同日 午後五時頃 帝都西市街 ザンクトペーターPeter聖堂図書館


 帝都西市街の一角に赤煉瓦れんがで建てられた教会堂。ロマネスク様式に特有の三塔型西正面を持つ、荘厳な聖堂である。その建物に併設されている図書館にディアークはいた。正確に言えば、あともう一人。五十代半ばに見える茶髪の男が少年の傍にいた。

 ディアークが身に着けていたマントを左手に持って、右手から魔術特有の光を放っている。するとマントに刻まれていた探知魔術の紋章が宙に四散していく。


「……さあ、これで魔術陣は解けました」


「かたじけない。ゼバルドゥス殿」


 〈ゼバルドゥスSebaldus〉と呼ばれたその男はアルバと呼ばれる白色のローブを着て、首から緑色の聖帯ストラを掛けている。その恰好は彼が聖職者であり、故に魔術陣を解くすべを知っているということを物語る。彼の柔和な表情もまさに聖職者然としていた。


「マントを脱ぎ捨てれば、わざわざここに立ち寄る必要は無かったでしょうに」


「おぬしほどの使い手が魔術陣を解くのに随分と時間を掛けたのだ、そう生半可な術式ではあるまい。表面上はマントだけに作用しているように見えるが、私が着るコットにも魔力の残滓ざんしを感じた。副従士長のゲオルクが使いそうな搦め手だ」


 ディアークは魔術陣が解かれたマントを手に取りながら、極めて冷静に分析する。まだ十三歳でありながら魔術に対する確かな眼を持った少年を見て、ゼバルドゥスは少し残念そうに言った。その様子はまるで彼らが師弟関係にあるかのようだった。


「貴方の魔術適性が偏ったものでなければと思うと……。口惜しきことです」


「仮に魔術適性があったとしても、私には使う機会など訪れんよ。それに……」


 黒髪の少年は再びマントを羽織ってから、ゼバルドゥスの方に向き直った。傾いた夕陽の光が石造りの図書館の窓から幾条も差し込み、少年の黒髪を照らした。


「このマントはおぬしに貰ったものだ。脱ぎ捨てなどしないさ」


 ディアークは微かに口の端を緩ませた。ゼバルドゥスは一瞬だけ少し目を大きくして、それから嬉しそうに笑みを零した。少年も、満面の笑顔で返したかった。

 だが、できなかった。そんな表情を人に向けられる資格は自分には無い、と。


「……さて、私は聖堂に戻っております。まだこの辺りに従士がいるかもしれませんから、しばしここにいるのがよろしいでしょう。……従士たちが聖堂に来たら上手いことはぐらかして時間を稼ぎますから、その間に」


 少し時間を空けて、ゼバルドゥスは図書館の目立たない隅にある勝手口の方を見ながら言った。ディアークは「ああ」と短く呟く。すると茶髪の聖職者はディアークに背を向けて、教会堂の方へ向かっていく。図書館の本棚や床に溜まった埃が柔らかく舞って、それらを茜色の光が照らした。ディアークとゼバルドゥスの間に陽光の壁ができる。まるで〈災厄の皇子〉と一介の聖職者との、本来交わってはいけない者同士の、それでも静かで安らぎに満ちた時間の終わりを示すかのように。


「すまないと思っている。私がしていることは何の意味も無い逃避行だというのに」


 そんな終焉を誤魔化すかの如く、ディアークは顔を俯かせて言った。背を向けたままのゼバルドゥスは動きを止めてしばらく黙ったままでいた。ディアークにとっては永遠を思わせるような時間が流れる。そして、ゼバルドゥスは口を開いた。


「何の意味も無いことなど、ありはしません。ただ、貴方が正しいと思ったことをやれば良いのです。さすればデウスは良き道へと貴方を導いてくれるでしょう」


 その聖職者の言葉は、あまりにも聖職者然としていた。いかにもという返しだが、普通の信徒に向けてではなく〈災厄の皇子〉に向けての言葉であるということを鑑みると、その意味合いはだいぶ変わって聞こえる。そしてディアークが何か返そうとする間も与えず、ゼバルドゥスは振り返って次なる言葉を放った。


「貴方は魔族の生まれ変わりでもなければ、災厄の皇子でもない。私にとってはただただ愛おしい、少し不器用な一人の少年なのですから」


 ゼバルドゥスはそう言って、またいつもの柔和な笑みを浮かべた。

 少年を〈災厄の皇子〉であると侮蔑し、憎悪し、恐怖に満ちた視線を投げかける者達と違い、彼だけはディアークを一人の人間として見ていた。

 二人は師弟関係ではない。聖職者と一般信徒との関係でも、聖職者と皇族との関係でもない。ディアークのゼバルドゥスに対する態度と同じく、ゼバルドゥスはディアークに対して、対等な一人の人間として向き合っていたのだ。


「そう、か。……呼び止めてすまぬ、私はしばらく本でも読んで過ごしているよ」


 ディアークは鎖で書架に繋がれた写本を一冊手に取って、また薄く張り付けたかのような笑みを浮かべた。それでもゼバルドゥスは満足げに微笑んで、図書館の木扉を開けて教会堂の方へ消えていった。少年はその姿を見えなくなるまで追い、それから誰もいなくなった図書館で、手に持った一冊の本に目を落とした。


