第31話 熊さんの奥さんの話

 私の胸はざわざわと鳴り続けていた。そんなことはあるはずはないと、何度も何度も頭の中で否定した。でも、否定しても否定しても否定しきれない不安な何かがあった。

「よっ」

 顔を上げると熊さんだった。

「なんだなんだ、猫がしょんベンひっかけられたみてぇな顔して」

「かけられてませんよ」

 私は笑った。

「また悩み事か」

「ええ・・」

「男だろ」

「分かるんですか」

 私は少し驚いた。

「だてに五十年以上生きちゃいねぇよ」

 笑う私の隣りに熊さんは座った。

「ほれっ」

 熊さんは買ってきた缶コーヒーを私に投げた。

「ありがとうございます」

 私は普段コーヒーは飲まないのだが、これはありがたくいただいた。私たちは横に並んであのいつもの階段に腰かけ、コーヒーをすすった。

「悩みがあるなら、言ってみな。俺が全部聞いてやるぞ」

「うん・・」

 私は、熊さんのやさしい表情に促されるように雅男のことを話し始めた。話始めると、不思議となんの抵抗もなく話している自分がいた。口から言葉が溢れ出るように、次から次へと今までの雅男とのことを私は話していた。

「なるほどな」

 私の話を聞き終わった熊さんは、そう言ってしばらく何か考えていた。

「まあ、男と女ってのはな。中々複雑だからな。そこに加えてお前さんたちはさらに複雑だからな」

 熊さんはそう言ってまた黙り込んだ。私はそんな熊さんの横顔を見つめた。熊さんが黙って何か考えている場面なんて、今まで一度も見たことがなかった。

「俺には荒んでいた時期があったんだ」

 しばらくしてから、熊さんは突然口を開いた。熊さんは、いつにない真剣な表情をしていた。

「えっ」

 私は熊さんを見た。

「そんなキョトンとした目で見るなよ」

「はははっ、ごめんなさい」

「今はその面影はないかもしれないけどな、若い時、俺は無茶苦茶だったんだ」

 熊さんは少し遠くを見るように空を見上げた。

「前は、おどけて話をしたが、人から理不尽に差別されるってことは、自分の純粋な魂をえぐられるみたいに辛いことなんだ。自分は何も悪いことはしていないのに、ただ、顔が醜いってだけで、何の理由もなく理不尽に仲間外れにされ、無視され、見下され、バカにされ、いじめられる。こんな日々に俺はもう、冷静な自分を保ってなんかいられなかった」

「・・・」

「だから俺はもう何もかもどうでもよくなった。今まで信じてきたことも、守ってきたものも自分自身も何もかもどうでもよくなった。俺の中で何かが壊れちまったんだ。俺は荒れたよ。酒にケンカ、お決まりのコースだったけどな。誰も信じられなかったし、全てが憎かった。俺以外の全ての人間が幸せそうに見えて、その全てが憎らしかった。何もかも無茶苦茶になればいいって思った。大地震でも来て、こんな社会なんか全部壊れてしまえって思ったよ」

「そんな時が熊さんにもあったんだ・・」

「そう、あったのよ。そんな時代が。俺にもな」

 熊さんは遠くを見た。

「そんな時だった。女房に出会ったのは」

「前に言ってたAV女優の?」

「そう、まあ、恐ろしくきれいな人だったね。今でも覚えているよ。あの時のことは。初めて見た時のあの衝撃」

「・・・」

「俺は最初、惚れるって前にびびっちまった。あまりにきれいで凛としていたから。和服を着てさ、髪もピシッと結い上げてさ。ほんと、参ったよ。AVなんてどうせ、すれっからしのろくでもない女が出てくるものと思ってたからさ、もう完全に度肝を抜かれちまったよ」

 熊さんは照れたように後頭部を掻いた。なんだかそんな仕草がかわいかった。

「この仕事で出会ったんだ」

「そう、初仕事が彼女だったんだ。正に運命だよ」

 熊さんは冗談とも本気ともつかない表情で言った。

「俺は最初、AV男優として来ないかって誘われたんだ。丁度その時、風俗関係の仕事をしていてな。その関係の知り合いから若くて元気な奴いないかって話が来て、それで若かったし、元気だけは有り余るほどあった俺にその話が回って来た。そして、若かった俺はそのままその話に乗っちまったってわけだ」

