第一章 胡蝶の見る夢 五

 休日の夜、久しぶりに朔也と一緒に中心街に出、レイトショーの映画を見て帰る道すがら、陽向は転職のことをどう彼に打ち明けるか、それともこのまま何も言わずに諦めるか、思いを巡らせていた。


 人工島と本土をつなぐ無人路線の最寄り駅から自宅までは、少し距離がある。夜はやっと涼しくなってきた初秋の海風を感じながら、朔也と二人、黙りこくったまま歩いていた。   


「……陽向」


 ふいに名前を呼ばれた。体の脇に垂らした手に、彼の指の長い手がそっと重ねられる。


「また、仕事のこと、考えてる?」


「うん……分かる?」


 朔也にはあまり心配をかけまいと、最近職場で覚えているフラストレーションについては、極力話題にしないようにしていた。しかし、もともと考えていることが素直に顔に出てしまう性質なのはどうしようもなく、相当に参ってきているということは、彼なりに察しているようだ。


「分かるよ。君の頭の中は今、現状に対する不満でいっぱいなんだ。けれど、その不満を僕に話したところで、解決できないと思っている」


 そう呟く彼の声がとても悲しそうに響いて、陽向の胸はチクチクと痛んだ。


「……義父さんがいなくなってから、陽向は、以前のように屈託なく笑ってくれなくなった。今じゃ僕が陽向のたった一人の家族だから、義父さんのようにしっかりしなければと思ってるけれど……ごめんね、僕は、言葉にされない人の気持ちを汲み取ってあげることが苦手で、それでよく人間関係に失敗してしまうんだ」


 学会発表でも取材でも自分の専門分野のことならば堂々と落ち着いて話をする姿とは一転、自信なさげにとつとつと語る朔也に、陽向は心底仰天した。


「な、なにを言うのよ、朔也さんが私に謝ることなんて、これっぽっちもないんだから……きゃっ……!」


 突然朔也が陽向の手をぐっと握りしめ、足早に歩きだした。何事かと怪しみながらも引っ張られていくと、どうやら交差点の脇にある無人コンビニを目指しているようだ。


 繁華街のような灯りに乏しい人工島の住宅地のただ中にあるコンビニは、暗い夜道を照らし出す灯台のように煌々と輝いている。


 入り口前のカメラで顔認証を済ませるとドアが開き、いらっしゃいませという合成音声と共に購買意欲を高める明るい音楽が鳴り始めた。


「……ここにあるもの、好きなだけ買ってもいいよ、陽向」


「は?」


 陽向が戸惑いながら傍らを振り返ると、朔也はドアの脇に置かれたカゴを取り上げながら、彼女に向かって真面目な顔で深々と頷き返した。


「僕は陽向の元気な顔を見たい。でも、とっさにこんなことしか思いつかないんだ」


 陽向は一瞬唖然となった。ドアの前でじっと立ち止まったまま互いを見つめあっている若いカップルをAIが不審者ととらえたのか、店内の監視カメラがこちらに一斉に向けられる。


「そ、そう……」


 これは一体何のプレイなんだと思いながらも、陽向はつんと頭をそびやかし、迷いのない足取りで店の奥に進んだ。籠を腕にぶら下げた朔也が忠実な執事のように、その後に続く。


