第一章 胡蝶の見る夢 八


 特区でのスマートホーム建設の許可が下り、この春に完成した新居を朔也と二人で見に行ったのは、抗がん剤治療のための入院が一旦終わって、自宅療養中でのことだった。

 まっさらな家の中は、収納などはほとんど作り付けのもので機能的に整えられているが、ソファセットやダイニングテーブル、ベッドやカーテンなどは二人でカタログを見ながら、あるいは店に足を運んで選んだものだ。闘病中の彼にとっては、いい気分転換なったことだろう。

 それに、この家を制御するOSも、アメリカの会社のサーバにある人工知能も、もとは朔也が開発したものなのだ。自分の研究がどんなふうに一般家庭に導入されることになるのか、その成果を体験したいというのは、自然な欲求に違いない。

「……家具も全部揃ったし、その気になればいつでも移れるね」

 ソファの真ん中に陣取り、膝の上に置いたノートパソコンを使って、この家の管理システムに接続を試みている朔也を、キッチンにいる陽向は複雑な思いで眺めていた。

「……そうね、朔也さんの体調が安定したら、できるだけ早くここに引っ越しましょうよ。それまでに不要なものはどんどん捨てていって、断捨離しなきゃ」

 いくら業者に頼んでも、引っ越しには体力がいる。徐々に進行する病に蝕まれ、次の抗がん剤治療も控えている、今の朔也には困難なことだ。

「陽向」

 つい悲観的な考えに囚われていた陽向は、朔也のうきうきと弾んだ声に呼ばれて、はっと我に返った。

「思った通り、ここのOSは開発者の僕が持つパスコードでカスタマイズできる仕組みになっている。ごくシンプルな機能しか、一般にはまだ公開されていないけれど、本来、僕の作ったOSはこの程度のものじゃないんだ。あれから更に新しい技術も生まれていることだし、まだ体力と気力のあるうちに、うんとアップグレードしておくよ」

 好きなゲームに熱中する子供のような無邪気な顔をしている朔也――本当はもっともっと好きな研究を続けたいはずなのだ。それなのに、頭の中で温めているアイディアを形にしていくための時間が、彼にはもう残されていない。

 朔也がしたいことを好きなだけさせてあげよう。治療のために必要な時間はどうしても取られてしまうけれど、それ以外は自由にさせてあげようと、陽向はかつてなかったほど献身的に彼に尽くした。

 本当は陽向自身も精神的に不安要素を抱えていたのだが、神戸に戻ってきたことで少しは落ち着いた気がするし、朔也の病状に比べれば、鬱で眠れないくらい大したことではない。

 朔也は、気分がいい日はラボに出かけて行くか、自宅でも持ち帰った作業の続きでもしているのか、パソコンの前にいることが多かった。

(ねえ、朔也さん、そう言えば、私、あなたの研究について深く尋ねてみたことはなかったけれど、あなたがそんなにも熱心に打ち込んでいるのは、人と同じ心を持つコンピュータという、私が子供の頃に見た途方もない夢の続きなの……?)

 だとしたら、それはどこまで実現に近づいているのか、彼が生きているうちに間に合うのか――そこまで思い至った途端、恐くなって、追及することはできなくなってしまう。

(一体、いつまで私達は一緒にいられるのだろう……? こんなことになると分かっていたら、別居なんかしなかった……朔也さんとの大切な時間を無駄にしてしまった)

 治験薬を使った化学療法は結局期待した以上には奏功せず、一度は小さくなった腫瘍がまた大きくなり始め、秋を迎える頃には主治医と話し合った末にホスピスに切り替えることになった。

それでも朔也は、医療用麻薬で痛みをコントロールしながら、何かにとりつかれたように作業を続けていた。

この頃になると近くにある研究所にさえ足を運ぶのが辛くなっていて、ベッドの上でパソコンのキーボードを叩いていることが多くなった。少し休んだ方がいいと陽向が声をかけても、疲れ切って動けなくなるまでやめようとしない。

「心配させてごめんね、陽向……でも、後少しだから大目に見てくれないか」

 陽向が顔を曇らせると、朔也はちょっとすまなそうに、しかし、頑強にこう言い張るのだ。

「研究者としてやり残したことはたくさんあるけれど、全ては無理だから……せめてこれだけは完成させておきたい、僕のとっておきなんだ」

 そんな言い方はずるい。陽向は唇を震わせた。

「私も変わっているけれど、朔也さんだって相当よ。こんなになってまで研究なんて――それよりも、もっと他にすることがあるんじゃないの?」

 無性に腹が立ってきて、こんなきつい言葉を投げつけてしまった後、たちまち陽向は後悔した。心配そうな顔を向けている朔也から逃げるように離れ、こちらに戻ってしばらくしてからかかりだした精神科でもらった薬をこっそり飲んだ。

(私が先に壊れたりしたら駄目……しっかりしなきゃ……)

 ヘルパーにも週に何回か来てもらっているとはいえ、一人での病人の看護に陽向も疲れが出てきていた。緩和病棟への入院も進められたが、朔也の希望を優先させて、できる限り自宅で生活させてあげたいと思っていた。

(朔也さんの希望だけじゃない……私もそうしたいの……今度入院したら、きっともう戻ってこられない気がする。そのくらいなら、もう少しこのまま、彼と暮らしたい)

 ある夜、陽向は朔也とリビングのソファで、ホログラム・プロジェクターによって室内に作り出された満天の星空の中に浮かびながら、心休まる音楽を聞いていた。痛みによるストレスを緩和するヒーリングミュージックだと病院で知り合った患者の奥さんに教えてもらったものだ。確かに眠気は誘われるが、本当に効き目はあるのだろうかと、傍らの朔也の方をちらりと伺うと、頭上に輝く星々ではなくこちらにじっとあてられていた彼の黒々とした瞳があった。

