第三十六話 あなたの生きていた証

 蛇田さんはカレーを二杯食べた後、別所くんと私へ丁寧にお礼を言い、神代くんの頭を撫でてから帰っていった。子供扱いできるのもこれが最後ですねぇと笑っていたので、おそらく常にそういう扱いをしていたんだろう。

 その時の神代くんに、嫌そうな様子は微塵も見えなかった。彼の反応を不思議に思っていると、知季くんが「所長が死んだ時、まだ小学生の子供がいたんだよ」と耳打ちをしてきた。つまり、その子の代わりをしていたのか……やっぱり今でも神代くんは、みんなに優しい人なんだなぁと、とてもとても嬉しくなった。


 食器の片付けを終えると、いつものように別所くんがコーヒーを淹れてくれる。知季くんも含めて四人のコーヒータイムも、すっかり見慣れた光景になってしまった。ガリガリとミルが音を立て、ほんのりと甘いような香りが漂ってくる。

 全員がコーヒーを口に運び、柔らかな静寂が流れる。ようやく一息ついたところで、知季くんが頬を緩めたまま「あのさあ」と私の顔を見た。


「薬、今日使う? 翔の状態を安定させたいんだったら、早い方がいいと思うけど」

「安定?」

「霊が成長することって、魂の構成を強引に大きく変えるわけだから、不安定になることもあるんだよ。人間でも急激に背が伸びると、成長痛が酷かったりするでしょ? 式の前日とかにやっちゃうと、翔がかなりキツいと思う」


 なるほど。全く考えもしていなかったけれど、霊体でもそういうことがあるのか。じゃあ早い方がいいよねと言うと、神代くんは頬を赤くして頷いた。誰もそれをからかうことはなく、知季くんがピルケースをポケットから出して、そっとテーブルの上に置いた。蓋を開けると金平糖は二種類、ピンクのものと薄紫のものだけに減らされている。


「今日は暴走防止のやつと、子供作るやつを置いていくね。本当は服用指導してから、効果が切れてしまうまでを、傍で見届けないといけないんだけど……俺に見られるの、嫌でしょ? 高井ちゃんに渡しておくよ、翔に飲んでもらってね」

「うん、わかった。あとの二つは?」

「まだ俺が持っておく、どっちも効果時間が短いんだ。可視化するやつも一時的なものだから、丸一日くらいしか効かないんだよね……長期の調整は霊体医師の手が必要なんだけど、翔のことを研究材料くらいに思ってる連中だから、関係ないことまでアレコレされちゃいそうなんだよ」

「それは……お願いしたくないね……」


 でしょう、と知季くんが苦笑する。ずっと「医師を呼ぶのは避けたい」と言っていたのは、そういうことが理由だったのか……神代くんは大げさに怖がるそぶりを見せて、そんなのやだよ、と舌を出した。


「まぁ、使い方を説明するよ。使い方は簡単で、普通に一粒食べちゃってね。最後まで舐めて溶かしても、嚙み砕いて飲み込んでも、どっちでもいい。二種類を一緒に飲んでもオッケー。この二つの効果時間は……ずっと、かな」

「ずっと?」

「そう。正確には転生するまでの間、今の魂である限り。だからたとえば、毎年少しずつ高井ちゃんにエネルギーを分けてもらって、一緒に歳を取っていくこともできるし、やろうと思えば毎年子供を増やすことも――」

「わああ、一人で十分だからね僕!」

「俺は二人ぐらいなら引き受けてもいいぞ、遠慮すんなよ」

「ベッさん! ちとせちゃんが困るでしょっ!」


 大慌ての神代くんを見て、別所くんが大声で笑い転げている。別に困りはしないけど、どちらかといえば「一緒に歳を取っていける」という方が私は気になっていた。それはとても魅力的な話だった。どれだけ年齢を重ねても、もう彼だけを置き去りにしなくて済むのだから。年に数日しか会えなくても、一緒に歳を重ねていけるのであれば――きっと、寂しさも少しは薄れるだろう。

 私はピルケースへ手を伸ばし、宝物を扱うように、そっと蓋を閉じた。


「じゃあ……今夜で、いいよね?」


 私に問われた神代くんは、あっという間に耳まで真っ赤になった。


 知季くんが帰ってから、覚悟を決めた私たちは、寝室のベッドに裸で寝転がった。別所くんは「二人が嫌じゃないなら」と前置きをしたうえで、一緒にいたいと言ってくれた。嬉しかった。神代くんが大人になる瞬間には、傍にいて欲しかったから。


