「最近、太郎君こないわねぇ」


小学校からの帰宅後すぐ、母の華奈子かなこが残念そうにつぶやく。たしかにここ1週間ほど学校ではもちろん家でも見ない。

どうやら体調崩したらしく、華子からしたら嬉しいことこの上ないことである。

太郎がいないだけで、これだけ解放的なことがあるのかと言うほどに。


「そのうち来るでしょ」


来て欲しくないのが本音だが、言えるわけもないので、当たり障りのない返事を返した。


明後日からは小学校最後の夏休みである。

どうせなら、夏休みの終わりまで体調を崩しておいてもらいたいものだと、ランドセルを置きに自分の部屋へ上がろうとする華子を、華奈子が呼び止めた。


「華子ちゃん、ちょっとお見舞い行って来てちょうだい」


華子は母に似ているのだと良く言われる。

だから、きっと美人になるとも。

大きな黒目が楽しそうに微笑む。


けれど華子自身はそんなこと思ったこともない。見た目の問題ではない。


「太郎くんにケーキを焼いたの。あとクッキーも。ね、これ持ってお見舞い行って来て?」


「い、」


「うん?」


「、いいよ〜」


「ありがとう。それじゃ袋に詰めて準備しておくから、華子も準備できたらお願いね」


「は〜い」


嬉しそうに袋に詰める華奈子に笑顔で答えると、再び階段を登りはじめる。


母は華子が太郎を嫌っているのに気づかない。しかもあの太郎の裏の顔にも気づかない。確かに彼は演技の天才ではあると思うけれど、娘の自分があれだけ嫌がっていても、恥ずかしがっていると勘違いしてしまうほど、本当は好きなんでしょと勝手なことばかり言って、笑っている。


極め付けはこれだろう。


「じゃあ、太郎くんとワルムさんにもよろしくね、いってらっしゃい」


「いってきます」


渡された紙袋を覗き込む。


(病人にケーキとクッキーって、拷問としか思えないわ)


自分が貰って嬉しいかと言えば、絶対困る。

口には絶対しないけれど、華奈子は驚くほどの天然なのだ。



「これはこれは、華子お嬢さまお久しぶりにございます」


玄関エントランスで出迎えてくれた、白髪を総髪オールバックにした執事のワルムが、優しげにしわを刻み微笑んで招き入れてくれる。


「ワルムさんこんにちは」


「今日は坊ちゃんのお見舞いで?」


「ママに頼まれて」


「ええ、ええ。それで構いませんよ」


どこか嬉しそうに碧い瞳を細めるワルムに、勘違いされては困ると華子はすかさずいうが、この老人はにこにこしながら笑う。


ここでも絶対何か勘違いされているようで、紙袋をワルムに渡してサッサと退散する予定でいた華子は、結局丸め込まれて太郎の寝室の前まで連れて来られた。


「……えーとワルムさん。風邪とかうつっちゃうとあれでしょ?」


「大丈夫です。坊っちゃまは別に風邪を引いておられるわけではありませんから。きっと、お嬢さまが訪ねてこられたなら、元気になられますとも」


小6にして遠回しに断ろうと頑張る華子をよそに、好々爺こうこうやのワルムはにこにこ笑うばかりで、帰してくれる気はないらしい。


「それではごゆっくり…」


仕方なく華子はその扉を開けるのだった。


夕方だといってもまだ明るいのに、部屋は夜のように暗い。

まるでここだけ別世界のような雰囲気を醸し出して、歩ませるのをためらわせた。


寝室の中には大きな天蓋てんがい付きの寝台ベッドがポツンと鎮座している。他は横にサイドテーブルが一つで、モノはそれしかない。

寝室なのだからそれで十分なのだが、なんだか妙に寂しい感じがした。

部屋の暗さが相まって、余計にそう思ってしまうのかもしれない。


入り口近くで、立ち止まっていても仕方ないのでしぶしぶと寝台に近寄っていく。


(やっぱり、風邪なんじゃない…)


近づくにつれて聞こえてきたのは荒い呼吸音だ。覗けばやはり苦しそうに眉を寄せて眠る太郎が横になっている。

いつもの彫刻のような端整な顔は、褐色の肌でわかりづらいが、赤く火照っているように見えた。


(黙ってれば本当に天使だなぁ〜)


その全てが整った顔立ちは、この世のものであるのが嘘のようで、まつ毛の一本一本にしても、作りものめいたように美しい。

それはもはや一つの芸術品だ。


「ーー……ぎ」


夢にでもうなされているのか、太郎は苦しげに小さな声音で呟いた。

自然と耳を傾ければ、華子は驚いたように寝台わきから飛び退る。


(……っ、聞き間違い…?)


早鐘のように鳴り響く心臓のあたりを、強く服がくしゃくしゃになるほど握りしめた。


「…っ…さぎ、…うさぎ」


「っ!!」


やはり聞き間違いではないようで、華子の瞳は極限まで見開かれた。

まさか自分のことを呼んでいるとは思わなかったので尚更驚く。


(いったい、どんな夢見てるのか…)


本当は、彼に自分の名ではない[うさぎ]と呼ばれるのは嫌ではない。他の人とは違う特別な感じがするからだ。

たしかに、会えば嫌なことばかり言うし、からかっても来る。それが嫌だというのは本当で、太郎を嫌っているのも本当だ。

けれどそのまた逆もあるにはある。


あの日あの時確かに眠る少年は華子には天使に見えて、一目惚れだった。

夢でまで呼ばれたら、少しは期待してしまうではないか。


「…んだ、今日は花柄のパンツか」


「はいぃ?!」


前言撤回。

思わず膝のあたりを押さえて見て気づく。今日はスカートなんて履いていないことを。そもそも太郎に会うときは、華子はスカートを履かないようにしているのだ。


どぎまぎしながら華子は再び太郎に視線を戻す。


(なんだ、…ただの寝言)


太郎はやっぱり目は閉じている。

けれど心なしか、最初見た時よりも安らかな顔つきになっている気がした。


「ー…夢でまでそんなこと言うのはどうかしてるでしょ」


しかも今日の柄はまさにそれだ。


腹立ちさと、ある意味恐怖を覚えながら、病人を怒るわけにもいかず、華子はため息をこぼした。




「もうお帰りですか?」


部屋を後にすると、ワルムがにっこりと微笑んで聞いてきた。


「…眠ってたから、もう帰るねワルムさん」


「起こしてくださっても良かったのですよ」


「そう言うわけにはいかないでしょ」


体調の悪い人を無理やり起こすなんてできるわけがないし、そもそも起こしたくもない。

さっきの寝言で余計にそう思った。


「まあ、いいでしょう。…坊ちゃんは明日にでも元気なお姿をお見せできるでしょうから」


「そうだと良いね」


そんなことはありえないと、華子は思っている。あんなに体調が悪そうなのに、明日元気になるなんてありえないと。


けれど、ワルムのあの楽しげに言った予言は当たってしまった。


「うさぎ。今日は久しぶりにスカートなんだな」


絶対来ないと思っていたからこそのスカートだった。

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