22. こんな時間にどうしたの

 終電はまだ間に合う。けれど、家に帰っても冷蔵庫の中は空だ。インスタント食品やレトルト食品の在庫も尽きている。

 いつもなら近所のコンビニで食料を調達するところだが、疲労困憊の足は最寄り駅から三つ先のホームに降り立つ。ふらつく足取りで外灯の下を歩き、見慣れたアパートの一部屋の前で立ち止まる。

 チャイムを押して用件を伝えると、どかどかと足音が迫ってきて、すぐに玄関のドアが開く。


「……姉さん。こんな時間にどうしたの」


 音夜おとやは残業をしていたのか、いつもは下ろしている前髪をバックで固めていた。黒縁眼鏡の奥にある瞳は、困惑したように揺らいでいる。

 足元を確認すると、玄関にきれいに置かれている靴は一足だけ。来客はないようだが、夜遅くの訪問は迷惑だったかもしれない。


「……もしかして、お邪魔でしたか」

「なんで敬語なんだよ」

「頼み事をするなら、言葉遣いは丁寧なほうがいいかと……」


 いくら姉弟でも、こちらはお願いにあがった身。お互い成人しているからこそ、貴重なプライベートの時間を割いてもらうのに、それなりの誠意は見せておきたい。


(面倒見のいい音夜のことだから、追い返されたりはしないと思うけれど……)


 軽く緊張しつつ、無言になった弟の返答をしばし待つ。


「別に……邪魔とか思わないから。それより、頼み事って?」


 何かに諦めたような問いかけに、香凜はしずしずと頭を下げた。薄汚れたヒールのつま先を見て、そろそろ磨かないといけないなと思う。


「ご飯を恵んでください」

「……わかったから、早く上がって」


 促されるままに家に上がると、整理整頓された部屋に通された。実家のときも几帳面な性格と思っていたが、一人暮らしでもそこは変わらないらしい。

 自分の部屋と比べると、精神的ダメージが増えるだけになるので、よそはよそ、と割り切っておく。

 一人用の低いテーブルの前に座り、冷蔵庫の中を検めている弟に振り返る。


「私が言うのもなんだけど、彼女が来たりしないの?」

「彼女は家にあげない。それに、今はフリーだし。人間関係も疲れたから、しばらくは独り身でいい」

「……そっか。疲れるよね……社会人は」


 しみじみと同意すると、哀れみの視線が突き刺さる。同じ土俵で戦っている同志だと勝手に思い込んでいたが、実は違うのかもしれない。勤めている会社が違うなら、それも当たり前かと思い直す。

 音夜は冷蔵庫から取り出したビールの缶を机に置き、ぼそりと問いかける。


「明日は休み?」

「……うん。休みをもぎ取ってきた」


 休みは与えられるものではない。もぎ取るものだ。

 新入社員時代は言いようにこき使われてきたが、ベテランの今は過労死という言葉が脳内でリフレインする。体力も落ちてきた三十代、休日出勤なんてしてたまるか、という強い意志が必要になるのだ。

 音夜はそっか、と小さく相づちを打つと、プルタブを引いてあおるように飲む。


「俺も土曜はオフだし、買い出しに付き合ってもらうから」

「……私は荷物持ちなのね」

「姉さんの好きな食材を買いに行こう。美味しいもの食べて、いっぱい寝て、そんで来週からまた頑張ればいい」


 音夜は相変わらず仏頂面のままで、無言で見つめてくる。

 まさかの優しさの総攻撃に言葉を失い、涙腺がゆるみかけた。こみ上げる気持ちをやり過ごし、両手で顔を覆ってうつむく。


「あなたは神か……」

「それ、弟に言う台詞じゃないよ」

「なかなか、徳を積んでいらっしゃる」

「その表現もちょっと……」


 むむう。的確な表現が見当たらない。

 だがしかし、この感謝をどうにかして伝えたい。その一心で香凜は口を開く。


「私、彼氏はいらない。音夜がいれば、充分幸せだから」

「いや、彼氏はちゃんと作って。いくら俺でも、老後までは面倒みれないよ」


 冷静な突っ込みにうなだれていると、電子レンジから電子音が聞こえてくる。音夜が席を外したのを横目で見送り、ちびちびとビールを飲む。

 コトン、という音に意識を戻すと、机に複数の小皿が並んでいるところだった。ご飯もよそってある。


「残り物だけど、まあ、食べて」

「……いただきます」


 箸を手渡しで受け取り、薄茶色に染められた卵を最初に口に運ぶ。冷蔵庫で冷やされていたからか、ひんやりとしているが、ほどよく味が染みこんでいる。隣にあるきゅうりの炒め物も気になる。