「神代くん、大人になろうね……そして、あなたの生きていた証、遺そうね」


 私が金平糖を渡すと、神代くんは大きく深呼吸をしてから、二粒同時に口へ含んだ。すぐにカリカリと音を立てて噛み砕き、飲み下して……息を吐き、ゆっくりと、私に覆い被さった。


「大好きだよ、ちとせちゃん」


 彼の唇が頬に触れ、首筋に触れ、唇へと触れて、そしてすぐに離れていった。軽く吸われた場所のすべてに、ふわふわとした心地良さと、発情を誘うような熱が同時に生まれていく。いつものキスとは全然違う、これが「捕食」ってことなんだろうか……私は今から神代くんに、おいしく食べられてしまうのだ。

 横で見ている別所くんが、私の髪を指先で梳いている。その姿が普段と変わらなくて、この非日常をうまく認識できない。神代くんは「大好きだよ」と繰り返し、私の唇を食むように吸い始めた。

 ちう、と音が響くだけで、頭がおかしくなりそうだった。とても熱くて、気持ち良くて、それが何だかすごく怖くて――私は、別所くんの手をぎゅっと握った。


「大丈夫だよ、ちとせ……俺も、ちゃんと、ここにいるよ」


 その声が優しくて、心の奥にあった不安が、一瞬でどこかに溶けてしまう。私は陽だまりの猫になったような心地で、神代くんに吸われるがままになった。

 だけど、穏やかなのは一瞬だけだった。自分の中の何かを貪られるような感覚に、次第に目を開けていられなくなってしまう。ぎゅっと瞑った目蓋まぶたの裏で、火花が何度もバチバチと散った。もしかしたら泣いていたのかもしれない。目尻をそっと撫でたのは、どっちの指先だったんだろう?

 しばらくそんな時間が流れた後、名残惜しげに唇が離れていく。長時間続いたあまりの刺激に、目を開けられないまま呼吸を整えていると、知らない声で「大丈夫?」と気遣われた。声変わりをした神代くんだと気付くのに、少し時間がかかってしまう。ぼんやりとする意識の中、彼を見ようと半ば強引に目を開けると、そこには私が思い描いていた通りのひとがいた。子供の頃の面影を残したまま、サラサラの髪のまま、優しい瞳のまま……誰が見たって間違いなく、大人になった神代くんだ。

 ずっと別所くんの手を握っていた私の手へ、すっかり大きくなった神代くんの手が重ねられて……ああ、願いが一つ叶ったんだなぁ、と思う。


「……このまま、続き、しちゃおうね」


 神代くんが、もう一度ゆっくりとキスをしてくる。続きって、それはつまり――逆らう理由を持たない私が、うん、と素直に答えると、別所くんが後ろから私を抱きかかえた。

 そこからは、意識が途切れ途切れになった。それは刺激が強すぎたからというだけでなく、子供を大人に成長させるほどのエネルギーを吸われた時点で、私の気力が限界だったのかもしれない。

 はっきりと覚えているのは、二人がいつもより、更に優しかったこと。

 それと、神代くんが私のお腹を撫でて「今ここに魂が来たんだよ」と、嬉しそうに別所くんへ報告していたことだった。


 真夜中に目が覚めた私は、なんだか無性にお水が飲みたくて、こっそりベッドを抜け出そうとした。だけど二人が私にガッチリと抱き付いていて、とても出られる状況じゃない。今までなら、神代くんが子供の身体だったから、そっと引き剝がすこともできたけれど……成人男性二人に抑え込まれて、どうにも身動きが取れそうにない。仕方なくお水を諦めて、その代わりに神代くんを観察してみる。

 大人になった神代くんは、別所くんほどではないけれど背が高くて、喉仏があって、手も足もすっかり大きくって……だけど、眠っている今の表情は、昨日までと何も変わらない。微笑むような顔で眠る、可愛い神代くんのままだった。

 三人でこうしていられるのは、あと一ヶ月もないんだろう。正しい道はわかっている、それなりに覚悟も決めている。迷うような選択肢なんかないのに、胸の奥がざわざわと落ち着かない。自分が死んでしまった後や、生まれ変わった後なんていう「知らない世界」での希望をよすがに、いま目の前にいる「神代翔」という人を手放すなんて、私は本当に耐えられるのだろうか?

 不安だらけの夜だけど、大切な人たちの温もりを、今は信じていたかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る