第一章 胡蝶の見る夢 三

「うちの研究室に新しく入った久藤朔也君だ」

 陽向が中学三年生の春、父親が、家に一人の背のひょろりと高い少年を連れてきた。どう見てもまだ高校生くらいの顔した彼が、アメリカのスタンフォード大学の研究所から当時理化学研究所の人工知能統合センターにいた父親のラボに招かれた研究員だと聞いて、陽向と母は顔を見合わせたものだ。

「朔也君は、所謂『ギフト』を持った天才児なんだよ。ご両親共に日本人だが、彼にアメリカの特殊教育プログラムを受けさせるために生活の基盤を向こうに移されてね。十五歳でスタンフォード大学に入学し、十九歳にしてそこの人工知能研究所の研究員になった」

 スタンフォードの人工知能研究所と言えば、父が若い頃に働いたことがある機関だ。かつての指導教授の紹介で、朔也を二年間預かることになったという。

「久藤朔也です。どうぞ、よろしくお願いします」

 戸惑う陽向と母親に向かってぎこちなく頭を下げ、はにかむように微笑む朔也のほとんど虹彩の分からないくらいに黒い、美しく澄んだ瞳に引き込まれそうになったことを今でも覚えている。

 天才と聞いて一瞬構えてしまった陽向と母だったが、すぐに彼が、頭の良さを鼻にかけた高慢ちきな早熟児などではなく、他人への気遣いに溢れた、穏やかで優しい性格だと気づいた。

 後で明らかになったことだが、華々しい経歴を持つ朔也の境遇は決して恵まれたものではなかった。日本企業の現地駐在員だった父の都合で渡米したのだが、朔也の素質が分かったことで狂喜した父は母を説き伏せ、現地の企業に転職した。そのことだけでなく、朔也の教育にばかり熱心な父と母の間には次第に溝が深まり、彼が大学に入った十五歳の時に離婚。母は弟を連れて家を出て行ってしまったのだという。

 思春期の真っ只中で家庭が崩壊してしまった朔也は、その後ずっと大学の寮暮らし。幼稚園の頃まで暮らしていたという日本だが既に近しい親族はおらず、慣れない地での一人暮らしの身を案じた陽向の父は、それからも度々彼を自宅に招待するようになった。

 一人っ子で我儘に育った陽向は、平凡なだけの毎日に舞い降りた、人気のアイドルグループにいてもおかしくないルックスなのに少しもうわついたところのない彼を『朔也兄さん』と呼んで慕うようになった。

 多感な年頃の陽向が、親戚でもない朔也に無邪気に懐くのを、今思えば母親はハラハラして見ていたのかもしれない。研究しか知らない鷹揚な父は、娘の心情にはてんで無頓着だった。

そんなある日のことだ。陽向が小さい時から可愛がっていたAIロボットHikariが、動かなくなった。それまでも度々不具合を起こしていたのだが、ついに耐用年数が過ぎたのだ。かつてHikariの開発に携わった企業にも部品の在庫はなく、修理不能という返事が返ってきた。

ロボットなら死なないはずじゃないの! 可愛がっていたペットを亡くした飼い主のように悲しむ陽向に両親は困り果て、それを見かねた朔也が、Hikariをしばらく預かりたいと申し出た。

「朔也兄さん、Hikariを治せるの……?」

 期待に満ちて尋ねる陽向に、朔也はHikariの人工知能を調べた後、思慮深く誠実な眼差しを向け、言った。

「……このボディはかなり痛んでいるから、大部分は新しいものに取り換えなくてはいけない。OS自体古すぎる。けれどメモリーの中に詰まった君とHikariの大切な思い出はどうにかしてサルベージしてみるよ」

 Hikariを託して二週間後、やや緊張気味の面持ちをした朔也が、家にやってきた。待ちきれないように案内したリビングで、彼がリュックサックの中から引っ張り出したのは、昔のHikariより一回り小さい、球形のAIロボットだった。

「色々探したんだけれど、アメリカの家庭用ロボットメーカーが出している子供向けロボットが一番Hiakriに近かったから、そのボディを使ってみたんだ。中身のOSは僕がアメリカの研究室で作ったものに取り換えてある……そこにHikariのハードディスクのデータ……陽向ちゃんとの暮らしに中で学習してきたことを全て移植した」

