


 エルバは一度口を閉ざした。ぼんやりとした頭に、新しい情報がなかなか沁み込んでいかない。


「その、このチョーカーを着けていると何かいいことがあるのですか?」


「別にチョーカーじゃなくてもいいんだぜ。重要なのは中身さ、中身。さっき入れたろ?」


 エルバは首元をまさぐって、チョーカーに取り付けた小石に触れた。それはチョーカーの枠越しにエルバの首に触れている。ゴートが取り付けた時点では、ただの石のようだった。


「肌に密着するように身に着けるんだぞ。でないと効かないからな……って、お前、守印の効果知らねえのか?」


 エルバは控えめに頷いた。ゴートは呆れたようにエルバを見た。


「ヒトハミから存在を隠すための道具だぜ。」


「ヒトハミ……?」


 エルバは首を傾げた。エルバを見つめるゴートの目に、疑念の色が浮かぶ。


「さっきお前が襲われていた、あれだよ。まあ、獣も混ざっちゃあいたが、殆どはヒトハミだったな。人を食う化け物さ。」


 人を食う化け物。獣らしくない獣。大きなイヌ。あれをヒトハミというらしい。エルバはかつてない真剣さで知識を頭に叩き込んだ。


「守印はヒトハミけにはなるが獣けにはならないからな。臭い袋を併用しな。」


 ゴートは鞄の中から袋を二つ取り出した。中身を混ぜると一定時間獣の嫌う臭いを発生させるのだという。先ほど獣を遠ざけたのは、どうやらこれの効果であるらしい。


「本当に、何の準備もなくて、よくこんなところまで来たもんだ。」


 こんなところ、という言葉に、エルバは嫌な予感を覚えた。


「この辺りに街はあるのですか?」


「西に三日ばかり行けばカテドラルだけどな……。しばらく前までこの辺りは人が踏み込めなかったんで、街はないんだよ。」


 三日。エルバは呻いた。歩き切る自信はなかった。


「兄ちゃん、ヒトハミのこと全然知らねえようだが、よくヒトハミを斬ることができたな?」


「あ、いいえ。その……本当に、剣なんて全く使ったことがなかったのですが、意外と使えました。」


 エルバは引きった笑顔で答えた。常識のなさを誤魔化せていると良いのだが。


「ヒトハミはたくさんいるのですか?」


 エルバはやや性急せいきゅうに話題を転じた。


「総数は知らねえ。だが、いろんな形の奴が世界中にいることは間違いねえや。あれのせいで防壁に囲われた街からなかなか出られねえのさ。」


 そう答えて、ゴートはニヤニヤと笑う。


「なんだよ、兄ちゃん。もしかして噂に聞く箱入りって奴か? そういや服も継ぎ接ぎじゃねえし、顔立ちも上品だ。特にその目だ。どうなってるんだ、それ?」


「目?」


 エルバは首を傾げた。目について誰かに言及されたことなど、これまでの人生の中で一度もなかった。


「その上そんな業物ワザモノ携えて……家出か?」


「そ、そんな感じです、はい。」


 恩人に嘘を吐くことを心苦しく思いながら、エルバは嘘を吐いた。本当のことを言ったところで信じてもらえるとは思えなかった。


「……詮索せんさくはしねえさ。すねきず持つ相手に踏み込むのは野暮やぼってもんだ。」


「き、気を遣わせてしまって申し訳ありません。」


 命を助け、食事と水を分け与え、生きる知恵まで教えてくれて、怪しさを見透かした上で事情に踏み込もうともしない。何と良い人なのだろう。疲れ切った心に優しさが染み渡った。


「さぞや疲れたろう。さっさとおうちに帰って、もう二度と街の外に出ないことだな。」


「……はい。」


 本当に、家に帰りたい。胸中きょうちゅうで呟いたその言葉に泣きそうになった。これほど切実な思いはない。


「もう休みな、兄ちゃん。見張りはしておいてやるからよ。」


「ありがとうございます。」


 エルバは素直に甘えることにした。本当に、くたくただった。エルバはのろのろと体を横たえて、目を閉じた。


 一体自分に何が起きたのだろう。


 ここは自分がこれまで生きてきた世界と地続きの場所なのだろうか?


