8.劇場の怪人

 三人は、町外れにある廃業した劇場の前にやってきた。都会のど真ん中にあるような大きなものではなく、寂れた映画館風の建物で、古びて傾いた看板には《劇場・ポラリス》と名が打ってある。


 今から三十年前に、不景気の煽りを受けて人が入らなくなり、経営破綻の末につぶれた小さな劇場だ。かつてはここで売り出し中の劇団や、駆け出しの役者たちがまばゆいスポットライト浴び、休日には多くの客が入っていたのだろうと思うと、今はこうして誰も立ち入らず、ただ寂れた風に晒されているのが、なんだか可哀そうに思えてならなかった。


 辺りにはポツポツと民家が点在しているが、誰一人として出歩く姿がないせいか、どこかもの寂し気で、夕暮れのノスタルジックな雰囲気も、この場では成りを変えて、些か素気無すげなさを感じさせる。

 まるで、人の寄り付かなくなった薄気味悪い廃劇場を遠巻きに眺めるかのような感じで、三人の周りだけがやけにがらんとしていた。


 アルカード曰く、この廃劇場の中に棲みついた変わり者が、今回の一件に有力な情報を持っているかもしれないということなのだが……。


「本当にこんなところに人がいるんですか?」


 アシュレイが疑わしそうにレオンに訊ねるが、彼もアルカードの言うについては何も知らなかった。


 途中で立ち寄ったケーキ屋の紙袋を下げたアルカードが、頭上に《?》を浮かべた二人を他所に、意気揚々と壊れた扉を潜って中に入る。

 訳も分からぬまま顔を見合わせたレオンたちも、ひとまずそれに続いた。


 一歩中へ入ると、長らく人の出入りがなかった劇場内の空気は、ひどく埃っぽかった。息を吸うたびに襲いくる喉がカサカサする不快感に、アシュレイは乾いた咳を漏らす。

 もちろん電気など通っていないので、中は薄暗い。入口と非常口以外に窓や扉は見当たらず、外の光は一切入ってこない。

 ロビーの正面には二階へ続く階段が伸び、登った先には黒い両開きの扉があった。この先にあるのは、劇場がまだ営業していた時代、数々の劇団が観客を笑わせ、時に泣かせ、拍手喝采に包まれたカーテンコールに、役者も観客も涙したステージだ。


 三人は、元々はアイボリー色だったと思われるの絨毯の上を、埃を立てないように静かに歩きながら、中へ進んだ。アシュレイは、ブーツの底が埃で滑るような感覚に思わず眉間に皺を寄せる。

 薄暗い視界の真ん中に、レオンの白いジャケットの背中がぼんやりと浮かんで見え、それを頼りに歩を進める。


 辺りは靴音も響かぬ静寂に包まれ、度を越えた無音は耳鳴りを引き起こす。

 まるで死の世界に向かって歩いているような気分だった。死を凌駕した吸血鬼を探し出すための、恐怖の旅が始まっていたのだ。


 いくらか時間をかけて階段を登りきると、アシュレイは首筋に浮かんだ汗の存在に気が付き、ニットの胸元をぱたつかせた。暑いわけではない。冷や汗だ。空気は乾燥しているはずなのに、かいた汗はいっかな乾かず、肌に張り付く布の不快感に、自棄やけを起こして腕をまくる。


 先頭のアルカードが劇場の扉に手をかけると、ギィィィィィィ……と傷んだ蝶番ちょうつがいが押し殺した悲鳴のような音を響かせた。


 中を覗いてみると、その先はゾッとするほどの深い闇に塗り潰されていた。いくら目を凝らせど、眼前を覆う闇の奥に、それ以外の姿形すがたかたちなどありはしない。

 ……されど、ステージの方へ向かってなだらかに下ってゆく階段を、アシュレイは臆面もなくスタスタと降りて行った。まるで舞台の演出で、客席の真ん中を通ってステージへと向かう女優のような堂々とした足取りに、夜目の利く吸血鬼アルカードは思わず目を剥く。