「体は違うけれど、中身はHiakariだってこと……?」

 見慣れないロボットを前にして、陽向の声にはつい不信感がこもってしまう。

「精巧なコピーはオリジナルと果たして同一だと言えるのか、人によって答えは様々だろうね。複製したところでオリジナルの本質が変わることないと考えた僕は、別の体に移し替えることでHikariを生き返らせたんだ。陽向ちゃんが納得してくれるかはまた別の話だけれどね」

 黙り込んでしまう陽向の前で、リビングのテーブルに置いた小さなロボットを朔也が起動させる。液晶の目をゆっくりと見開いて、陽向を認めるや、ロボットはボディ側面から伸びたアームでちょこちょこと近づいてきた。

「……転がらないんだ」

面目なさそうに朔也か頭をかく。

「ごめん。玩具屋じゃないから、ボディの改造まではできなくて」

 しかし、陽向の声を聞いた途端、ロボットは、ハイタッチしようとするかのように彼女に向かってアームを伸ばしてきた。朔也の方は振り向きもせず、陽向だけをじっと見つめてくる、まるい目はどことなくHikariを思い出させる。陽向がおずおずと伸ばした指先でアームに触れてやると、ロボットは小さな体を揺すって、甲高い声で歌い出した。陽向が、子供の頃、よく口ずさんでいた歌だ。

「歌えるの、この子!」

「そりゃあ、最新型のモデルだからね」

確かに外見は前とはずいぶん違うけれど、機嫌よさげに歌に合わせてくるくる回る仕草や液晶画面に表示されるユーモラスな表情はHikariのものだ。

「どうかな、陽向ちゃん、この子をHikariとして可愛がれそう?」

 不安そうに聞いてくる朔也。陽向はとっさに開きかけた口を閉ざし、少し考え込んだ後、彼の顔をまっすぐに見ながら率直に答えた。

「……これが十歳の私だったら、以前とは似ても似つかない姿になったHikariを受け入れられないかもしれない。正直に言うと、私も少し抵抗がある……でもね、こうして遊んでいると、不思議ね、やっぱり中身はHikariなんだなと感じるの」

 テーブルの上からじたばたするロボットを抱き上げて、頬ずりしながら、陽向は心からの感謝の言葉を伝えた。

「私のHikariを生き返らせてくれて、ありがとう、朔也兄さん。私、生まれ変わったこの子を大事にするわ、これからもずっと」

 信頼のこもった眼差しを向けてくる陽向に、朔也は心底安堵したように肩で大きく息をついた。天才と呼ばれる人工知能研究者が、たかが中学生の女の子の評価を気にするなんて意外だ。そもそも、ただの感傷と言ってしまえば、それだけのものに、こんなに真面目に付き合ってくれるなんて――。

 ともかく、この時から、陽向は久藤朔也を信頼すると決めた。彼は、決して自分を裏切らない。友達や両親にもまだ打ち明けたことのない、途方もないような話でも、彼ならきっと馬鹿にせずに聞いてくれるに違いない。

「私ね、将来、人工知能の研究者になりたいんだ」

 そんな打ち明け話をしたのは、Hiakariの一件があってしばらく後、陽向の誕生日に朔也が招かれた夜のことだった。皆既月食が見られるというので、食事の後、庭に出て、二人で夜空を見上げていた。

「……宇和教授みたいな?」

 朔也は、ようやく端がかけ始めたばかりの月に視線を当てたまま、のどかな口調で尋ねてくる。

「パパの影響なのは否定しないけれど」

 自分よりも皆既月食の観察に熱中している朔也の注意を引きたくて、陽向は更に熱心に言いつのった。 

「Hikariと一緒に育った私だから、いつか本当の意味で人間のコンパニオンになってくれるAIを作りたいと思うの。ペットのように暮らしの中で癒しを与えてくれるだけじゃない、友人となって愚痴や悩みを聞いてくれたり、一人暮らしのお年寄りの孤独を慰めながら介助をしてくれたり……人間に命じられたことだけをするんじゃない、自分の意志で、私達に寄り添ってくれるAIを」