「ここにあるお菓子を全部いただくわ」


 菓子類の陳列棚の前まで行き、高慢に命じてやると、朔也は「かしこまりました、お嬢様」と恭しく一礼。


「あ、私の好きなものだけでいいから」 


 一瞬本当に端から端まで絨毯爆撃のように買いまくりそうな気がして、陽向が慌てて訂正すると、「お任せください」と朔也はにっこりした。


 朔也の手が整然と美しく並べられたカラフルな菓子に向かって伸びる。一番上の段の端から順番に、陽向が好きなものを迷わず選び、リズミカルに籠の中に入れていく。


 何度かリピしたことのあるものを覚えているのか、好みの傾向を理解しているのか知らないが、結局朔也が買ってくれた陽向の好きなものは全問正解のパーフェクトだった。


 菓子でいっぱいの大きなビニール袋を抱えて店を後にするや、陽向は堪えきれなくなったようにくすくす笑いだした。


「……ねえ、朔也さんって、私のことすごく好きでしょう?」


 笑いすぎて涙目になりながら隣を歩く背の高い人を見上げると、静かな熱情に満ちた、真っ黒な瞳がじっと見つめ返してくる。


「うん。好きだよ」


 陽向は長い睫毛を震わせながら、目を見開いた。この瞬間に、揺れ続けていた気持ちが定まった。


「……あのね、朔也さん……家に帰ったら、聞いてほしいことがあるの」


 陽向が朔也の手におずおずと触れると、彼は励ますようにぎゅっと握り返してくれた。






帰ってすぐ、お茶を用意したダイニングのテーブルで、人工知能統合センターから送られてきた書類一式を見せながら、陽向は話を切り出した。


転職を考えていると聞いた時、彼はさすがに驚いた顔をしたものの、頭ごなしに反対したり、話を途中で遮ったりすることはなかった。


若手研究者登用制度の書類審査は通ったこと。次は十月に東京で面接があるから、受けてみたいのだと、素直に打ち明けた。


全力を尽くして落ちたなら、それで諦められるから――。


 朔也はいつの間にかすっかり冷えてしまった茶碗の中のお茶をぼんやりと眺めながら、しばらく考え込んでいた。


「受かったらどうするつもり?」


 ようやく、彼は核心の部分に触れてきた。陽向の顔を見ようとはしなかった。


「……一人で東京に行くつもりよ」


 陽向は膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、大きく息を吸い込んだ。


「結婚前みたいに、またしばらくは遠距離婚になってしまうけれど、海外の研究室に行くことを思ったら全然近いし……まだ若いうちに、チャンスがあれば挑戦してみたい」


 朔也が肺から絞り出すような深い息を吐き、もうこれ以上聞きたくないというように頭を抱え込んだのに、陽向は動揺した。


「朔也さん……」


 朔也が怒るのは当たり前だ。妻が自分の仕事を優先して夫に別居を頼み込むなんて、勝手なことに違いない。


「ごめんなさい、私、馬鹿なことを考えてたね」


 書類を引っ掴んで席を立とうとする陽向と押しとどめるように、朔也の手が上がった。


「自分の夢を叶えられる仕事ができたら、君は前みたいに明るく笑ってくれるようになるのかな……?」


 陽向は耳を疑った。


「朔也さん、今なんて……?」


 朔也は項垂れていた頭を上げて、陽向に向かって、ちょっと苦しそうに、しかし、決然として言った。


「陽向が、どうしても新しいことに挑戦したいというのなら、止めはしないよ。君がいなくなると寂しくなるけれど、そうだね……恋人同士だった頃に戻ったんだと思えばいい」


 何だかたまらなくなって、陽向は朔也の首に腕を巻き付けるようにして抱き着いた。その小柄な体を彼は抱きしめ、柔らかな頬に頬を寄せた。


「ありがとう、朔也さん……ああ、でも、もしも面接に受かったらの話だからね……」


 朔也の艶やかな癖のある髪を指で撫でつけながら陽向は囁くが、我ながら、言い訳のようにしか聞こえなかった。


「大丈夫、君は受かるさ……僕の奥さんは、とても優秀な研究員だからね」


 どんな顔をして彼がそう言ったのは、陽向は見ることができなかった。


結局、陽向は面接にも合格し、年明けから人工知能統合センターのラボに着任することとなった。


単身東京で暮らすため家を出ていく彼女を、朔也は約束通り、笑顔で送り出してくれた。しかし、念願叶った陽向の方は、なぜか素直に喜べなかった。


(朔也と離れて暮らすなんて……私、本当にこんなことをしたかったんだろうか……?)


 陽向の胸に生じた小さなしこりのような後ろめたさが、この後、ずっと影を引きずることになるとはこの時はさすがに予想もしていなかった。




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