2.依頼人の少女

 二〇XX年。

 文明の発達は尚も留まることを知らず、人々の生活は日に日に豊かになるばかりである。都会の夜には光が溢れ、陽光射す真昼のように明るい。毎夜訪れる暗闇を恐れた人間たちは、夜の町を光で溢れさせる代わりに、地上から星座を眺めるロマンを犠牲にして、ふと夜空を見上げては、そこにあるはずの星々の姿を想像した。


 だが一方で、人間の築く歴史の裏で暗躍していた人ならざる者たちの安寧は、日一日と切り崩される運命にあった。


 遥か昔、の地に住まう人々は、宵闇よいやみの中で手を招く人ならざる者の影に――夜の子ら、吸血鬼に――怯えていた。

 人の生き血を啜り、空になった死体を蘇らせ眷属として迎え入れる。

 強靭な肉体と優れた身体能力を有し、この世のものとは思えない美貌で人々を惑わせる。


 そういった吸血鬼伝説の多くはルーマニアやヨーロッパ全土に伝わっており、妊娠中の母親が吸血鬼に睨まれると、その子どもは吸血鬼になる。ギリシャ地域の言い伝えでは、青い目をした者は、死後に吸血鬼になると言われている。


 他にも多くの伝承があり、現代でも数々の映画作品や小説に登場したりと、科学の発達した現代において、吸血鬼は人間たちの興味を惹きつけてやまない。


 だが、彼らの存在は伝承に留まらず。

 伝説でも、フィクションでもなく、吸血鬼は存在た。彼らは、進みゆく文明を原初から今日に至る現代まで、間近で見てきた観測者である。

 彼らは永き時を、憎き太陽の光から隠れて生きながらえた。

 人との争いを避け、憂き身を寒々とした夜陰やいんにひた隠し、弱者にして野蛮なる人間たちの目から巧みに逃れ、彼らは今も、夜の中で赤き双眸を静かに光らせているのだ。


 今から一世紀程前、吸血鬼という存在が人間社会に甚大な影響を与えた年があった。ある一人の吸血鬼が、祖国ルーマニアで多くの人間を虐殺したのだ。

 老若男女、約三週間に亘って、計千を超える人間が、奴の手によって殺された。

 心のない獣のように血を求め、己の手の中で絶命する人間の断末魔の叫びに酔いしれた。

 ある者は全身の血を吸い尽くされ、またある者は己の血に染まった真っ赤な石畳の上で恐怖に顔を引きつらせて絶息していた。他にも――文面に起こすにはあまりにもショッキングな殺され方をした者ばかり。


 だが、そんな悪魔のような所業は、事の始まりから三週間目を迎えたある夜、突然終わりを告げた。

 悪逆非道の限りを尽くしたその吸血鬼は、幾度の夜を暴れまわった挙句、人間たちに恐れられた夜から忽然と姿を消し、人々の歴史からぱったりと姿を眩ませてしまったのである。彼の身に何が起こったのか、どうしていきなり姿を消してしまったのかは定かではない。奴はいきなり現れて、いきなりいなくなった。

 

 それからというもの、吸血鬼による人間襲撃事件は検挙されること無く、平穏な夜を重ねながら、人々の時は流れたのだった。


        ◆◇◆


「おい、なんだこれは」


 同居人の不機嫌気な声に顔を上げたアルカード・カンタレラは、鼻歌交じりに食器を拭く手を止め、数回瞬きを繰り返したのちに小首を傾げた。


「これ、とは?」

「この妙な香りのことだ。チューインガムみたいな匂いがする」

「ガム? ……ああ、食器用洗剤のことか。安かったから買ったんだ。今まで使ってたのが切れたからな。それがどうかしたか?」

「馬鹿かお前。こんな甘ったるい匂いが付いた皿で肉とか野菜とか食べられるかよ。食欲失せるだろうが」

「うるせえな。お前が買いに行かせたくせに文句言うなよ」


 心底軽蔑するような目でネチネチと小言を垂れる彼に、アルカードはうんざりして言い返した。


「そもそも、洗剤の匂いごときがいつまでも皿に残ってるわけないだろ。放っておけばそのうち消えるよ」

「洗った直後のカップでコーヒーでも飲んでみろ。折角、高い豆を買っているのに台無しだろ」


 小うるさい男だ。アルカードは適当に謝罪の言葉を繰り返しながら片付けを終えると、肩を竦めてカウンターキッチンを出た。


 この口うるさい男――同居人兼雇い主(給与なし)の名は、レオン・シェダール。

 彼は二年前にプロの吸血鬼ハンターの資格を手に入れたばかりの新米ハンターである。

 だが、その腕前のほどは、新米と侮るなかれ。彼は、一八五〇年代に活躍した伝説の吸血鬼ハンター、エドアルド・シェダールを初代とする一族の出で、エドアルドの再来、また、エドアルドの生まれ変わりとまで謳われた稀代の天才である。