 朔也はすぐには答えなかった。月のない夜そのもののような深い瞳を空に向けたまま、じっと何かを考えている。

「AIが人間の心を理解できるようになるためには、人間と同じ心を持たなければならない。陽向ちゃんは、人間そっくりに機能する人工の心を作りたいというのかい?」

 やっとこちらを振り返ったくれた朔也の唇にうかんだ、からかうような微笑に、陽向はむきになって突っかかった。

「おかしい?」

 朔也は首を左右に振った。ふと遠い目になり、再び空に浮かぶ月を見やった。 

「いや、おかしくなんかないよ、素敵な夢だ。そう言えば、弟も昔、似たようなことを言っていたなって思い出したんだ」

離婚した母親に連れられて行った朔也の弟も、兄と同じ道を志しているのだろうか。陽向はあったこともない彼の弟に妙なライバル心をかきたてられる。

「何冊も本を読んだわ……ネットの記事はもっとたくさん……。人間のように自分で考えて、行動できるAIを作るには、シンギュラリティを待たなくてはならないって書いてあった。少なくとも今の技術では、心をプログラムすることはできないって……」

「真のインテリジェントマシンは、自ら思考し、またそのこと『意識』できなければならない。自己認識を持つプログラムを作成するには、まず意識をコード化する必要がある。もしも意識がアルゴリズム化できるなら、コード化もできるだろう」

 自分の考えを口に出すことで再確認するかのような口調で淡々と呟いた後、朔也は不安そうに息をひそめていた陽向を見下ろし、柔らかく微笑みかけた。

「陽向ちゃん、人間が想像できる夢で、実現不可能なものなんてないんだよ、知っていたかい?」

 とっておきの秘密を打ち明ける子供のような楽しげな朔也の表情に、陽向の心臓が胸の中できゅっとなった。

「考えもごらんよ、大昔から鳥のように空を飛ぶことを夢見てきた人間は、近代になって飛行機を発明し、ついに飛べるようになっただろう?」

「人間が空を飛んだのなら、いつかコンピューターだって心を持つようになるかもしれないってこと……?」

「厳密には、飛行機は滑空しているのであって、鳥のように飛んでいるわけではないんだけれどね」

 確かにその通りだ。鳥をまねるのをあきらめたおかげで、人間は全く別のアプローチから飛行する方法を考え付いたのだと言える。

「人間と同じように考えて、自らの意志で行動できる人工知能もいつか現れるだろう。……それが今、陽向ちゃんが思い描いているのと同じ姿になるかは分からないにせよね」

 夢物語が、朔也の口から出ることで少しだけ現実味を帯びた気がした。

(私は、間違ってなんかいない)

この夜を境に、陽向は本気になって勉強を始めた。将来取り組みたい研究ができるようになるには、国内でトップクラスの研究室のある大学に進む必要がある。その前にまずは高校受験だ。

 受験勉強に向かってアクセルを踏み出したおかげで、陽向は志望していた都内トップクラスの進学校に入学できた。

 朔也は、陽向が更に三年後、東京大学の情報理工学部に現役で受かるところを見ることはなかった。初めから二年の約束で日本に来ていた彼は、陽向が高校二年生の時に再びアメリカに戻っていったからだ。

 朔也がいなくなってしばらく勉強も手につかないくらいに、陽向は落ち込んだ。彼のことばかりを考えては泣いていた、あの頃、これが自分の初恋だったのだと気づいた。

 淡い恋心は、しかし、日々の生活の中にいつしか埋もれていった。

学業は順調だったが、恋愛ではうまくいかなかった。母が車の事故で亡くなるという悲しい出来事もあった。朔也のことを思い出すことも少なくなった頃、ネットで駆け巡ったニュースに彼の名前を見つけて、久々に胸が騒いだ。