「味はどう?」

「この煮卵、お店の味がする。黄みもとろとろだし、お酒にも合う!」

「作り置きだけどね。満足してもらえたならよかった」


 料理の腕は信頼していたが、ここまでとは。これまでに食べさせてもらったものは、いつも作る料理は自分好みの品目だったから、正直びっくりした。

 見た目は素朴なのに、しっかり味付けされているから、ご飯も進む。一週間前も食べたばかりなのに、手料理に飢えていた身にとっては聖水のように浄化されていく心地になる。


(……音夜。あなたは今、何から逃げているの……?)


 まどろむ夢の中、問いかけても答えは返ってこない。瞼が重くなり、意識が水底に沈んでいく。目を閉じる前、照れたように口元をほころばせた顔が脳裏をよぎった。


     ◆◇◆


 教室でお弁当を広げながら、絃乃は窓の外を見つめた。外は突き抜けたような空で、樹の上部が赤く色づき始めている。もうしばらくすれば紅葉も見頃だろう。


(連続失踪事件の次の被害者は、本当なら私だったのよね……)


 号外新聞で報道されていた令嬢は数日後には無事帰宅したらしいが、身代わりだと思うと到底、他人事だとは思えない。

 しかし、買収されていたボーイの足取りもわからない今、絃乃ができることは何もない。


(それに……両思いだとわかったけれど……あれから進展はなしなのよね)


 詠介と思いを通じ合わせたものの、表立って交際を始めるわけにもいかず、結局はいつも通りの日常を過ごしている。

 思い悩む絃乃の耳に、百合子のおっとした声が滑り込む。


「何だか、嬉しそうね」

「うふふ。わかる?」

「何があったの? 幸せを独り占めだなんて、よくないわ」


 雛菊は頬に手を当てて、口元をゆるめた。


「昨日、婚約指輪をいただいたの。大粒のルビーの指輪よ。わたくし、指輪をもらったのは初めてだから、昨日はずっと眺めていたわ」


 左手を掲げて、薬指をそっと撫でる。まるでそこにはめてあった指輪を愛でているような動きだ。百合子が相づちを打つ。


「へえ、よかったわね。公隆さんが選んでくださったの?」

「そうなの。私には赤い宝石が似合うんですって」


 いつもは自慢話はほとんどしない雛菊が言うのだから、よっぽど嬉しかったのだろう。

 夢見がちに微笑む顔を見て、百合子が羨望の眼差しを向けた。


「いいわねぇ」

「……百合子?」


 絃乃の問いかけに、百合子は恥ずかしそうに目を伏せた。


「うらやましいなと思って。私はどのくらい好かれているのか、ときどき不安に思うの」

「何言っているの。あなたたちは誰が見ても相思相愛じゃないの。二人の寄り添う姿を見るだけで、こっちは胸焼けがしそうよ」


 雛菊が言うと、百合子は遠慮がちに首を横に振った。


「だけど、私では初恋の君には勝てないわ……」

「初恋の君?」

「彼、許嫁同然に育った幼なじみがいたらしいの。彼女は若くして空に旅立ったらしいのだけど……八尋様は、今でも彼女のことが忘れられないみたい」


 百合子の箸は止まっている。絃乃は雛菊と目を合わせ、アイコンタクトを取る。

 彼女に悲しい顔は似合わない。のどかな笑顔が一番似合う。


「過去は変えられないけど、今は百合子のことを大切に思ってくれているのでしょう? 思い出が気になるのもわかるけど、信じて待つことも大事なのではなくって?」


 雛菊の励ましに絃乃も同調する。


「そうよ。百合子はこんなに魅力的なんだもの。不安になる必要はないわ。もし、百合子に不満があるっていうのなら、私たちが懲らしめてやりますとも。ねえ、雛菊?」

「もちろんですわ」


 百合子は感極まったように目元を潤ませ、二度頷く。


(どうやら気持ちは伝わったようね……)


 このぶんなら、ゲームのエンディングは心配ないだろう。残る懸念は葵――弟のことだけだ。彼を救うために自分にできることは何があるだろう。


(詠介さんの力を借りるには……すべてを話すしかない。でも信じてもらえるかは賭けになる)


 秋の装いになった校庭を見下ろしながら、絃乃はそっと息をついた。

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