「アシュレイ、気を付けろ。あまり急ぐと転ぶぞ」


 言われてアシュレイはハッとしたように立ち止まり、アルカードを振り返って「すみません」と苦笑いした。

 三人は客席の最前列まで降りてくると、ここに住んでいるという謎の怪人物の姿を探した。


「おい、どこにいるんだよ。誰もいないじゃないか」

 辺りを見回したレオンが避難がましく言う。


「アレ、おかしいな。いつもはこの辺に座って菓子を食っているんだが。……見当たらないな。おい、エリちゃん、おれだ、アルカードだ」


 しかし、アルカードの呼びかけに誰一人として反応を示さないので、レオンはため息交じりに「留守中か?」と言った。


「や、そんな筈は……。あいつは引き籠りだから、こんな昼間に外を出歩くことはない――あてッ」

「おっと」

「わあ!」

「いぎゃ!」


 怪訝そうに言い、再び歩き出そうと足を差し出したアルカードが急に間抜けな声を出したかと思うや、それに続くようにしてレオン、アシュレイが驚いたような悲鳴を上げる。


「びっくりした! 今、何かに躓いたようです」

「ああ、僕もだ。何かを踏んでしまった。それと、なにかおかしな声も聞こえたぞ」


 その時であった。三人の足元で、何か黒いものがもぞもぞと蠢く気配がした。

 真冬の朝に、ベッドの中で羽毛布団を頭まですっぽり被るときのようなという音がして、それに混ざるように眠たげな声がぶつぶつと文句を垂れる。


「痛いなぁ。何するんだよ、背骨が折れたかと思ったぞぉ」


 ようやく慣れてきた闇の中、三人は足元に向かって目を凝らした。人の形をした何かがむくりと起き上がったのがぼんやりと見え、その不気味な様子に、アシュレイは思わず「ひい」と息を呑む。


「なんだ、そんなところにいたのか、エリ。何してんだ。腹でも空かして行き倒れたか?」


 呆れたようにアルカードが言う。この、床の上で死体のようにうつ伏せで寝転んでいた人物こそが、彼が言っていた《そう言った方面に明るい奴》のようだ。


「違うさ。舞台の上で昼寝をしていたんだけど、おかしいな、いつの間にこんなところまで転がってきてしまったのだろうか」


 なんとも能天気な声である。

 アルカードは今になって、タキシードのポケットにマッチを忍ばせていたのを思い出し、早速一本擦ると、暗闇の中に束の間光が生まれた。


「なんだ、灯りがあったんじゃないか。早く出せよな」

 レオンが皮肉っぽく言う。


 赤い光の中に浮かび上がった姿は、黒目がちな瞳を眠たげにしょぼしょぼさせ、肩につかないくらいのブルネットの髪に片手を突っ込んで、くしゃくしゃとかき回している。


「おや、その阿保みたいな高貴なお顔は、アルカード坊やか。今日は一体何の用?」

「褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」


 穏やかに垂れ下がった眉と、青白く痩せた頬のせいでやや病弱そうな印象を受けたが、客人に対する無礼な物言いができるならば、彼の健康状態に何ら問題はないのだろう。

 男とも女ともつかぬ中性的な容姿をしていながらも、その声はなかなかどうして低音で、耳に心地の良い音をしている。

 歳の頃は成人を目前にした十代後半と言ったところか……いや、その実かなり歳を重ねているのかもしれない。見ただけで彼の年齢をはかり知ることはできなかった。


「お、今日は君だけじゃなかったのか。君の傍でぼくを不審げに眺めている二人を是非とも紹介してくれよ。友達なんだろ? ああ、可愛い女の子もいる」


 エリは、傍にいたレオンとアシュレイを交互に見ながら、はしゃいだように言った。アルカードは相手のテンションに押され気味になりながら、


「彼はレオン。おれの雇い主だ。こっちの少女は仕事関係のお客で、アシュレイさん。今日ここへ来たのは、彼女から持ち込まれた依頼に関することで、お前に聞きたいことがあったからなんだ。そら、土産だ。お前が好きなやつ」


 と、連れの紹介をした後にケーキ屋の袋を手渡すと、エリはウトウトしていた両眼をカッと見開き、


「ああ! まさかその袋は!」

 と、紙袋に飛びつく。

 プレゼントを貰った子どものように、ビリビリと包装紙を引き裂く彼の目は、期待と歓喜にきらきらと煌めいていて、マッチの炎など必要ないのではないかと思われた。


「やっぱり! ケーキ屋パラッツォのマカロンだね。ぼくの趣味をよくわかっているじゃないか、さすが」


 エリは、マカロンの詰まった箱を大事そうに抱えて立ち上がると、

「さ、お茶を淹れよう。可愛い女の子も来てくれたことだし、とっておきの茶葉を開けようか。君は甘い紅茶は好きかい? キャラメルの味がするんだ。よかったら飲んでみてよ」


 エリは喜々としてアシュレイの手を取り、薄暗いステージの方へ歩き出した。彼女はよく回るエリの口に声を挟む間も与えられず、ただ成すがまま後に続く。

 アルカードたちもそれにならい、ステージ脇の階段を登って、舞台中央に小道具よろしく置いてあるテーブルセットに腰かけると、エリだけはマカロンを持って袖に引っ込んでいった。

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