「……スタンフォード研究所の久藤君のラボが、量子コンピューティングの画期的な理論を発表したそうだよ」

 自分のことのように誇らしげに陽向に知らせてきたのは、父の孝之だ。

 その理論はこれまで困難だとされていた量子コンピュータの汎用化への道を切り開いたとされ、主任研究員だった久藤朔也の名前を一躍世界に知らしめた。ネットで読んだ記事の中で、朔也が、将来、この理論を汎用型人工知能の開発に用いたいと語っていたのに、いつかの夜に彼と語りあった夢のことが鮮やかに思い出された。あの時は自分の夢を彼に聞いてもらいたいばかりで、彼がみなぎる才能で将来何をするつもりなのかは聞かなった。もしも、日本でしばらく交流のあった、頭でっかちの生意気な女の子が語った夢が、彼の頭の片隅にずっとあったのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。

(朔也兄さんとはいつかきっとまた会える気がする。私が、自分の夢に向かってこのまま突き進んでいれば、その先いつか、彼の歩く道と交わるはずだもの)

 実際、陽向が朔也と再び出会うには、それから更に二年の年月を待たねばならなかった。

 神戸に設立が決まった、理研の付属機関、汎用型人工知能研究所の初代所長となった陽向の父が、彼をそこの脳型人工知能研究開発チームのリーダーとして招聘したのだ。

 二〇二三年の秋。四年ぶりの再会は、関西国際空港の到着ロビーでだった。父が神戸に単身赴任になった後、東京で独り暮らしをしていた陽向は、その知らせを聞いた後、彼に一目会いたい一心で駆け付けた。

 大勢の研究所職員が歓迎ムードで出迎える中、部外者の陽向は遠慮して、人垣から少し離れた場所で彼を眺めていた。孝之が一緒ならよかったのだが、学会シーズンのこと、生憎父は不在だった。

 久しぶりに見た朔也は大人の男性らしく少し逞しくなったくらいで、四年前に別れた時とあまり変わっていなかったが、周囲の対応は天と地ほどにも変わっていた。未来のチューリング賞候補と早くもささやかれているだけに、マスコミ関係者らしいグループもいくつか集まっている。

 大仰な雰囲気に何となく近づきがたいものを覚え、話しかけに行くのはあきらめて帰ろうかと思い始めた矢先、陽向の存在に気づいた朔也の方が動いた。

「陽向ちゃん?」

 懐かしい声が呼ばわるのに、陽向の胸の中で心臓が跳ねあがった。そちらに顔を向ければ、朔也が、大きく手を振りながら、人波をかき分けて足早に近づいてくる。

「ああ、やっぱり陽向ちゃんだ」

 にっこりと白い歯を見せて屈託なく笑いかけてくる朔也の顔は、陽向が多感な時期に恋をした四歳年上の優しい天才少年のもので、彼女の心を一気に過去に引き戻した。

 久しぶり、元気そうで何よりね、おばさんのことは気の毒だった……互いにちょっと緊張気味に再会のあいさつを交わした後、朔也はじっと陽向を見つめ、戸惑うような、照れくさそうな口調で言った。

「最後に会ったのは高校生の時だったからかな……見違えるほど綺麗になったね、陽向ちゃん」

 物に動じない天才に、こんな顔をさせることができたのなら、頑張っておしゃれをして、わざわざ東京から飛んできたかいがあったというものだ。気持ちのほぐれた陽向は、物おじしない眼をまっすぐ彼の顔に当て、明るく笑いかえした。

「そういう朔也さんは、ちっとも変わってない。昔も今も、すごく素敵よ」

 それから半年もたたないうちに、陽向と朔也は付き合うようになった。東京と関西を行き来する遠距離恋愛だが、朔也は仕事で東京に出ることも月に何回かあったし、陽向も学会発表で関西に出かけることがあれば必ず朔也に連絡を入れた。SNSの発達した時代に育った二人は、ネットを通じて相手とつながっていればさほど不満を覚えなかった。

 共に研究に忙しい身であり、互いを束縛しない、そのくらいの緩いつながり方が楽なのだろう。少なくとも陽向の方は、そう思っていた。身近な友人からは、本当に付き合っているのかとか、ぼんやりとしていると押しの強い関西女に将来有望な彼氏を取られるわよとか説教されることもあったが、陽向にはピンとこなかった。こういうところがドライに見えて、大学の身近な男性には敬遠されたのだろう。