 学生時代からすでにその頭角を現し、首席で入学し、その成績は他者の追随を許さぬまま卒業した。要するに、入学はじめから卒業さいごまでこの男は一番だったのだ。


 そして、そんな彼の傍に身を置いている彼、アルカード・カンタレラはである。

 狩る者と狩られる者。なぜその二人が生活を共にしているかと言うと、事の始まりは今から二年前まで遡る。その日は、レオン・シェダールの、吸血鬼ハンターのプロテストの日である。

 その夜、レオンは複数の少女殺しの犯人である吸血鬼、エディ・ソワーズ討伐の任務にあたっていた。

 エディ・ソワーズは仲間を集い、町外れにある廃城で夜な夜な夜会を開いていた。そこへ客人として忍び込んだレオンと、夜会に招待された父の代理として参加していたアルカードとが、奇妙な出会いを果たし、結果、共闘とも言える形でレオンはエディ討伐を華麗に遂行した。


 その出会い以来、アルカードはレオンの傍について回り、うっとおしがったレオンが「僕の周りをうろつく暇があるなら、仕事の手伝いの一つでもしてもらおうか」と、家政婦代わりに雇っているのだ。

 雇っているといっても、アルカードに対して給与が発生しているわけでもなく、実質ただ働きでこき使われているに過ぎないのだが。


 いくら人々に恐れられる吸血鬼とはいえ、家に置いてもらっている身分なので、割に合わぬ仕事内容に文句を言うつもりはなかった。なかなかどうして、真面目な人となりである。

 長い吸血鬼人生に暇を持て余し、この生活の中でそれが少しでも紛れるなら、それだけで儲けもんだ、と実に無欲なことをのたまうのをいいことに、レオンは面倒なことを何でもかんでも彼に押し付けるのである。


 けれど、今のように些細なことでいちいち文句を言われるのは、アルカードも決していい気がしない。いささか無頓着なところのある吸血鬼も、レオンに意地悪してやろうと思ってやっていることではないのだから、たかだか洗剤の香りが気に入らないくらいのことで一々目くじらを立てないでくれよ、と心の中でため息をつく。


「悪かったよ。今のが無くなったら、別のを買ってくる。まだ残ってンのに捨てるのは勿体ないだろ?」


 アルカードは、胸に「mama」と刺繍が入った黄色と白のチェック柄のエプロンを外しながら言った。下に着た大ぶりのフリルの付いたシャツが現れると、高貴な服に身を包んだ気高き吸血鬼像にぴったりな立ち姿だが、そんな彼が商店街のセールで購入した「mama」エプロンをしてキッチンに立つ姿は、滑稽こっけいというよりも些か微笑ましいとも言えた。

 昼食の後片づけをしている間、来客用のソファーの背もたれに引っ掛けておいたタキシードと黒マントを羽織れば、誰が見ても正統な吸血鬼の姿。


 人間が世界を牛耳る現代社会で、アルカード・カンタレラは人類の敵たる存在を誇示しておりながらも、その正体は、相棒レオン・シェダールの助手として、人々にあだなす同胞ヴァンパイア狩りに手を貸しているのだ。


 その時、玄関先で来客を告げるベルが鳴った。


「おや、誰か来たようだぜ」

 どっとソファーに腰を下ろしたアルカードの背後を通って、レオンが玄関へ急ぐ。革靴の底が、敷き詰めた絨毯の上を踏み鳴らす音が高く響く。


「はい」


 玄関扉を開けたレオンの前に現れたのは、一人の少女だった。活発そうな印象を抱かせる八重歯に、すらりとした健康的な体型、若々しくしなやかな身体つきは、体を動かすのが好きな爽やかな少年風といった容姿とでも言えばよいのか。細身の青いデニムパンツにキャメル色のニットを来た爽やかな見た目は、若い少女たちの間で「王子様」とでも呼ばれていそうな風貌の彼女にとてもよく似合っていた。

 色の濃いまつ毛に縁どられたアーモンド形の目には、緊張と、普段の彼女のフレンドリーな眼差しがない交ぜになって、対応に出たレオンを見上げていた。


 少女は体育会系の運動部がするみたいなちゃきちゃきとしたお辞儀をして、「こんにちは。昨日、お電話させていただいた、アシュレイ・クレスウェルです」と、聞き取りやすい声で言った。