 疲れ切って働きの鈍い頭で色々な仮説を立ててみる。


 映画で見るような、時間旅行。娯楽小説の設定として使われる、異世界転生。並行世界、なんていう設定もあるのか。どれもあまりにも非現実的で、同時に自分が置かれた現実よりもよほど現実的に思われた。


 要するにこれは夢なのではないか? 夢の中に落ちていく途中、エルバは改めてそう思った。結局のところ、それが一番現実的な落としどころであったから。



               *


 まだ夜も明けきらぬ薄闇うすやみの中でエルバは目を覚ました。


 いくら疲れていようとも、き出しの土の上で熟睡じゅくすいするのは難しい。いつの間にか被せられていた獣の皮とおぼしき布をどけると、鋭い寒さが体を襲った。慌てて毛皮を被り直す。


 火はいつの間にか消えていた。燃料の石は燃え尽きたのか、赤い土の上に影のようにすすを残すのみだった。


 薪跡まきあとの傍らに、守印の核となる石が九つと臭い袋のセットが六つ置かれているのを、エルバは発見した。それの持ち主であろうゴートはいない。エルバは不安になった。立ち上がって周囲を確認する。


 見晴らしの良い大地のどちらを見ても、ゴートはいない。


「ゴ、ゴートさん? ゴートさん?」


 名前を読んでも返事はない。エルバは咄嗟とっさに白枝の剣を探して手を彷徨さまよわせ、次いで視線を走らせた。白枝の剣がどこにもない。


 エルバはしばし思考を停止した後、ずるずるとその場に座り込んだ。


 もしかしたら、エルバが寝ている間に何かをしに出ただけで、またここに戻ってくるのかもしれない。白枝の剣は護身用ごしんように持ち出しただけなのだろう。ぶるぶる震えながらエルバは思った。震えは寒さのせいだ。そのはずだ。


 待てども待てども、ゴートは帰って来なかった。日が中天を超えたところで視界にヒトハミが現れたので、エルバは慌ててチョーカーを着け換えた。臭い袋も混ぜ合わせて、獣を追い払う。ひどい臭いにむせて、情けない気分になった。


 待てば待つほど、エルバの中では疑念が膨らんでいった。さらに日が傾く頃には、誤魔化ごまかしようのない真実がエルバに迫って来た。騙されたのだ。白枝の剣を盗まれた。


 エルバは残されたチョーカーと臭い袋を拾い上げると、太陽の沈む方角に向けて歩き始めた。西に三日ほど行ったところに街があると、あの男は言っていた。あの言葉が真実かどうかは解らないが、それ以外には頼りようもない。悔しさと悲しさが目頭めがしらを熱くする。エルバはぐっと、それをこらえた。


 ヒトハミが近くまで寄ってきた時間帯を考えれば、このチョーカーの効果は八時間程度なのだろう。九つ置いて行ったということは、西の街までの分を残したということか。それはせめてもの情けなのか、罪悪感の現れなのか、それともただの気まぐれか。


 いずれにせよ、エルバの足は遅かった。体が重く、ねっとりとした泥の中を進んでいるように足が前に出て行かない。休憩をとる度に次の休憩までの時間と距離が短くなっていく。


 空腹も問題だった。運動量が要求するエネルギーは莫大ばくだいで、しかしそれを補給することができずにいる。


 ふらつくエルバの眼前に獣が現れたのは、日が西の地平に半ば隠れた頃合いだった。臭い袋はチョーカーほど長持ちしないらしい、とエルバはぼんやり思った。


 獣は目をぎらつかせ、体を低くしてエルバの傍まで這いよると、一気にエルバを引き倒した。落ちていた石に当たった手が切れた。てのひら大のその石を、エルバはしかと握り、獣の肋骨ろっこつに叩きつけた。獣は悲鳴を上げてエルバの上から転げ落ちた。


 エルバは起き上がると、獣の頭蓋ずがいへと石を振り下ろした。何度も何度も、無感情に振り下ろす。


 やがて獣は動かなくなった。エルバは獣の脇腹へ食らいつく。野生を失った人間のあごの力は、毛皮を食いちぎるには貧弱だった。何度も石を打ち付け、破れた皮膚から血をすすり、内臓をき出して、生のままで食らいつく。気持ち悪さに嘔吐えづきながら、獣の内臓を己の内臓の中に押し込んだ。


 こぼれた涙がほおを洗った。

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