「どうしたのかい?」

 瞬きもせず、朔也は尋ねる。その声が穏やかで安らいだものであることに、泣きたくなるくらいほっとする。

「ううん、こんなふうに朔也さんとゆっくり話をするのって久しぶりだと思って……」

 いつもなら、この時間、朔也はまだ自室で作業しているか、疲労を覚えてベッドで休んでいるかだ。

「確かに僕はこの頃、陽向を放ったらかしにしすぎたね。でも、今やっている作業のめどがついたから、これからはもう少し病人らしくおとなしくしてあげられるよ」

 冗談めかした軽い口調に、陽向の気持ちもやっと解けた。以前よりも痩せて細くなった肩にそっと頭をやすらわせ、かねてから気になっていた疑問を口にした。

「あの……ね……聞いてもいいかしら、朔也さんが今まで何をしていたのか……?」

 朔也は陽向の顔を覗き込んだまま、深々と微笑んだ。月のない夜空のような澄んだ黒瞳に、星のようなきらめき灯り、生き生きと瞬く様に陽向は思わず引き込まれた。

「ずっと前に思いついていたアイディアなんだ……けれど、ラボで皆と共同でやっていた研究からは少し外れるテーマだから、自分で少しずつ進めていた……いずれ僕のライフワークにするつもりでね」

 傍らに置かれた朔也の手に自らの手を重ねてみると、火のように熱かった。燃えているのは、今でも見果てぬ夢を追っている彼の心だろうか、それとも今にも尽きようとしている命だろうか。

「簡単に言うと、僕の作った汎用型人工知能に、被験者となった人間とそっくり同じ記憶、同じ意識を持たせようという試みだよ。例えば、この僕――久藤朔也の脳のバックアップを取っておいて、何かあった時にリカバリーさせるといったイメージが分かりやすいかな」

 朔也のほっそりと長い指が自身のこめかみのあたりを軽く叩く。病を得ていっそ凄艶な美しさの増した顔には、熱に浮かされたような表情が浮かんでいる。

「想像してごらん、陽向、僕がいなくなった後も、僕の能力をそっくり付与されたAIがいたとしたら――特に今、ラボの閉鎖の可能性も考えて途方に暮れている研究員達は助かるんじゃないかな。僕の代わりをAIが務めるんだ。僕が途中まで考えたことの更に先を、同じ思考回路を辿って結論まで導き出せるスーパーインテリジェントなコンピュータ……演算を超えた、脳に自然発生する閃きの再現……そんなことがもしもできたら、肉体は滅んでも、僕はある意味において永遠に生き続けることになる」

 怪しい眩暈に襲われて、陽向はとっさに目を閉じた。うっかり朔也の語ることをうのみにして信じそうになったけれど、頭の中の冷静な部分は否と言っている。

「いくらあなたでも……それは無理よ……」

 弱々しい声で逆らう陽向の肩を掴んで、朔也はもどかし気に揺さぶった。

「でも、陽向は今、想像しただろう?」

 信じるふりをした方がいいだろうか。いや、朔也が求めているのは、そんなことじゃない。自分の妻が、理論を信奉する研究者であることを、彼だってよく知っているはずだ。

「人間に想像できる夢なら、それは最終的に実現可能なんだって……あなたの口癖だったわよね」

 ほろ苦い気分で、陽向は微笑む。子供の頃にその言葉を聞いた時、陽向は心から信じた。大人になって夢を実現する場所に辿り着いたはずなのに、行き詰ってしまった今、昔のように素直には信じられなくなった。

「心は脳の中のプログラムのようなものだとしたら――理論的にはコンピューターに脳をコピーすることで死後の生命の一形態を実現できるんじゃないかな?」

 どこか試すような口ぶりでなおも訴える、朔也の正気を陽向は一瞬疑いかけた。熱のせいで普段思いつきもしないようなことを言いだしたり、病気に対するストレスや死への恐怖で妄想じみた考えに取り付かれたり、末期の患者にはありうる話かも――。

「陽向は、僕を少しも信じてはいないんだね」

 キラキラと輝いていた朔也の瞳から光が失せ、陽向の肩を包んでいた手が余所余所しく離れていった。

「さ、朔也さん、違うのよ……急に途方もない話を聞いて、頭が回らなかっただけ――ああ、何だか、これって私が高校生だった頃、実家でパパや朔也さんとディベートしていたようなテーマね」

 それを聞いて、朔也はちょっと懐かしそうに目を細めた。彼にとっても、若い時に陽向の実家で過ごした時間は忘れがたい楽しい思い出として残っているようだ。

「陽向は、最後にはいつも、義父さんの側について僕を言い負かそうとしてた……どうしたら君を説得できるんだろうって、悔しがってたな」

 ずっと同じ姿勢を取っていることが辛くなってきたのか、朔也はソファの上に体を横たえて、小さく呻いた。

「……朔也さん、大丈夫?」

 朔也は束の間伏せていた瞼を開いて、心配そうに見下ろしている陽向にはっとするほど清澄な眼差しを向けてきた。

「今は信じられなくてもいいよ、陽向……そのうちきっと僕は君を納得させてみせるから……」

 その瞳に宿っているのは、健康だった時と変わらず、少しも損なわれてはいない、研ぎ澄まされた知性だと気づいた途端、陽向は愕然となった。

彼はどこまでも正気のまま、自らの手で技術的特異点(シンギュラリティ)となりうる何かを作り出そうとしていたのだ。

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