テンジョウテンゲニユルギナキ(2)


 そこに立つナナオの気配が、別の誰かにすり替わった。

 ハッキリとはわからないが、そんな気がした。

 それは正に、ナナオの身体に別の誰か、別の魂が乗り移ったとでもいうように────。


「……う、……むぅ……」


 ナナオの身体が、ナナオの声で、別人の呻きをもらす。


「……お? おお、何だ。妙な感覚よな。肉体を持つのが久々ゆえか? 影姫殿……と、呼び掛けても、今は応じてもらえぬか……」


 やれやれと、いかにも大儀そうに肩をすくめるその仕種に、

 ナナオは……ナナオに宿った誰かは、大きく月を仰いで、笑う。


「おお、美しきお月様よ。久しく見る月光はまた格別じゃ」


 しみじみと感歎をもらしながら。

 その人は、ゆるりと視線をこちらに向けた。

 しばし、見定めるようにこちらを見すえて、


「…………ああ、何だ。姿が変わっても、まあ、わかるものだな」


 その人は記憶の中と同じく、厳めしい顰めっ面で頭をガシガシと掻きながら、


「久しいな伊織いおり。息災であったか? ……いや、オヌシもすでに死人か」


 在りし日と同じ響きで、在りし日と同じに、自分の名を呼んだ。


「……お……ぁ……」


 喉元まで込み上げた言葉が詰まる。

 現象への驚きと、再会の嬉しさと、現在の己の不甲斐なさと、そして、何よりも腹の底に渦巻き淀むに!


「……父上……あなたは……なぜ!?」


 しぼり出した問い。

 それだけでもう、自分の苦渋の想いが伝わったのだろうか。

 それとも、それだけで察して余りあるほどに、自分の姿は無念に歪み果てているのか。


「おう、わしはとうに成仏しておるぞ。迷い出る無念などありはせん。我が生涯に一片の悔いなしじゃ」


 そう、あっさりと言い切って、宮本武蔵玄信は高らかに笑った。


 悔いがない?

 無念がない?

 何を言う! 何でそんなことが言える! あなたは……!


「あなたの二刀流が世間でどのように言われていたか、あなたも知っていたはずだろう!」


 二刀流など外連けれん

 実戦で双手に剣を持って振るうなど不可能。

 宮本武蔵は希代の剣豪なれど、二刀とうそぶいたのは姑息な売名行為……それが世の声、世の評価。宮本武蔵がその生涯を懸けて築き極めた二天の剣は、そうして貶められていた!

 なのに……!


「……まあ、そうだな」


 静かに、こともなげに、二天の剣士は肯定した。

 何で? 何であなたは?


「なぜそんなに平然としているんだ! あなたが生涯を懸けて為し得た剣流だ! 求め極めた剣技だ! 天下無双! あなたは、確かに二刀をもってそこにたどり着いたのに!」


 あなたが双手に掲げた二刀にて、天へと届いたあの瞬間を、あの輝かしき感覚を……自分は、確かに憶えている!


 なのに……!


 後に続いた二天の弟子たちが……自分が不甲斐なかったばかりに、二刀の奥義を引き継げなかったばかりに、


 あなたの剣は、外連と笑われた……!


 悔しかった。

 口惜しかった。

 外連などではないと示したかった!

 けれど、未熟で愚かな自分では、嘲笑う世間を見返すことができなかった……! それが……そのことが……!


「……そうか、伊織。天下無双の弟子であることが、そんなに無念であったか……」


 月光を見上げて天下無双は静かに笑う。


 違う!


 天下無双の弟子であったことが無念であるわけがない!

 それは自分の誇りで、信ずる全てだった!


 だから自分は二刀を求めた!

 右手に剣を、左手に剣を、あなたが極め示した天意を、この手で受け継ごうとした!


 それなのに────!


 弟子でありながら、子でありながら、後に続くことができなかった。

 そのことが……! 天下無双を引き継げなかったそのことこそが!


「自分は、父上の二天一流を……その全てを継げなかった!」


 要である二刀を振るえなかった。

 万里一空の意味を理解できなかった。


「天下無双の二刀流……それを知らしめる力が、自分にはなかった!」


 それが無念だった。

 後悔にこの身を掻きむしった。

 だから────。


「自分はイクサとなって黄泉返った! あなたの無念を晴らすために、この手に二刀をもって……!」

「伊織……」


 自分の叫びは、笑声に遮られる。


「言うたであろ? 儂には、。儂は好きに剣を振り、好きに闘い、好きに描き、好きに彫り、そして死んだ。それでいい。それ以上に何もいらんかった。だから、


 悔いなどない。無念などない。

 宮本武蔵はそう断言する。

 自分の叫びを、慟哭を聞いてもなお、そう言い切る。


 ああ、ああ、黒羽根シズカよ、

 あなたの気持ちが、今ならようわかる……!


 自分がこんなに悔いに惑い、無念に迷うているのに、肝心な当人はとっくに召されて輪廻に還ろうとしている。

 こんなにバカらしいことが、あるものか!


