第1話 災厄の皇子〈上〉


 ルミエルド聖暦六百四十五年四月十三日 午後三時頃

 アルザーク帝国 〈帝都〉グラーフェンヴェルグ


「――――じ……おうじ……皇子! お待ちください、皇子!」


 ある通りを、一人の少年が歩いていた。少し俯いていて、後方から呼びかける声に耳を貸そうともしていないようだった。その声の主は甲冑を纏った大柄の男であり、すぐ近くには陰険そうな男がもう一人控えていた。見たところ少年は、鮮やかな赤色と翠鷹すいようの紋章に彩られたコットと呼ばれる長袖の衣服に、純白のマントを身に着けていた。庶民とは程遠い格好で、貴族・皇族の子弟であることを伺わせる。

 さしずめ男たちは少年を警護する為に付けられた従士じゅうしといったところか。たかが少年、彼が軽装なのに対して男たちが鎧を着込んでいることを鑑みても、男たちが少年の足に追いつくことはそう難しいことではないはずだ。しかし男たちは少年に追いつけない。それどころか一方の少年は、男たちの監視下から逃れるように足早に歩みを進めている。……何故か。


『フィルナヴィアより届いた毛皮を帝都の職人たちが加工した織物の数々は、ルミエルド大陸でも随一の出来栄え! さあさあ、ぜひご照覧あれ!』

『貴族の小間使いの方々! 私どもの村で飼育された生の豚肉を買ってくだされ!』


 この大通りが、あまりにも多くの人で溢れ返っていたからである。

 アルザーク帝国の帝都・グラーフェンヴェルグ。その目抜き通りとして名高い菩提樹リンデン大通りでは現在、アルザーク皇帝の認可を得て週市しゅうしが開かれている真っ最中なのである。沿道には食料・必需品を扱う取引所がひしめき合い、客寄せの掛け声を上げていた。その掛け声に引き寄せられるかのように、多くの人々がこの大通りに集ってごった返している。鎧を装備した大柄の従士たちに比べ、単独でしかも小柄な少年にとっては極めて動きやすい場所。従士たちから逃れようとする彼にとっては、最良の場所であった。少年は五フースfußと四ダウムdaum(約百六十センチ)をやや超える程度で、人込みに埋もれてしまうほどの背丈ではないが、骨格はまだまだ未発達だ。ついでに言えば顔貌には幼さが残っている。とはいえ表情はあどけなさとは程遠く、厳冬の黄昏たそがれにも似た憂鬱がそこには在った。


「久しぶりに来ましたが、帝都がこれほど発展していたとは……。故郷のアルテナとは随分と差が開いてしまったようです」

「同感ですな。私なんてのはヴェストアール地方でも田舎の出身ですから」

「またご冗談を! トリアレンツが田舎なら、アルテナは廃村ではありませんか!」

「ははは、こいつは失敬! 帝都では故郷より冗談の風が強く吹いているようで」


 商人衆や出稼ぎの農民たちが店頭で織り成す、精気に満ちた掛け声。

 大通りを行き交う遍歴商人が道中で織り成す、希望に満ちた笑い声。

 それらを光とするならば、少年の様子はまさに闇。しかしこの人だかりの中では、光の束に包み込まれてしまいそうなほど虚弱な闇である。そんな己の状況が、少年にとってはむしろ救いであった。自分という存在の異常性が、この人ごみの中では秘匿される。ずっとこのような場にいられるのなら、どんなに楽か。

 しかし留まったままでは、後方一ケッテkette(約二十メートル)にいる従士たちに追いつかれてしまうだろう。少年は人ごみに揉まれつつも、時折現れる間隙を縫うように更に大通りを進む。全く、帝都の繁栄にこんな形で救われることになるとは。


「いやはや、何とも驚いた! 音に聞くグラーフェンヴェルグの姿そのものではないですか! 特にこの大通りは活気に満ちておりますなぁ!」

「ええ、のエルンスト帝はまさに賢帝……にしても今日は混み過ぎですな」


 ルミエルド大陸のちょうど中央に位置するグラーフェンヴェルグは、古くから大陸各地のみならず他の大陸からも人や物が集積する地として知られていた。地方貴族や商人は勿論、国内外の奴隷商から、南方大陸サラセニアの異教徒まで。帝城を始め壮麗な建物の多い帝都は、一種の観光都市としても名を馳せていたのである。

 しかし今日のような大通りの盛況は、古来より続いてきたものではなかった。少年が先程すれ違った商人らしき二人組の片方の口から飛び出したように、帝都の繁栄は現アルザーク皇帝エルンストの優れた治世に大きな恩恵を受けていた。 


「我がにっくき父は、なんと民に慕われていることだろうか……ッ」


 少年は呪詛を述べるかのように、低く呟いた。彼は更に歩調を早める。

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