「でも、いざ現場に行ったら、今まで見たこともないようなびっくりするくらい、すげぇ美人がいる。しかも、さっきも言ったが、恐ろしく美人だった。ただの美人じゃない。恐ろしいほどの美人だ。女として凛とした威厳と迫力があった。いや、それ以前に、醸し出すなんだか人間としての大きさがあった。俺は完全に圧倒され、ビビっちまった・・、つまり・・」

「できなかった」

 熊さんは恥ずかしそうにうなずいた。

「俺だって、まだ若かったが、それなりに結構経験はあったんだ。それに俺はそんなかんたんにビビる方の人間でもない」

「それは分かる」

「それでも、俺はびびっちまった。しかも完全に」

「へぇ~、熊さんが」

「それで俺は汁男優なんだ」

 熊さんは、私を見て照れ臭そうに笑った。その笑い方が、コミカルでかわいらしく、私もついつられて笑ってしまった。

「でも、彼女に魅せられちまった俺は、そのままこの業界に居座っちまった。どうしても離れたくなかった。どんな形であれ彼女のそばにいたいって思った。だけど、当然そんな男は俺だけじゃない。彼女の周りは、そんなうっとうしい男で溢れかえっていた。だけど、そんなむさくるしい男たちを全て彼女は受け入れていたんだ。信じられないくらい懐のデカい人だった」

「へぇ~」

「俺は彼女のそばにいられさえすればそれでよかった。同じ空間にいるだけでこの上なく幸せだった。恋とか愛とかそんな単純なものじゃない。もっと、こう、崇高な、バカな俺にはうまく表現できないけど、とにかく、すっごい愛だった。いや、やっぱ愛なんて生易しいもんじゃないな。もっと、こう、とにかくすごいもんだ」

 奥さんのことを語る熊さんはどこか嬉しそうだった。

「彼女はやさぐれた、醜い俺みたいなろくでもない若造にも対等にやさしくしてくれた。本当に仏様みたいな人だった。無理にがまんしてやさしくしてくれてるって感じじゃない。ほんとに心の底から滲み出る温かさと思いやりを感じた」

「そんなある日、仕事の合間だったか、終わってからだったか、なんかの時に、急に二人きりになった。その時、なんでそうなったのか今でもよく分からないんだが、多分神様のお導きかなんかだったんだろうな。俺は神様なんか欠片も信じちゃいないんだが、今ではなんだかそう思う。そして、これまたなんでそうなったのかよく分からないんだが、気付くと俺は彼女に今まで辛かった悩みや苦しみを全部話していた。口が勝手にしゃべってるような感じだった。彼女からなんか導き出されたというか、なんとなく彼女はそれを全部聞いてくれるような気がしたんだ。実際、彼女は、黙って聞いてくれたよ。不思議だった。今まで誰にも言えなかった話を包み隠さず、なんの抵抗も感じず全部さらけ出せていた」

「話ながら俺は泣いていた。号泣していた。号泣しながら辛かった胸の内を語っていた。全てを話し終わった後、彼女は俺を抱きしめてくれた。人ってこんなに温かいんだって初めて知った。本当に心底人の温もりを感じたよ。今までカチコチに凍っていた俺の心が解けて行くのを感じた」

「そして 彼女は言った。あんたは醜くないって。あんたは決して醜くなんかないって。俺は嬉しかった。ほんとに嬉しかったよ」

「でも、俺は信じられなかった。彼女のやさしさが。彼女の言葉が。俺の心はまだひねくれていたんだ」

「・・・」

「それで俺は言ったんだ。俺のこと本気でそう思うのかって。そして、だったら、俺と結婚できるのかって、訊いたんだ」

「そしたら、彼女は「いいよ」って言った。いともあっさり、かんたんに「いいよ」って。何のためらいもなくだ。俺は驚いて彼女を見た。彼女の目は真剣だった」

「そして、彼女は言った。私でいいのって。俺は、もうその時、神様がいるとしたらこんな感じなんだろうなって思ったよ。もう俺は完全に参っちまった。俺は完全に彼女に持っていかれちまったんだ。魂から何もかも。でも、その時、俺は彼女が、「私でいいの」って言った本当の意味を全然分かっていなかった。俺は舞い上がっちまっていたんだ」

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