琵琶の名手、ここにあり


 少年は、今日も弟妹ていまいたちに頼まれて、琵琶びわいていた。

 曲名きょくめいは、“生々流転せいせいるてん”。その名の通り、刻一刻こくいっこくと変化する万物ばんぶつ――――ここでは特に自然――――を主題しゅだいにした名曲めいきょくである。それと同時に、森羅万象しんらばんしょうあますことなく表現しなくてはならないため、花国に古くから伝わる曲の中でもひときわ難曲であるとされていた。

 その難曲を弾きこなす少年の名は、はく月影げつえい

 そう、珀月影である。

 なにしろわずか四つで琵琶のすべての奏法そうほうを完璧に習得しゅうとくし、周囲の大人たちを驚かせ、八つの時には、花国の古典的でかつ一番難しいといわれている名曲をすらすらと弾きこなしてみせた、早熟そうじゅくの天才少年である。それにより、彼の名声は止まる所を知らず、よわい十三になった今では、“白西はくせいしゅうにこの人あり”と、うたわれているほどであった。

 そんな当代とうだい随一ずいいちの琵琶の名手は、曲の最後の音まで丁寧ていねいに弾ききると、げんからそっと指を離した。

 清く澄んだ音が、静寂しじまひびわたる。

 その余韻よいんにしばし浸たっていた彼の二人の弟妹は、音の気配けはいが完全に消えると、じていた目蓋まぶたをゆっくりと開けた。 

「わぁ――――っ! すごいです、兄上!」

「にいさま、すっっご――――いっ!」

 二人は、素晴らしい演奏を披露ひろうしてくれた兄に、割れんばかりの拍手を送る。

 それまでずっと琵琶をかまえたままであった月影は、ここで始めて表情を緩めた。月影の全身から、ふっと緊張が抜ける。

 奏者そうしゃから、兄の顔に戻った月影は、左手で琵琶のさおをつかむと、座っていた椅子いすからすっと立ち上がった。それを合図に、おとなしく椅子に座って彼の調べを聴いていた二人の弟妹も、仲良く兄のそばへ駆け寄る。

 そんな二人に向かって微笑みつつも、月影は愛器を卓子たくし(机のこと)の上に静かに置いた。

「兄上」

「うん? 何だい竣影しゅんえい?」

 月影は、右手に着けていたべっ甲の爪を外しながら、話しかけてきた弟の言葉に応える。

「さすが兄上! 素晴らしい演奏でした。僕も早く兄上のように、弾けるようになりたいです」

「わたしも! わたしも!」

 ただ純粋に兄のことを慕っているのであろう。二人のキラキラと光る瞳が、月影に尊敬のまなざしを送る。

 しかし、二人の素直なほめ言葉に反し、月影は首を横に振った。

「そんなことはないよ。竣影、月華げっか。僕を買いかぶりすぎだ」

 そんな兄の言葉を否定するために、竣影は口調を強めてこう言った。

「いいえ兄上! 兄上は、謙遜けんそんしすぎです。珀家の名を国中くにじゅうに知らしめたお方に相応ふさわしい、見事な演奏でございました。おまえもそう思っただろう。な、月華?」