 結局、朔也とのつかず離れずの恋愛関係は、陽向が博士課程を修了するまで続いた。結婚の話が朔也の口から出たのは、その頃だ。陽向はまだもう少し先でもいいような気がしていたが、父親と朔也の所属する汎用型人工知能研究所のAIのコミュニケーション研究チームに研究員の募集があったため申し込んだところ採用になり、神戸に移り住むのを契機に一緒に暮らそうということになった。

「私、仕事が決まったばかりだし……朔也さんと結婚しても、子供を持つのはもう少し先の話になるけれど、それでもいい……?」

 初恋の人からの、一生に一度のプロポーズ。素直に舞い上がって、映画のように恋人の顔にキスの雨を降らせながらイエスと叫ぶ可愛い女になれたらよかった。こんな条件を彼との結婚につけるつもりなんて、本当はなかった。

「僕だって、陽向との新婚生活をしばらく楽しみたいからね。子供は、僕達の心の準備ができてからでいいんじゃないかな」

 家庭よりも研究者としての自分のキャリアを積むことを優先するなんて、自分の口から出た言葉の身勝手さに我ながら唖然となっている陽向を、朔也は甘やかすような穏やかな言葉で許し、受け入れてくれた。

 実際、妻の仕事に理解のある夫との新婚生活は、陽向にとって、結婚前に抱いた不安など吹き飛ぶほどに幸福なものとなった。

「朔也君が陽向と結婚してくれるなんて、なんだか夢を見ているみたいだよ。この娘は、男には目もくれずに研究ばかりしているものだから、このままでは一生独身かと危ぶんでいたんだ」

 二人の結婚を誰よりも祝福したのは、陽向の父、孝之だった。朔也が十代の頃から研究者として高く評価し、実の息子のようにかわいがっていたのだ。週末になれば父が住む家と朔也と暮らし始めたマンションを頻繁に行き来する暮らしは、かつて東京の家で、朔也がよく招かれた団らんを思い出させる温かいものだった。

 口には出さないものの、妻を亡くして単身、住み慣れない街での暮らしには、寂しさを覚えていたのだろう、孝之が早く孫の顔を見たがっていることは陽向も感づいていた。しかし、年齢を感じさせないほど若々しく、ずっと現役で働いている父の姿に油断し、その願いは無視してしまっていた。

「どうして、お父さんが元気なうちに、その願いを叶えてあげられなかったんだろう……私、いつも自分のことばかり考えてた……」

 孝之は、陽向達と正月を一緒に祝った直後、脳出血のため自宅で急死した。会った翌日から急に連絡がつかなくなったことを不審に思った陽向が訪ねていくと、彼はリビングの床で既に冷たくなっていたのだ。

「陽向、そんなことを言うものじゃないよ」

 ショックのためしばらく放心状態だったのが、我に返ると急に父に対する申し訳なさがこみあげてくる。自分を責める陽向を抱きしめ、朔也は何度も言い聞かせた。

「自分の背中を見て育った君が、子供の頃からの夢をまっすぐに追いかけて研究者になったことが、宇和先生にとって何より誇りだったんだよ」

「そうだとしても、私、お父さんに褒めてもらえるような成果はまだ出せてない……父さんも母さんも、どうして、こんなに早くいなくなってしまうの……?」

 家族という幸せは、当たり前のように消費しているうちには気が付かないけれど、失って初めて、どれだけ自分がそこに依存していたのか分かるものなのだ。

幼い頃から多大な影響を受け、母を亡くした後は唯一の肉親として大きな支えだった父を失い、呆然となっている陽向を、朔也は誠実に支えてくれた。

「僕が君を守るよ。約束する。決して、君を独りにはしない」

 涙にくれる陽向の耳に、辛抱強く囁き続ける声が、陽向の打ち震える胸に染み入り、傷ついた心を静かに癒していった。

 大丈夫。朔也のことは信じられる。彼がそう約束するのなら、陽向がこの世界に独りぼっちで取り残されることなど決してない。



――嘘つき……。

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