③
同日 午後二時頃 ヴァリダーナ回廊西端 聖王国軍本陣
「アウィトゥスの奴め……。戦功欲しさに勝手に攻め込みおって!」
金髪を肩まで伸ばし、髭を立派に蓄えた壮年……
「モンス・ネメッソス司教殿の独断専行により、我が軍は虎の子たる騎兵を七百余り
失いました。しかも帝国軍が捕虜を取らず包囲した騎兵隊を全滅させたことで、我が軍全体が浮足立っております。更に悪いことには、司教殿は既に残存兵を抱えてそのまま戦場を離脱したとのこと。これでは全軍の士気に関わります」
彼はシャルルに対し、冷静に状況を分析した。一見すると副官のように見えるが、実のところ彼は
レーモンの指摘を受け、眉を更に深く
昨夜、聖王国諸侯を集めて行われた軍議では、まず中央の帝国歩兵隊に対しては同じく歩兵を以て当たり、弓兵隊の援護も受けるということが話し合われた。更に、側面に回り込まれることを防ぐために両翼に騎兵隊を配置し、数的優位を生かして圧倒するという基本戦略で諸侯の合意を取ったはずだった。
しかし、つい数時間前に早速その戦略は綻びを見せた。
他の諸侯が戦支度をしている隙に、
しかし問題なのはその帰結だ。結果的に司教軍の騎兵隊は半数以上が討たれ、その残虐なさまが本陣に伝えられると、聖王国軍は軽い恐慌状態に陥った。かろうじてアウィトゥス以外の諸侯軍が退却するのは抑えられたが、かえってなし崩し的に攻撃を開始する諸侯の動きは止められなかった。結果的に当初思い描いていた通りの用兵ができなくなったことは、シャルルにとって痛手であった。
「レーモン殿……聖王国軍は明らかに統制を欠いている。彼らを導くべきは誰だ?」
声音が段々と低くなる様は、シャルルの怒りがひとまず収まったことをレーモンに悟らせた。しかし額に幾筋もの汗を浮かべて唇を嚙む彼の姿は、どうにも自身を信じ切れていないように見えた。同時に、あと少しだけ背中を押してほしいと懇願しているようにも思えた。レーモンは迷わずに応えた。
「無論、シャルル殿でしょう。口だけの聖王に、誰が付いていきましょうか」
この遠征、そして正戦の開始を宣言したヴェルランド聖王アルフォンスではなく。
大諸侯とはいえ、貴族の一人に過ぎないシャルルが聖王国軍の実質的な大将であると断言するレーモン。しかし、その答えを待っていたと口の端を上げる公爵。
レーモンは言葉を続けた。
「我ら南部諸侯にはさんざん出兵を煽っておいて、戦場に連れてきたのはたった三百の騎士に五百の傭兵隊……。それも陣頭に立つことなく、我らの後方で高みの見物を決め込んでいるのです。誰も総大将と認めるわけがありません。
諸侯にとっては主君であるはずの聖王を苔にするような物言いだが、言っていること自体に虚偽は無い。この戦場に参陣した聖王国諸侯の中で、聖王の為に戦おうなどという者は殆どいない。出兵したのは聖王の要請によるものだが、報いようとする
レーモンは自分でも乱暴な言い方をしていることは分かっていた。しかしそんなことよりも、シャルルが奮起するように言葉を選ぶことを優先したのだ。
「……うむ。そう、だな。私こそがこの軍勢を率い、勝利をもたらすのだ」
その努力が実を結んだのか、シャルルは吹っ切れたように顔を再び強く上げた。
眼前にいるのは、多くの騎士と騎馬。二人の指揮官に背を向け、友軍が帝国軍と戦っている方へと目線を送っている。昨日まで、静寂の中で地平線まで緑が覆いつくしていた平原には地面が削れた跡が直線上に続いていて、向こうでは濃い土煙が上がっていた。直接聞こえなくとも、あの先には
何の為に戦うのか。幾ら御託を並べたところで、実際に戦うのは兵士なのだから。
それから一時間後。
シャルルとレーモンが本陣にて
しかし戦場から遠く離れたこの地では未だ軍靴の音はまばらで、ゆっくりとした時が流れている。その奥ばった所にある天幕の中で、一人の男が佇んでいた。
「ギュイテーヌ公が果敢に兵を動かし、全方面において我が軍が優勢……か。どうせレーモン辺りがシャルルの重い尻を上げさせたのであろう。単純な奴だ」
王冠を近くの木机の上に置いたまま、嘲るような笑いを浮かべたのはアルフォンス王その人である。その見た目は豪傑というのが最も相応しい。幾度も戦場を駆け抜けたことを思わせる、顔にできた幾つもの古傷。身長はそれほど高くないが、青を基調としたマントや衣服の上からも分かるがっしりとした体躯は他を圧する。
彼は机の上に置かれた回廊の地図を眺めながら、筋骨隆々とした腕を組んだ。
「とはいえ、シャルルに用兵の才は見えぬ……。いつまでも有効打を打てぬまま悪戯に兵力を減らすだけならば好都合だが、決定的な敗北につながる采配をしでかす可能性は無視できぬ……。だとすれば、穴になるのはここか……」
「今まで話したのを聞いていたであろう。……おぬしはどう思う?」
机を挟んでアルフォンスの正面には、鎧を纏った一人の青年がいた。二十歳ほどの若々しく整った顔立ちで、程々に伸ばされた銀髪が特徴的な男だ。白銀の
「……聞いてはいましたがね。俺は一介の傭兵、それも今は伝令ですよ? 仰っていたことはさっぱり分かりません。戦うしか能が無い猪武者なもんで」
聖王への返答にしては随分と粗野な言い方に、周囲の従士がぎろっと青年を睨みながら
「なるほど。ならば戦ってもらおうではないか。その為におぬしは今ここに存在しているのだからな。……ルイ・ヴェルディエよ」
「そうこなくっちゃ。貴方がどうして俺なんかを買ってくれてるのか分かりませんが、とにかく俺を戦場に出してくれるっていうんだ。どんな命令でも聞きますよ」
顔貌を狂喜に歪めながら、ルイ・V・ヴェルディエはそう言った。
嗚呼、ようやくだ。ようやく戦場に出ることができる。
夢にまで見た、あの戦場に……!
期待と興奮に胸を高鳴らせる青年の姿を見つめる聖王の瞳には、端から少しずつ黒みを帯びていく銀髪が映っていた。
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