「ふざけるなッ!」


 自分は武蔵に飛び掛かり、胸ぐらをつかみ上げて押し倒す。


「あなたはいつもそうだった! 小難しく顔を顰めて! したりげに笑みを浮かべて! さも意味ありげな言葉を吐いて! そのクセ、肝心なことは何も教えてくれない!」


 仰向けに倒れた父に馬乗りになって、その胸ぐらを絞め上げ、込み上げる怒りを、鬱屈し続けた不満を、込み上げるままに叩きつける。


「憶えているか! 自分があなたに二刀を振る術を訊ねた時を! あなたは何と言った! 使……何だそれは? ふざけるな! それで二刀が振るえるなら誰も外連だなどと笑わない!」


 ひとつの頭でふたつを振るう。

 それがただの反復練習で叶うなら苦労はない。


「何が兵法三十五箇条だ! 何が五輪の教えだ! 万里一空? 理屈をこねてもどうにもならないとほざいた男が、何を小賢しく理を語るか! あなたが残した兵法は、言葉は、奥義の書は、何ひとつととして自分たちに二刀の極みを示してはくれなかった! 伝えてはくれなかった!」


 それでも……!

 ああ、それでも、あなたがその手に構えた二刀でたどり着いた極みを、自分はこの眼で見て、揺さぶられ、憧れたから……!


「……天下無双! あなたが立ったその高みに、自分は……!」


「伊織……」


 せせら笑うように、武蔵が呼び掛けてくる。


「天下無双とは、だそうだ」


 ハッキリと笑声でもって、そう言い切った。

 ただの言葉? 天下無双が、ただの────。


「言葉……?」

「おう、剣聖たる上泉かみいずみ信綱のぶつな殿がそう言ったらしいからな。間違いない」


 楽しげに、愉快そうに、武蔵は笑う。

 天下無双である剣士が、天下無双などだと笑っている。

 、意味のない、文字の羅列。

 そんな、だったら、そのを追い求め、たどり着けぬままに息絶え、それを無念に迷い出て黄泉返った自分は……!


 そのを唯一のよすがと縋りついて、ひたすらに剣を振り続けた自分はッ!


 絶望と憤怒が渦巻き爆発する……その瀬戸際を見計らったかのごとく、武蔵は笑みをゆるめた。


「だからな、伊織。好きに叫べば良いのだ」


「…………?」


「天下無双とはただの言葉、なら、誰に何をはばかることはない。好きに叫び、好きに名乗れば良い。そして、好きに意味を示せば良いのだ。我こそが天上天下に揺るぎなき、無双の剣豪であると、それが天下無双なのだと、知らしめてやれば良いではないか」


 そう、それこそが自分が憧れ目指した天下無双。


 だからこそ、自分は今もなおこの双手に剣を……!


「伊織……」


 武蔵は……父はゆるりと、自分に呼び掛けてくれる。


「二刀流は外連、宮本武蔵は大ボラ吹き……その汚名をすすぐために、オヌシは儂の名で二刀を振り続けていたのだな……」

「………………」

「すまなんだなぁ……儂は自分が悔いなく生き抜くことばかりにかまけて、残されるオヌシらのことを、軽んじていたようだ」


 そんな……そんなことは!


「二天一流、二刀の極み、自分がたどり着いたから、もうそれで良かろうと思った。いや、正直、自分が生涯懸けてたどり着いた極みを、易々と若僧どもに受け渡してやるものか……と、そのようにも思っていたよ」


 それは、また何とも……。


「……実に、ヒネクレた父上らしいことだ」


「ああ、実際、残した書はわけがわからなんだろう? わからぬように書いたのだから当然だ。だからな、伊織……」


 よう、ここまで極めたな────。


 そう言って、父は笑いながら自分の頬をゆるりと撫でてくれた。


「よう極めた。右手に剣を、左手に剣を、後はただ、ひたすらに……」


 そうだ。

 自分はただ、あなたを追って、ひたすらに剣を振り続けた。


 そして────。


「誇れ伊織。天下無双はここにおる。儂ではないぞ。儂はもう、とうに成仏した過去の残り火じゃ。今、ここにおる二天の剣士はただひとり……」


 金色の瞳が、在りし日の黒瞳と同じ力強さで、真っ直ぐに告げる。


「宮本伊織貞次さだつぐ……オヌシこそが天下無双、我が二天流の後継よ」


 天下無双。


 それはただの言葉でしかないはずなのに────。


 求め焦がれたそのただの言葉に、自分はあふれ出す感情を堪えきれぬままに、父に縋りつき声を上げた。

 涙があふれた。

 嬉しかったから。

 誇らしかったから。

 そして、悲しかったから。

 未だ道半ばでくすぶる未熟な自分が不甲斐なく悲しくて、

 そんな自分を、それでも認めてくれた父が……本物の天下無双の姿がまぶしかったから────。


「……自分の剣は、まだ二天の極みに届いていません……」


「そうか……ならば、なおひたすらに……」


 そう、なおひたすらに、ただ、ただ、剣を振る。

 いつかきっと、あなたに届くその時まで。


「おお、美しき月よ。我が子の成長を知り、我が愛弟子の大成を確信しながら逝く。それもまた、格別なりや」


 幾久しく健やかにな、伊織よ────。


 声音は小さく、気配がかすむ。

 今、確かにここにいた大きな魂が、ここではないどこかへ還って逝く。

 頬に触れていた手の力強い温もりが、穏やかで甘やかなものに変わる。

 白い指先が、自分の目許を拭ってくれた。


「……ふふ、ウチの勝ち♪ もう、離さんよ……」


 嬉しげに勝ち誇る声は、だが、どこまでも優しく耳朶をくすぐって。

 ナナオは満面の笑顔で、自分をギュッと抱き締めたのだった。


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