授けられし人生

日崎アユム/丹羽夏子

第1話 事の発端

 窓の外から物音が聞こえた。

 彼は息を呑んで、色褪せた窓掛けの端をつまんで持ち上げた。

 内から外を覗くように見回す。

 外で瞳を輝かせていたのは野良猫だった。金色の小さな瞳と目が合う。

 猫が逃げ出す。胸を撫で下ろす。


 窓の外に彼が恐れているようなものはない。たとえば、兵士や警吏の姿など――とまで思ってから、彼は唇を引き結んだ。自分に恐怖心などない。来るならば来るがいい。自分は覚悟を決めて事を起こした。


「何かあったのかな」


 問い掛けられて屋内を振り向いた。


 朽ちかけ荒れ果てた部屋の中、青年が、壁にもたれた状態で床に直接座っている。


 青年は、落書きだらけの壁や硝子の破片だらけの床に相応しくない、上等な服を着ていた。ワイン色をしたビロードの上着には金のボタンがついている。革の長靴にも銀の飾りがついている。糊の効いたブラウスは、元は真っ白だったが、今は赤い水滴が襟に二滴ほどこびりついていた。


 窓際に立っている彼は、自分の服を見下ろした。

 一張羅だったがすべて木綿だ。右の膝にはつぎはぎが、左の膝には大きな穴があった。黄ばんだシャツはよれるほど洗っても色が落ちない。靴だけは鉄板入りの高価なものだ。元の勤め先である鉱山から持ち出して今も履き続けている。


 青年の顔を見る。

 柔らかそうな茶金の髪は短く整えられ、白い頬にはできものもあばたもなく、清潔そうに見えた。二重の目には青い瞳が埋まっている。なるほど女たちが騒ぐわけである。


 彼は窓を見た。ひびの入った窓硝子に、自分の顔が映る。

 ありふれた濃茶色の髪は伸び放題で、毛先だけが日に焼けて明るくなっている。奥二重の目もよくいる茶色い瞳だ。いつぞやの喧嘩でつけられた刃物傷が左の頬に残る。


 神の御許では人は皆平等だ、など、よくもいけしゃあしゃあと騙った奴がいたものだ。


「余裕そうだな」


 彼が言うと、青年は苦笑して「そんなことはないよ」と答えた。その苦笑さえ彼は気に入らなかった。苦々しさは滲んでいると言えども、まだ、笑みを形作れる。いったい何が彼にそんな余裕を持たせているのか。


「とりあえず、力では君に敵わないことは分かったし」


 青年はそう言ったが、彼はそれも自分自身が巡らせた計略が実った上での勝利であることを分かっていたので、素直に喜べなかった。


 偶然に偶然が重なってのことだ。


 鉱山を逃げ出し、新たな職を求めて都に辿り着いたのは、もう、いつのことだったか。着替えもなければ住まいもない彼にろくな職はなかった。


 ごみ拾いで稼いだ日銭を貯め、ようやく買った場末の娼婦が、かびと体臭で臭う布団の上で教えてくれた。

 もうすぐパレードが行なわれる。


 一つ前の客が、頭の悪い売春婦のためにわざわざ教えてやるという態度で、彼女に新聞を読ませたのだという。

 国王陛下の一人娘である王女と、国王陛下の片腕である宰相閣下の長男が、このたびめでたく婚約した、との内容だったそうだ。

 意地の悪い男は、春をひさいで生きる娼婦と美しい姫君の身の上を比べて嗤うためにその記事を読ませたつもりだったようだが、とうの娼婦は、婚約を記念して都の大通りでパレードを行なうという部分の方を克明に覚えた。

 都の大通りで、国を挙げてのパレードが行なわれる。王女殿下と、その伴侶として選ばれた宰相の御曹司が、華やかな礼装に身を包んだ兵士たちに連れられ、街を練り歩く。


 娼婦は自分と王女を同じ人間だとは思っていなかったようで、比較され侮辱されたことに気づいていなかったらしい。

 彼がそれを指摘し、彼女をたしなめると、彼女はそんな彼のことを嗤った。あたいとお姫様も違う生き物だし、あんたと御曹司様も違う生き物だよ、と彼女は嘲笑った。


 言われなくても分かっていた。けれど彼の心はまだそこまで麻痺していなかった。

 彼は自分で自分と御曹司を比較してしまった。

 悔しかった。許しがたかった。

 同じ国で同じ年に生まれた男が、食べるものや着るものに困ることなく、国中に祝福されて結婚しようとしている。否、現在巷を賑わせている婚約発表だけでなく、生まれた時から死ぬ時まで、彼はおそらく一生周囲に温かく見守られて過ごすだろう。

 絶対に許さない。


 パレードに潜り込むのは思いの外簡単だった。護衛をしていた兵士たちもが浮足立っていて、いかにも乞食といった風情の彼に情けをかけ、王の恩寵あれ、神の祝福あれ、と言って朗らかな対応をしたのだ。


 王女は馬車の中にいて、御曹司は馬車のすぐ傍で白馬にまたがっていた。

 彼はその白馬に刃物を突き立てた。

 兵士たちに守られているという安心ゆえか、自分たちを祝福しない人間などいないという慢心ゆえか、御曹司は丸腰だった。しかも馬は混乱し暴れ回っていて制御できない。彼は御曹司を暴れる馬からむりやり引きずり下ろした。


 当然街中が大騒ぎになったし、兵士たちも血相を変えてサーベルを抜き二人を取り囲んだ。

 けれど彼は小銃をふところに隠し持っていた。幼い頃からの手癖の良さを発揮して、鉱山を取り仕切っていた連中からくすねてきていたのだ。ずっとここぞという時に使おうと温めてきたのである。

 今こそ使うべきだと、御曹司のこめかみに銃口を突きつけた。そして、返してほしければ百万フランを用意しろ、と吐き捨て、御曹司を抱えたまま逃げ出した。


 彼のねぐらである廃墟に辿り着いた時、御曹司本人と取っ組み合いになった。宮殿のような豪邸で育った箱入り息子だと油断をしていたが、御曹司は護身術として格闘術も身につけていたのだ。あわやこちらが絞め殺されるかと思った。

 しかし人生の大半を殺伐とした世界で殴り合って生きてきた彼の経験が御曹司の腕力をわずかに上回った。


 特に拘束しているわけではない。逃げようとすれば撃つとは一応言ってあるものの、縛っているわけでもなければ、常に見張っているわけでもなかった。

 だが御曹司は変わらず床に座り込んでいる。怪我も、先ほど殴り倒した時に切れた唇の端の血すらすでに乾いているほどで、動けないはずはない。


「ねえ」


 御曹司が問い掛ける。彼は苛立ちを隠さぬ声で「何だよ」と答えた。


「便所ならさっき行っただろ」

「違うよ。君と話をしたくて」

「オレを懐柔しようってのか」

「それも違うよ」


 御曹司は「ここで何時間も男二人で黙って過ごすんだと思うと」と苦笑した。


「何か喋っていた方が、気が紛れる、と思ったんだ」


 人質のくせに悠長な、と思い、彼は無視した。とは言え確かにどうせ一晩をともに過ごすのならば王女の方が良かった。御曹司はいくら美男と言えども男性だ、彼にそちらの趣味はない。



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