04. 蝉の声

「二番目……」

 続いて呟いたのはその言葉だった。優陽が言ったことの欠片を拾い、確かめて、私は一度、目を閉じる。再び目を開けるまでの時間は一秒も無かった。ただの瞬きのような短い時間の暗闇から、小さな小さな安堵を見付け出し、引き寄せた。

 すぐに、その場から担任教師の携帯へ電話を掛ける。緊急連絡用だからと通知されていたもので、一生使うことはないと思っていたが、今回は助かった。下手にこの場を離れて、面倒を背負いたくはない。告げたことは簡潔だった。『優陽が階段から落ちた。意識が無い。どうしたらいい』。それ以上は決して自ら動かない。間違いなく賢明だろう。幸い職員室に居たらしい担任は、すぐに事態を他の教員にも告げて、保険医を含め数人の教員達と共に駆け付けてくれた。

 その後のことは、全て教員達に任せた。私が責任を持ってすべきことなど、これだけの大人が居て、何も無かった。私は冷静だったと思う。ただ、いくらか焦ってはいた。そのせいで微かに揺れる声だったり、慌て気味の所作だったりを、特別隠すつもりもなかった。一つ目のそれを自覚した時、と思ったからだ。一人、女性教員が私を抱き締めるようにしながら、ずっと傍に立っていた。彼女の手は私より余程震えていて、可笑しなことのように思えてならない。

 たった十数分で、優陽は救急車で運ばれていった。優陽が横たわっていたことを教えるみたいに残っていた血痕も、教員の手で処理され、無かったもののようにいつもの廊下の色に戻った。

 大人達から「何があった」と聞かれたのは、それらの事態が全て落ち着いてからだ。優陽が落ちたあの時、あの場に居た者が存在したなら、私の答えを笑っただろうか。

「一番上の踊り場で話していて、優陽は階段を背にしてて、私は屋上の扉を背にしてました。あっと思った時には遅くて、そのまま優陽が落ちて」

 嘘は一つも無い。言っていないことがあるだけ。異様に静かな職員室の中、周りの大人達は息を潜めて私の声を聞いている。

「本庄は、ホームルームに居なかったようだが」

 言いにくそうに、担任教員がそう口にした。私がさぼったのはこれが初めてだったせいだろうか、傍に居た他の教員達は顔を合わせ、驚いた様子で私を食い入るように見つめている。私はいずれの視線にも応えず、膝の上に乗せた自分の手を意味も無く見つめながら答えた。

「嫌なことがあって、教室に居たくなくて、屋上に居ました。ホームルームが終わってから、優陽が帰ろうと言って、迎えに来てくれました」

「……そうか」

 教員らは誰もが何かを言いたそうな顔をしているのに、何も言おうとしてこない。少しだけ喉が渇いた気がして、深呼吸をする。それをどう受け取ったか知らないが、先程私を抱き締めていた女性教員が、私の背を優しく上下に撫でた。

「彼女もショックを受けている様子ですし、もうこの辺りにしませんか」

 その提案に、他の教員達は「ああ」とか「ううん」とか、意味を成さない声を零していて、それが同意なのか逆なのかも定かではない。けれど、誰も強く反対する様子が無いままに、私は解放され、教員の一人に車で家まで送ってもらった。最終バスはまだあったけれど、『ショックを受けている様子』である女生徒を、じゃあ帰れと一人放り出せなかったのだろう。立派なことだと思うし、色々気を遣わなくてはならなくて大変だなとも思う。その教員の車の中、優陽のことを変に問い質されることは無かった。

 帰宅した時、私の母も、優陽のお母さんも、家の外に出ていた。優陽のお母さんは、学校から連絡を受けて、病院へ向かう直前だったようだ。私に気付くと、彼女は車に乗るはずだった足を迷わず方向転換して駆け寄ってきて、私を抱き締めた。

