ダーフーの孤独



 昨日はたっぷり寝た。目覚めがすがすかしい。


 まだ日は明けていない。薄暗闇のなか大きく伸びをする。


 あれから一ヶ月たった。生徒達も不屈の努力のかいもあり、対練もほぼものにしつつある。


 暴動決行の頭数も揃った。あとは生徒の練度をさらに上げる事と、具体的な日時である。あと一ヶ月あれば余裕だ。今は己の役割に徹するだけだ。


 下に降りてゆくとおやじさんが仕込みをしている。その横でシャオタオが玉子焼きを作っている。


「ようおはよう」

「おはようね、ホアンさん」

「おはようフェイロン」


 朝は丼一杯の朝粥と玉子焼きと野菜のスープ。これが定番である。店は昼前から開店するのでもう少し睡眠を取ればいいのにと思うのだが、朝早くから仕込みに追われてそれどころではないらしい。


 ――人は人


 フェイロンは最近深く思うようになった人生哲学を噛みしめて、丼一杯の朝粥から手を付ける。


 やがてハオユーとウンランも下に降りてきた。フェイロンと同じく朝粥から食べ始める。


 ウンランが小声で話す。

「あいつに教えている五形拳、どこら辺まで進んでいるんですか」

「もう対練もしっかりしてきた。そこらの素人にゃ負けないくらいかな」

「たった一月で!」

「あいつは別格だよ。空手の下地がある。さらに力も恐ろしく強い。そこらを勘案してという事さ」

「俺なんかいちころなんでしょうね」

 フェイロンが吹く。

「人は人だよウンラン。一律に強さだけを比べてもしょうがない」

 するとハオユーが思い出話をする。

「俺も思い出すよ。まだ俺が武館への出入りが許されなかったころ、兄さんに毎日稽古をつけてもらっていたんだ。最初は基本的な突きや蹴りを千回やっとけとか無茶を言われたもんだけど、やがてそれが実を結ぶのを実感したもんさ」


 玉子焼きとスープを飲み込み、フェイロンは立ち上がった。

「さて、気張ってゆくぞ!」

「おー!」


 今日も夜明け前から、全員肩や腰や足を柔軟体操している。中には早くも対練している者もいる。ふと見るとダーフーの姿が見つからない。昨日はよほどこたえたのだろう、ばか正直に暗闇で千回突きを繰り出す姿が目に浮かび、フェイロンは「ふふ…」と笑う。


 稽古が夜明けと共に始まった。


「礼!」

「よろしくお願いいたします!」


「今日はいよいよ迫った本番に向けて特別な訓練をする。みんな気合いを入れるように!」

「特別な訓練……」

 皆がざわめく。


 ウンランが木箱を引っ張ってやって来た。それを開けると柳葉刀が十本入っていた。


「さあ、一班に配って配って。取り扱いには十分注意しろよ」


「今日からこの武器に慣れて貰う。これは昨日ザンが届けてくれたもんだ。これを使って基礎訓練だけは終えておきたい。同士討ちだけは避けたいからな。今日は一班が習得に使う。明日は二班、次は三班というように稽古を回していく。何か質問は?」


 三人余ったがそこは手を使って稽古をさせる。今日は基本的な縦斬りと斜め斬りだけを修練させるつもりだ。


 残った奴らはいつものように伏虎拳の対練だ。皆が稽古に必死になる。


 一班はいつもより間を空けて、ぶつからないように修練をしている。


 それから一時間ほど……皆にマメができてくる。フェイロンは鍛えているので、この事態は想定していなかったのだ。そうそうに方針を転換し、二班に交代する事にした。


 そのうち石段を登って来る者がいた。ダーフーである。その光景を見て複雑な顔をしている。しかし何気ない風を装って稽古に加わった。


「遅かったじゃねーかよ、ダーフー。昨日の特訓がよほどこたえたのか」

「あれから右を千回、左を千回やった。朝早く起きれなくてこんな時間になってしまった。それより……」

「柳葉刀の事だろう。もうすでに今日から訓練が始まった。後戻りはできねぇ」

「そうか……」

 フェイロンはダーフーの無表情の中に悲しさを見て取った。


 順番が進みダーフーの班になった。ダーフーは乗り気のない顔で刀を振っている。昨日の千回突きのおかげで腕が上がらなくなりそうそうに交代し、後ろの方でひとり工字伏虎拳をやり始めた。


 ――孤独……なんだろうな……


 時折笑顔も見せながら皆と談笑することもあるが、本来は立場が真逆。敵同士なのだ。敵に囲まれて自分の素性をあかすことも出来ない。腹から笑うこともない。いつも無口でぼーっとした奴というふりをしなければならない。それでもその胸の内をフェイロンにすらあかしたこともない。


「ダーフー」


 フェイロンはダーフーに近寄る。

「今日は五行拳ではなく工字伏虎拳の対練をしてやる」

 最初の呼吸法をやり始める

「俺が相手だ、思いっ切りかかってこい!」


 対練が始まった。この男二人のぶつかり合いを見て、皆の動きが止まった。套路とは思えない実戦のような迫力、切迫する肉体。皆が回りに集まってくる。


 無心で拳を振るうダーフー、それに応えるフェイロン。まさに二匹の虎と虎が戦っている……工字伏虎拳の真髄を見た思いなのだった。


 その時、生徒の一人が石段を、息を切らせながら登ってきた。


「大変だー!シャオ と リンの奴が闇賭博場でやくざに喧嘩をふっかけやがった!」


 ――しまった!


 拳の習得がある程度進むと自分が今どれだけ強いのか試したい者が必ず出てくるのだ。ここではそんな事はないだろうとたかをくくっていた。


 フェイロンは生徒達に落ち着くよう言い渡し、いつものように稽古をしているように指示を出した。


 三兄弟と高弟のジァン、それにダーフーも連れて行く。ジァンと同じく高弟のリーに、この寺院の稽古の一切を任せてフェイロン達は現場に走って行った。

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