「……魔族についての装飾写本か。何度か読んだな」


 その本の表紙にディアークは見覚えがあった。幾何学模様が複雑に組み合わさって十字を形づくり、バーミリオンやアズライトを始めとする顔料が鮮やかな色彩を放つ。適当なページを開いてみると、幾つかの挿絵と共にアルザーク語で〈魔族〉に関する記述が散見できる。挿絵に描かれるは、二つの角と翼を生やした全身真っ黒の化け物が人々を襲わんとする場面や聖職者がその化け物共を追い払う場面。恐らくこの聖堂に付属している修道院の僧が、原本かそれとも原本の写本を何とか上手く写したのだろう。まだ新しく純白さを保っている羊皮紙に描かれたそれらの挿絵は、かつてどこかで見た挿絵と殆ど同じように思えた。ディアークは特に何を調べるわけでもなく、漫然とその本を眺めながら時間の流れに身を任せる。

 そしてゼバルドゥスが去ってから、十分ほどが経過した後のこと。

 教会堂の方から、何人かが言い争うような音が聞こえてきた。


「……そろそろ行かねばならぬか」


 恐らく従士たちが、ディアークの探知魔術陣が解かれたであろう場所を手当たり次第に捜索してこの教会堂までやってきたのだろう。それにしても来るのが早いが。

 探知魔術は術者の手腕にもよるがおおよそ半径三ファローン~一マイレmeile(約零・六~一・六キロ)までは、はっきりと対象者の位置を捕捉できる。逆に言えばそれ以上離れた対象者の位置に関する情報は、朧げにしか方角や距離を感じ取ることができない。ディアークが掛けられていた魔術陣は…単に解かれないように工夫してあったので、その分射程距離は短めに抑えられていた。その上、大通りで従士たちとの距離をある程度開いたので、教会堂に着いてから魔術陣を解き終わった時点でも正確なディアークの位置は捕捉されていなかった。

 今頃は、ゼバルドゥスがディアーク従士団を上手く言いくるめながら時間を稼いでいるところだろう。従士団とは言うが、ディアークはもはや皇位継承者ではない。皇帝エルンストの体面を保つ為に、東市街の小さな屋敷で飼い殺しにされている監視対象に過ぎない。故に従士は二人付けられているのみ。一介の聖職者とはいえ魔術を扱えるゼバルドゥスを無視して、図書館までずかずか入ってこれる人数ではない。

 ディアークは本を閉じて、いそいそと図書館の勝手口の方まで歩みを進めた。そして人間一人がようやく通れるくらい小さな木扉のノブに手を掛けた。


「…………? 音が、止んだ……?」


 教会堂の方から聞こえていた話し声がピタッと止む。ノブを掴むディアークの右手が小刻みに震え出す。嫌な予兆を感じ取りながらも、このまま図書館にいても従士共に追いつかれてしまうだけだ、と思い切って扉を開けようとする。


「—―――ッ……何故だッ!」


 しかしディアークは自らの直感にただ従うかのように、ノブを掴む右手を振り払ってその勢いのままに振り返り、教会堂の方へ走った。

 何故、話し声が急に消えた? もし従士たちにゼバルドゥスが何かされていたとしたら、そしてそれが原因だったとしたら? ……? 自分は何を想像している? 

 嫌な妄想や想像を搔き消しながら、ディアークは図書館と教会堂を繋ぐ木扉を思い切り開けて、教会堂の側廊を走り抜けた。すっかり地に堕ちそうな落陽が最後の力を振り絞るように、慟哭どうこくという名の光の唸りを強めるのが聖堂内にいても分かった。 

 それと同時に認識したのは……錆びた鉄の臭い。聖堂内に立ち込める強き臭いが、鼻腔を支配していく。ディアークが直感的に祭壇の方へと足を進める度にその強烈さは増し、否応にも少年の予感が現実味を帯びていくことをまざまざと感じさせる。それでもディアークは、その可能性を否定し続けた。そんなわけが無い、と。

 この聖ペーター聖堂はそこまで大きな建物ではない。あっという間に聖堂の最奥にある祭壇まで辿り着く。帝城の近くに存在する聖ボニファトール大聖堂の祭壇と比べると豪奢な祭壇布も無い簡素な造り。そんな祭壇の前には、二人の男の陰があった。逆光で祭壇前の様子がよく分からないので、ディアークは近づきながら話しかけた。


「ダミアン、ゲオルク! 私はここにおるぞ!」


 その陰の正体は案の定、ディアークの従士であるダミアンDamianゲオルクGeorgであった。大柄な赤毛の男と細身な紫髪の男がディアークの方へ振り返る。

 彼らの表情は、何の感情も映し出してはいなかった。そして。

 彼らのその手には――――、赤黒い液体に塗れた両用剣バスタードソードが握られていた。


「は……」


 声にならない声を短く上げて、ディアークは目の当たりにすることになった。

 二人の従士が立つその後ろで、ゼバルドゥスが血を流して倒れている姿を。

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