「はいっ! わたしもそう思いました。やっぱり、月影げつえいにいさまはすごいお方だと思います!!」

 竣影にいさまにこう問いかけられた月華は、首を縦に大きく振り、元気いっぱいに答えた。

 ほらね。その姿を見て、竣影は得意げに笑った。

「そうですよ、兄上。僕は、兄上の謙虚けんきょな姿勢も尊敬そんけいしていますが、ご自分にもっと自信をお持ちください」

 手放てばなしにほめられて、くさくなったのだろう。月影は、左手で、ほほをぽりぽりとかいた。

「わかったよ、二人とも。ありがとう」

 竣影と月華にはかなわないな。

 二人の弟妹に力説りきせつされた月影は、微苦笑びくしょうを浮かべながらも頷いた。

「よしっ! じゃあ竣影、月華。今から、君たちの琵琶の稽古けいこをつけてあげよう」

 ぱんっと一つ、手を叩いた月影は、にっこりと笑ってみせた。

「誠にございますか、兄上!」

「わたしも、月影にいさまとおけいこする!」

 二人の顔が、ぱっと輝く。

 しかし、わたしもする! そう言った月華に、常日頃つねひごろから、兄上は、僕のものだ! と思っている竣影は、

「月華。おまえにはまだ早いんじゃないか。たいして弾けもしないくせに、兄上に稽古をつけていただくなんて、生意気なまいきだな」と言って、妹をけん制した。

 竣影にとって、妹の月華は月影という兄の良さを共に分かり合える相手であるが、同時に、月影を巡って争う、好敵手ライバルでもあった。

 そんなわけで、彼はどうしても、月華に優しくすることができないときがあるのだ。

「そんなことないもん! わたしだって、少しならひけるわ。竣影にいさまの、いじわる!」

 竣影の馬鹿にしたような口ぶりに、月華はふんっとすねた。

 月影にいさまはみんなにやさしいのに、なんで竣影にいさまは、わたしにときどき意地の悪いことをおっしゃるの?

 そう思うと悲しくて、月華はくちびるをかんだ。

「こらこら、竣影。月華のやる気を削ぐようなことを言ってはいけないよ。何事も、修行を積まなくては一人前にはなれない。どんなことでもね。だから、努力しようとしている人の行動を、邪魔してはいけないよ。特に、自分よりも年下の者については。ね?」

 妹のかわいそうな姿に見かねた月影は、助け舟を出してやる。

「………………わかりました。兄上が、そうおっしゃるのなら」

 尊敬する兄にたしなめられた竣影は、唇をとがらしながらも渋々うなずいた。

「じゃあ二人とも、自分の琵琶を持っておいで」

「はぁい、にいさまっ!」

「はい、兄上!」

 そう元気よく返事をした竣影と月華は、へやから回廊かいろうに先を争って飛び出した。二人は、ぱたぱたと、回廊を我先に駆けていく。

 その二人のどこか微笑ましい姿に、月影は、首だけをひょいっと室からのぞかせながら、穏やかな顔つきで見送った。

 二人のはしゃいだ声が、足音と共に遠ざかっていく。

 それとほぼ入れ違いに、一人の少年が月影の室の前にやって来た。

 彼は、「失礼しますよ、月影坊ちゃん。良かった、こちらにいらして」と言って、月影のいる室に入ってきた。そして、二人が開けっ放しにしたまま出て行った室の扉を閉める。

侘施タシ。どうしたんだい?」

 月影は弟妹と入れ違いに入ってきた、自分と同い年の少年に問いかける。

 その言葉に、月影の家の使用人として雇われている少年――侘施は、月影に軽く頭を下げた後、伝言として主家のある人から預かった言葉を告げた。

「急ぎ、母屋おもやにお戻りください。大旦那おおだんなさまが、坊ちゃんをお待ちです」

「お祖父じいさまが?」

 月影は、思わず首を傾げた。あのお祖父さまが、僕に何の用だ。

「はい。なんでも、とても大切なお話がおありとか」

「とても大切なお話??」

 それって、なんだ? 月影は、腕を組んで思考を巡らせる。

「侘施。何か、知っているかい?」

「いえ、僕は特に何も。ただ…………」

 侘施は、遠慮がちに言葉を繋げようとした。

「ただ?」

 そんな彼に、月影は続きを言うように促す。

「もしかしたら、月影坊ちゃんの今後が大きく変わるかもしれないと、一言だけ」

「僕の今後????」

 月影の頭に、ますます多くの疑問が浮かぶ。あまりにも突拍子もない上に、自分の将来が変わるかもしれないと言われても、思いつくわけがない。第一、まだ将来の具体的な進路など、この時の月影は、少しも考えていなかったのである。

「ま、いっか。とりあえず、行こう」

 月影はこう言い切ると、あっさりと考えることを放棄した。もともと、彼はわからないことを――――特に、雲をつかむような話――――については、あんまりくよくよと考え込むことはなかった。考えても、時間の無駄である。それが、月影の自論だ。

 それから、月影は侘施に、弟妹と琵琶の稽古ができなくなったことに対しての詫びの言葉を言付けると、一人、祖父の待つ母屋の奥の室に向かったのであった。

 

 

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