第24話 弱さ

 同級生たちが彼氏や彼女を追いかけ、当たり前にある青春を謳歌している時、私は目の前の苦しみから逃れることだけに精いっぱいだった。

「なんて惨めなのだろう・・」

 私はふと、自分のそんな人生を振り返る時がある・・。


「あいつは、俺と弟がテレビ見てたり、なんか部屋で寝っころがってたりするだろ。そうすると、ちょっと邪魔な段ボールでも蹴るみたいに、「邪魔だって」、そうやって蹴るんだ。その辺の石ころでも蹴るみたいに、「邪魔だって」軽い感じでさ。当たり前みたいに。それが日常だった。それがうちの常識だった。蹴られることが当たり前だった。殴られることが当たり前だった。暴力を受けることが当たり前だった。俺たちはそういう存在として育ったんだ」

 雅男は暴れ疲れると、昔の話をするようになった。うずくまり、打ちひしがれた少年のように、雅男は力なくそれを語った。

「あいつは機嫌の良い時もあった。おもちゃを買ってくれたり、一緒に遊んでくれたり・・、キャッチボールなんかもしたんだ」

「・・・」

「でも、あいつは突然豹変した・・」

 雅男の目が鋭くなった。

「別に何もしていないのに。突然、怒鳴ったり、喚き散らしたり、物を壊したり、母さんや俺たちを殴ったり、蹴ったり、暴れだすんだ。そうなったら誰も止められなかった。変に止めに入ると余計に酷くなった。だから、なすがまま、ただ終わるのを待つんだ・・」

 雅男は、膝の間にうずめるように顔をうつむけていた。

「家族はみんなびくびくしていた。あいつはいつ、何で怒り出すか、何を言い出すか分からなかった。だから、とにかく、近づかないように、触れないように息をひそめていた。地獄だった。いつも何かに怯えて、息を殺してた。家の中なのに、いつも戦場にいるみたいだった」

「・・・」

「殴るだけじゃなかった。一番嫌だったのが、突然、「お前たちはなんでそうなんだ」って、「お前たちはなんでそんななんだ」って。突然難癖付けるみたいに言い出して、説教を始めるんだ。もちろん俺たちは何も悪いことなんかしてない。ほんとに訳の分からない難癖付けるみたいなさ理由でさ。突然怒り出して・・」

 雅男は顔を歪めた。

「俺たちが何か悪いことをした時ならまだ分かった。見ちゃいけないテレビを見てたとかさ、でも、そうじゃなかった。あいつが怒る時はいつも、いつも訳の分からない理由だった。ただ単に機嫌悪いだけ。虫の居所の問題なんだ。それもいつ何が引き金になるのか分からなかった。突然なんだ。いつも」

 雅男の表情に露骨な怒りの表情が浮かんだ。

「説教は二時間も三時間も続くんだ・・。時には四時間も五時間も。夜中までやってたこともあった。深夜十二時の針が回ってさ。その時は、そんな時間まで起きてたことがなかったから、なんか罪悪感というかなんというか、不思議な違和感があった。眠いとかなんとかじゃなくて、未知の時間を経験しているっていう妙な感じ。そんな時に、壁に掛けてあった鳩時計が間抜けな音を立てて鳴くんだよ。ポッポー、ポッポーって。状況は凍りつくみたいに緊迫しているのにさ」

 雅男はそこで少し笑った。

「しかも、あいつの言っていることは訳が分からなかった」

 雅男は心底嫌そうに顔を歪めた。

「本当に訳が分からないんだ。あいつは言語系が少しおかしかった。いや、少しじゃない、大分おかしかった。だから、普段から話が訳分からなかった。会話が成り立たないんだ。一見普通なんだけど、何かがおかしかった。独特な、遠回しな回りくどい話し方をするんだ。話をしていくと、なぜか分からないんけど、禅問答みたいな変な哲学めいた本題からずれた明後日の話になっていくんだ。だから、話し合って、何かを分かり合うとか、理解し合うなんてことが全くできなかった。あいつは何か人に対する共感能力というか理解力が病的に欠落してた。そう、本当に病的に欠落していた」

「そんな訳の分からん話をさ、小学生だった俺たちが、二人してずっと立たされたり、正座させられたりしてさ。延々聞かされるんだ。もう、殴って終わりにしてくれた方がよっぽど楽だったよ」

 雅男は苦笑いを浮かべた。

「それでもさ、小さかった俺たちは、自分たちが悪いんだって思ってた。自分たちが悪い子どもだから、父さんが怒るんだって。自分たちが悪いから、自分たちがバカだから、自分たちが間違ったことをするから殴られるんだって、説教されるんだって、父さんが怒るんだって、自分たちが悪いんだって、本気で思ってた。自分たちはなんてダメな子供なんだろうって真剣に思ってた。本当にそう思ってたんだ」

 雅男は、小さく笑った。

「ほんとにそう思ってた。自分たちが悪いんだって・・、そして、心のどこかで、今でもそう思ってる・・」

 雅男は笑いながら涙を流した。最後はもう消え入りそうな声だった。

「雅男・・」

 

「女は弱いもんだ」

 マコ姐さんが言った。

「どうしたんですか。今日はしみじみとしちゃって」

 私は隣りでタバコを吸うマコ姐さんを見た。多分、恋多きマコ姐さんにも何かあったのだろう。

「女は弱い。どうしようもなくな。相手がほんとどうしようもない奴でも、ほんとしょうもない奴でも、一度愛しちまうとだめなんだな。逃げりゃいいのに。全てをほっぽり出して逃げりゃいいのにさ。それができない。女はなぁ・・」

 マコ姐さんはため息と同時にタバコの煙をビル風に乗せた。ビルの屋上は今日も都会の喧騒から隔絶されたようにそこだけ静かだった。

「惚れた女は弱いよ」

 マコ姐さんは、改めてまたため息交じりに言った。

「・・・」

 その言葉は今の私にはなんだか深く沁みた。

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