「大丈夫よ、優陽はちょっと間抜けだけど、丈夫に産んだ子なんだから。心配いらないからね」

 目に薄っすらと涙を浮かべながらも、そう言って気丈に微笑みかけてくれた。誰が優陽を落としたのかも、何も知らないで。そして慌て気味に車で出て行くのを、自分の母と一緒に見送った。


 結論から言えば、優陽は運ばれる際にちゃんと生きていたし、病院に運ばれてからも死ぬことはなかった。まだ意識は戻らないけれど、命に別状は無いと聞いたのが、その日の夜のことだった。

 翌日から、周りは静かだったが、同時に騒がしかった。私と優陽の話で持ちきりだったのに、それらを私に直接伝える、または何かを聞き出そうとしてくる者はほとんど居ない。無遠慮と思っていたクラスメイトだったが、今回に関してはそれなりに気を遣っているらしい。幾らかズレているけれど。

「やっぱり元気ないよね」

「あんなにいつも一緒だったから」

「落ち込むのも無理はないよ」

「目の前で見ちゃったんだから、ショックなのは当然」

「優陽も心配だけど、茜も心配」

 そこかしこから聞こえてくる言葉は、まるで蝉の鳴き声のようだと思った。夏が深まれば何処へ移動しようと聞こえてくる、蝉の声。どうせ家に帰ったって、聞こえてくるのだろう。けれど煩いと思うのは最初だけで、すぐに慣れて気にならなくなった。生活音の延長だ。

「茜がすぐに見付けたから、助かったらしいよ」

 ただ、あまりに下手な鳴き声を拾ってしまうと、笑ってしまいそうになる。だから私が落としたんだってば。……勿論、そんな訂正をするつもりもない。

 保健室の前に立つと、蝉のような生徒達の声は少なくなっていた。ノックをすれば控え目に保険医が返事をし、中に入る。私を見て保険医が微笑むと、彼女の目尻に深い皺が刻まれた。そういえばどれくらいの年齢なのだろう。気にしたことは無いが、私の母と変わらないか、少し歳上にも見える。今までほとんど面と向かって話すような機会も無かったのに、立て続けに二度も世話になるとは思わない。世話になったのはどちらも優陽ではあるが、どちらも、優陽だった。

「呼び出してごめんなさいね、聞きたいことがあって」

 座るように促された丸椅子へと腰掛けるが、彼女の言葉に「はい」とも「いいえ」とも返事をしなかった。呼び出されたことを不思議と思っても不快と思ったわけではなかったし、その点は「いいえ」だったと思う。しかし続いた言葉に何と答えたらいいか咄嗟に思い付かなかったので黙った。平たく言えば、返事を考えるのが面倒になっただけだ。保険医は、それを特別気にする様子は無い。おそらくそんな風に考えていることなど微塵も予測していないのだろう。

「桂木さんのことだけれどね」

 あるいは、今から話そうとしていることに、意識が集中していただけか。彼女は私を直視しようとせず、机の上を見つめている。そこには何も置かれていない。机の端に寄せられたノートやファイル、飲みかけのコーヒーは、彼女の視界には無い。逆に私は、保険医の横顔をじっと見つめていた。少しの迷いと躊躇いを持って、視線が私へとゆっくり移動してくる様子を、観察した。

「胸元のボタンがね、取れていたの。階段の見つかったわ」

 いつからそれを握っていたのか、彼女が手を反すと、ボタンが一つ乗っていた。それが誰のものかなんて、正直分からない。私のシャツにも同じボタンは使われているし、この学校の生徒なら全員が同じボタンを落とす可能性がある。それでもあの日、あの時。優陽のシャツからボタンが一つ消え、保険医が見つけたボタン以外、同じものは転がっていなかったのだろう。私はボタンを見つめ、のんびりと瞬きをした。

