第16話 カラマーゾフ言えるかな?(軽井沢編③)

 「せっかくだ。二人で軽井沢をエンジョイしてみるか!」


 万平ホテルから出ると先輩は明るくそう言った。

 俺の元気がないことに気が付いて、そう言ってくれているんだと思った。


 「なんだよ。何ちょっと笑ってるんだよ」

 「エンジョイって言葉が先輩に似合わないなって」

 「なんだよー。私だって、エンジョイする時はするんだぞ。お前、一人旅行の寂しいおばさんが何言ってんだ、みたいに思ってるだろ」

 「思ってません!それは、本当に思ってません!」

 「ほんとかー?全く、失礼なやつだ。罰として、今日は私の行きたいところに付き合ってもらうからな」

 「はい!お供します!」 

 「いい返事だ(笑)よーし、ついてこい!」


 自転車に乗って、ものの5分で先輩は自転車を止めた。

 「おー。ここが「堀辰雄の径」か」

 なんでもない細い道に、ひっそりと「堀辰雄の径(フーガの径)」と書かれた案内があった。

 「……堀辰雄ってなんでしたっけ」

 先輩はため息をつき、「あのなあ。お前、仮にも文芸部だった身だろう。『風立ちぬ』、『菜穂子』の堀辰雄だよ。私小説にロマン形式をとりいれた」と言った。

 「あー『風立ちぬ』!宮崎駿の!どうりで聞いたことがあると!」

 あの庵野秀明が主人公の声優をした、と口走りそうになってやめる。

 先輩、絶対に庵野秀明のこと知らないだろうし。


 「……うん。いや、間違ってないんだけどな。小説も読んでくれよ。小説も」

 「『風立ちぬ』はゼロ戦の開発シーンがいいですね。プロジェクトXみたいで。原作も、やっぱり、そこを丹念に描いてるかんじですか?」

 「いや、それは原作にはない。っていうか、それは堀越二郎っていうゼロ戦設計者の話なんだろ?というか、そういうのは、お前のほうが詳しいだろ」

 え、そうなん?

 確かに、ポスターに「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」みたいなことが書かれて、なんじゃそりゃ。と思った記憶はあるが。

 「すいません。俺、実は宮崎駿はあんまり得意じゃなくて。押井守は大好きなんですけど」

 実際に、『風の谷のナウシカ』も苦手なのだ。

 俺は虫が死ぬほど嫌いなので、王蟲が動くところを子どものころから直視できない。

 「押井守?聞いたことがあるような、ないような。映画なら何でも詳しいもんだと思っていたけど、得意不得意とかあるんだな」

 「あります!ほら、私小説好きがエンタメ小説を読まない的なやつです」

 しかし、宮崎駿が私小説で押井守がエンタメかというと、それは全く違う気がするが。

 「なるほどな。その例えはわかりやすいな。こんな話をしていると思い出すな。文芸部の時を。『カラマーゾフの兄弟』を課題にした時は、誰も読破できなくて困ったもんだったが(笑)」


 文豪ドストエフスキーの最後の作品『カラマーゾフの兄弟』。

 先輩が、「これを読まない人間は人生の半分を損していると言っても過言ではない!」と豪語して強制的に課題図書になった。

 しかし、蓋を開けてみれば、誰も彼もが序盤で挫折し、先輩は残念そうだったのをよく覚えている。俺は、先輩に褒められたくて、内容はともかく、キャラクタ―の名前だけを必死で覚えた。

 しかし、結局、誰も読めなかったせいで、読書会自体が中止となり、その知識を披露する場所がなかった。

 

 「俺、読みましたよ!今でも、兄弟の名前、言えますもん」

 まさか、今、この知識を披露することになるとは……。

 「本当かー?じゃあ、長男から順に言ってみろ」

 「えー。長男がドミートリィ、次男がイワン、三男がアリョーシャ……あと、あいつです。あの腹違いの……。」

 「スメルジャコフ」

 「それです!ほら!」

 よく10年も前のことを覚えていたと自分で自分を褒めたかった。

 「なかなかやるな。見直したよ。「大審問官」は私も卒業論文で扱ったから、思い入れが強いんだ」

 「……」

 だいしんもんかん?

 ……ドラクエのラスボス的な何かだろうか。


 兄弟の前に立ちはだかる大審問官。

 長男ドミートリィは足に傷を負い、大審問官にとどめをさされそうになるが、間一髪、スメルジャコフがかばい、その攻撃を全て受け止める。

 「義兄さん。俺、少しは役に立てたかな?」

 腹に穴の開いたスメルジャコフは倒れる。

 「ス、スメルジャコフゥゥゥ!!」

 泣き崩れる兄弟たち。

 死んだスメルジャコフのために、俺たちの戦いはこれからだ!


 ……そんなストーリーではないことだけは確かだろう。

 

 妄想にふけっていた俺を見抜いたように「お前、内容はまったく覚えてないな……」と先輩は言った。

 「ははは。いや、面白かったっていう記憶はあるんですけど」

 「まったく。しょがない奴だ」

 先輩は呆れたように笑った。


 旧軽井沢のイタリアンでピザを食べた後、「そういえば、お前、今日はどこで泊まるんだ」と、先輩は聞いてきた。

 「いや、その辺のビジネスホテルにでも泊まろうかと」

 「……予約してないのか!?」

 「ええ。ま、大丈夫かなって」

 一人泊まるくらい、どこでもいいと思っていたのだが。

 「……お盆シーズンを舐めすぎだ。一回、駅に戻って観光案内所で聞いてみるか?」

 お盆……。確かに、行きの新幹線も座れないほど混んでいた。

 

 観光案内所に行って聞いてみると、案の定、どこもかしこも満室で、近くには、泊れそうなところはないと言われてしまう。

 「……まあ、一日くらいなら野宿してもいいか」と、俺は楽観的に言うが、先輩は、「ダメに決まってるだろ。夜になったら、もっと寒くなるんだぞ。絶対、風邪ひくし、そもそも、野宿なんてしちゃダメだろ」と至極真っ当なことを言う。


 「じゃ、帰ります」

 俺の答えが意外だったのか、「え」と先輩は言葉を失ったように驚く。

 「いや、別に一人で旅行できればよかったんで、軽井沢以外で、どっか探します。まあ、最悪、家帰ってもいいですし」

 本心だった。それに、今日は先輩に会えただけでもいい日だった。

 この日を思い出にして、俺は、これからも頑張って生きていこうと思っていた。


 「それは、駄目だ」


 先輩の応えが意外で「え」と、今度は俺が言葉を失う。

 「せっかく、一人でいろいろ整理しようと思ってきたんだろ。だったら、ちゃんと最後まで旅行を楽しまなきゃ駄目だ!」

 「先輩……」

 「仕方ない。……くるか?」

 いい予感と嫌な予感が同時にした。

 「どこに、ですか?」


 先輩は、少し言いずらそうに、「私の、泊っている部屋」と小さな声で言った。


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