 昨日、夕暮れ色に町が染まる時分、レオンの卓上で一本の電話が鳴り響いた。その電話の相手こそ、今目の前にいるアシュレイ少女である。

 携帯電話の普及率が年代問わず急上昇を遂げた昨今、仕事道具を広げた作業机の上の固定電話が鳴るときは十中八九が仕事の電話である。


 つい五日ほど前、依頼人直々の指名でヨーロッパの南端、スペインでの吸血鬼退治を見事成し遂げて帰ってきたレオンは、座り心地の良い革張りのキャスターチェアーに深くもたれて、買ってそのままにしていた小説たちを立て続けに読破している最中だった。

 電話をかけてきたアシュレイは、電話口でやけに興奮した様子で、「友人が、行方不明になって、それに吸血鬼が関わっているかもしれない」とまくし立てるように説明した。しかし、彼女自身もまだ話を整理できていなかったようで、その話はなかなか要領を得ることはできなかった。

 一度、詳しく話を聞かせてくれと提案したレオンに、アシュレイは「願ってもいないことです」と食い気味に承諾し、明くる日の午後、事務所でという約束を取り付けた。


「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」

 レオンはにっこり笑って彼女を部屋の中へ招き入れると、リビング兼応接間へ通した。

 一仕事を終えてソファーに堂々と腰を下ろしていたアルカードは、アシュレイが入ってくるのを見ると、たちまち居住まいを正して、かわいらしい客人を快く迎え入れた。


「やあ、君が昨日の電話をくれた子だね」


 アシュレイは、奇抜な格好をしたアルカードに、ぎょっとしたように目を見開いたが、すぐさま遠慮がちに目礼して「…………こんにちは」と言った。

 気取ったような吸血鬼の態度に呆れたようなため息をつきつつ、レオンは、


「あの男はお気になさらず。ただの使ですので」

 と、皮肉をたっぷり込めて言った。


 アシュレイを客人用の一人掛けのソファーにすすめたところで、それと同時にすっと立ち上がったアルカードが、真っ直ぐとカウンターキッチンへ向かう。三人分の紅茶を淹れるのだ。後ろの方で食器類がカチャカチャ音を立てるのを耳にしながら、レオンはテーブルを挟んで依頼人と向き合い、早速本題へと切り込む。


「政府の審査を通さず、僕に直接依頼を持ち込んだということは、この件、相当急ぎの案件ですね」


「ええ、そうなんです」


 ハンターに吸血鬼退治を依頼するときのオーソドックスな手順は、大きく分けて二つある。

 主な流れは、依頼人が政府の専門機関へ相談を持ち込み、そこを経由して手の空いているハンターの元へ仕事として舞い込む。依頼人の方も、政府を間に置いて話を進めれば、手当てがついてハンターへ支払う報酬も手ごろなので、多少の時間はかかれど、こちらの手順を望む。政府を間に置いた場合、ハンターと直接話ができるのは、申請後、早くて四日後と言ったところか。


 大体の新人ハンターは、まだ名が売れていないので、政府を通して入った依頼をこなし、徐々に腕を磨いて、認知度を上げてゆくのがセオリーだ。

 しかし、レオンのように元から優れた能力を持った吸血鬼ハンターとなれば、自分の元に依頼人から直接仕事を持ちかけられることもある。ことに急ぎの内容であれば、政府を通さずとも話をつけることはできるが、そうなると、ハンターへ支払う報酬はすべて依頼人持ちとなり、事件解決に必要な経費も何割かは依頼人の懐から徴収されることになっている。


 アシュレイは、ぴっと背筋を伸ばして、膝の上に置いた使い古されたハンドバッグの中を探って、手のひらより少し大きいくらいの簡素なノートを取り出し、真ん中あたりのページを開いて、レオンに差し出した。


「まず、これを読んでいただけますか」


 示された左側のページには、このように記してあった。


   夢の中で香りを辿る。今日は十五歩。

   夢の中で香りが強くなる。今日は三十歩。

   夢の中の香りが私を包み込む。今日は六十歩。

   夢の中を、私はいくらでも歩けるようになる。

   目が覚めると、私はあの香りが恋しくてたまらなくなる。

   今夜は私から彼の手を取ろう。美しい彼の、冷たい手を。

   ジャスミンの花が咲くあの場所で、あの白くて細くて綺麗な手に触れたい。

   愛しいエドワード。

   私を愛してくれる、美しきヴァンピール。

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