「本庄さん、……あなた、もしかして」

 表情は変えなかったと思う。私はいつもと何も変わらない無表情だった。ただそれを、保険医からどう見えたかは知らない。私はよく知っているのだ。事実は、どうしてか一つだけなのに、見る人によって形を変えることを。優陽と並べられ続けた日々で、誰よりも知っている。

「あなた、――咄嗟に掴んだのね、あの子が落ちると思った時に」

「でも、私は……支えきれなくて」

 唇を噛み、スカートを握り締めた。それは優陽の胸倉を掴み上げていたシャツの感触とは似て非なるものだったが、あの日のように、じんじんと腕が痺れるような気がした。――何一つ、私は嘘を言っていない。この表情が、行動が、嘘であるわけでもない。悔しい気持ちは私の胸に確かに存在した。私は優陽を落とした。それは間違いない。けれどあれは、優陽にさせられた。優陽の望む形へと、誘導されたのだ。考えるほど、胸の内にまるで炎が噴き出してくるかのように悔しかった。しかしその『悔しさ』が、保険医には知らない。

 両腕を伸ばし、胸の中に私を抱き込んだ保険医は、震えていた。

「あなたのせいじゃないわ。あなたのせいじゃない」

 囁かれた言葉に、私の肩は震えた。握っていたスカートを、更に強く握り締め、深く歯を食いしばった。そんな行動の全てを誤認した彼女は、幾つもの優しい言葉で、私を励ました。


 保健室から解放された私は、いつもと違い、一人きりの帰路に就く。私がどう感じていようとも、帰り道に一人だったことは一度も無い。優陽のお母さんが、優陽のこと「丈夫に産んだ」と言っただけあって、優陽が風邪を引いて寝込んだという記憶は無かった。私も無かったから、高校へ上がってから二人で登下校しなかった日は一日も無く、今日が初めてだった。登校時は色々考えていて気付かなかったけれど、蝉の声に慣れてしまった帰り道では、一人で居ることは新鮮に思う。

 当たり前に隣を空けて歩く自分。当たり前に隣を空けて座る自分。癖のように染み込んでいる優陽の気配に、ふつりと胸の奥に苛立ちが湧いては、今は居ないのだからと落ち着かせる。その繰り返し。その中で、優陽の言葉を考えていた。隣に誰も居ないことは、私に静かな思考を許した。だから『二番目』という言葉を、今までで最も冷静な状態で、考えていた。

 あの日、横たわった優陽を前にして、私は、負けたのだと思った。やられたと思った。優陽を平手打ちしてしまった日よりも酷い、次の無い、取り返すことも出来ない敗北なのだと思った。もう何も出来ないと脱力した。

 そこで思考が止まらなかったのは幸いだ。最後の言葉。優陽が言った『二番目』が、『優陽がかつて何かを諦めている』のだということを私に教えた。優陽には、『一番目』があったはずだ。それを、何処かで諦めている。つまり私が知らないだけで、優陽は私よりも先に何処かで敗北している。もしもそれが私に関する物事なのだとしたら、――私は未だ負けていない。少なくともここで優陽を死なせなければ、優陽の望みは失敗になるに違いない。その確信があったから、私は冷静に、優陽の命を助ける為の最善と思われる行動をした。『永遠の敗北』など、決して、享受できるものではないのだから。

「一番目……」

 その音を唇で確かめながら、遠くに見える赤い陽を見つめる。視線の先、何処か知らない西の地域ではもう梅雨は明けたのだろうか。遠くに浮かんでいる並雲の隙間から、太陽が見え隠れしていた。


* * *


 病室で目覚めて最初に、「クソが」と思った。

 頭の近くで何かの機械がヴヴヴと低い音を絶えず出していて、蝉の声みたいで煩わしい。身体が元気よく動かせる状態であれば引き倒してやったかもしれないくらいには、苛立っていた。

 助かってしまった。受け身も何も取らなかったはずなのに。むしろ両手を広げて全てに感謝するつもりで頭から落ちたのに、死なないとか丈夫かよ。この身体に産んだ親を殺したいくらい憎く思ったのは、これが初めてのことだ。茜と同じ身長、身体能力、成績。反転位置にあるホクロ。持って生まれた全てに感謝していたのに、今回ばかりは心底憎かった。最後の最後でこんな風に足を引っ張られてしまうとは。強く吐き出した溜息。身体は、何処も痛まなかった。

 目を覚ました私を見てホッとする主治医、担当看護師、その他治療に関わる全ての人達に憎しみだけを抱いていた。のんびりと笑みを湛えることが出来たのは日頃の振る舞いのお陰だ。彼らに怒りをぶつけても大した不都合は無いように思えたが、脳か精神でもいかれたと思われて入院が長引くのはごめんだった。

「茜ちゃんが、落ち込んでいたわよ、目の前であんたが落ちるのを見て、随分ショックを受けてる。学校の先生が言うにはね、前よりもずっと口数が減ってしまったんだって」

「そっかぁ」

「退院したら、出来るだけ早く顔を見せてあげるのよ」

「うん」

 母の言葉に簡単に答えながら、口元を引き締める。ここで腹を抱えて笑ったら正気を疑われるんだろうな。笑いたいんだけど。

 茜からすれば、『退院してすぐに顔見せに来た私』なんてただの嫌がらせでしかないだろう。ちらりと冷たい視線を送りながら、煩わしそうに目を細めるに違いない。

 それに私には、母や学校の先生が思う形で、茜が真っ当に落ち込んでいるとは思えなかった。多少は気にしているだろうし、彼女の心に何かが残っただろうとは思うけれど、茜はそんなことが日常生活へ影響する人じゃない。変わったのはおそらく周りだ。話し掛けるのを減らしたから、彼女の口数が減っている。元々、茜は話し掛けられないと話さない。溺愛している癖にそんなことにすら気付いていないなんて、うちの親の愛情も大したもんじゃないなと思った。

「退院、いつだろ」

「……すぐよ、次の手術が終わったら、すぐ」

 答える母の顔は少し曇っていた。無理やり笑ったみたいな不器用な笑顔に、何も知らない顔で微笑み返す。明日また手術をする。その経過が良ければ、母が言うように退院はすぐで、今後は通院での治療になるそうだ。「すぐ」とは何度も説明されているが、それが何月何日なのかは、誰も教えてくれない。

「早く顔が見たいな。嫌な顔でも、無表情でも、何でもいい」

 母が部屋から出て行った後、一人の部屋で小さく呟く。けれど、会えないのは入院のせいではなく、自分のせいだ。茜を含め、見舞いは全て断ってもらったから。私がそれを頼んだら、母が驚いた顔をしたのは一瞬で、次の瞬間には物知り顔で「そうね、その方がいいわね、今は」と言った。何のことやら。でも私の願いが叶うならどう勘違いしてもらっても良かったから、それ以上は、何も言わない。

 済んだことは仕方がない。私は上手くやったと思う、思った通りに事が運んだ。それでも死ねなかった。殺してもらえなかった。あんなに上手く行ったのに。だから、私には『三番目の幸せ』が必要になった。それについて考えがまとまるまで、茜に会うわけにはいかない。茜以外の誰かなんてそもそも邪魔。だから見舞いは全てまとめて拒否した。

 さてどうしようか。さあ何をしようか。

 生き残った私は負けた。また負けた。だけど絶対に引かない。私は幸せを諦めない。茜を諦めるつもりはない。彼女は私の全て。人生の全て。結論付ける為に、生涯彼女から離れるつもりはない。

 死んでくれれば良かったのにって、この先、茜はきっと思うんだろうな。でも、それでいい。もしも茜がそう思うなら、今度こそ間違いない形で、殺してくれたらいいんだから。

 明日の手術のことなんて、どうでもいいくらいに、頭に無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る