第3章 潰エタ望ミニ追イ縋リ

ツイエタノゾミニオイスガリ(1)


               ※


 オレは、あの時の無様な記憶を思い出していた。

 噎せ返るような潮の匂いの中で、海原の小舟に掲げられた扇の的。


〝射て見せよ〟


 そういう挑発であるのは明らかだった。


『あの的、射抜けぬとなれば源氏の名折れぞ!』


 馬上の御大将が檄を飛ばす。

 勇ましいこった。いや、確かにアンタは勇猛だよ源九郎殿。

 その武威と軍略で連戦連勝。此度の戦もまさに破竹の勢い。いずれこのまま完全勝利となるのだろう。


 軍神。

 皆がそう持てはやすのも当然さ。

 ああ、若き源氏の英雄殿よ、我らが守護神様よ。


 ……だからさ、アンタが射ればいいじゃないか。


 大将なんだから、オレたちを率いる長なんだから、我が軍の筆頭なんだから、アンタが応えて射ればいい。


 なのに、なぜ射手を募る? 部下の名乗りを求める?


 的を射抜く自信がないのか?


 いや、違うよな。自信はあるんだ。けど、それでも怖いんだろ?

 もしも的を外したら、源氏の名折れだからな。万が一にでも外したら、英雄の名折れだからな。そうなることが怖いんだ。


 この強い潮風の中、海原に揺れる小舟に立てられた扇の的だ。

 確かに、射抜くとなれば尋常の腕では叶わない。戦事なら恐れを知らぬ御大将も、こんな遊戯めいた挑発ごときに危険な博打は打てないか?


 ありがとうよ御大将、おかげで、代わりにオレが名を得られる。

 他の何で劣ろうと弓の腕だけは、これだけはオレは誰にも負けないのだから!


『誰ぞ! 射抜ける名手はおらぬのか!』


 御大将が飛ばした再度の檄。

 オレは万感の自信とともに弓を掲げる。


 ここだ! ここにいるぞ!

 あの的、このオレが見事射抜いて見せようぞ!


 御大将の鋭い双眸が、オレの姿を確かに認める。


『オヌシは誰だ?』


 鋭い声音で誰何すいかしてきたその意味が、オレにはわからなかった。

 誰だ……だと?

 思わず息を呑んだオレに、御大将はなお冷ややかに誰何を繰り返す。


『オヌシは何者か……と、問うているのだ』


 冷ややかな声音、鋭い眼光。

 何だ? 何でそんな敵意めいたものを向けられるんだ!?

 オレは源氏の武者だ! アンタの兵だ! 今、ここで弓を取ることに、それ以上のどんな資格がいるというんだ!?


 オレは困惑と憤慨とに頬をヒクつかせ、喉を引きつらせた。

 対する御大将は、そんなオレを見限るように視線を滑らせる。


 ────!?


 そして、御大将が名指したのは別の者。


 なぜだ!? なぜオレを無視する!?

 オレが、将ではないからか!? 名のある武門の出自ではないからか!?


 惑うオレをよそに、名指された武将が日和って辞退した。

 オレはさらに力強く弓を振りかざす。けれど、御大将が次に選んだのもまた、オレの名ではなかった。


 ふざけるな! 名門の武将とやらはみな失敗を恐れて逃げているじゃないか! なぜオレに命じない!?

 オレなら、あの的を射抜けるのに!!


 新たに名指されたオレではない武者もまた辞退し、オレではない別の者を推挙する。

 名指した皆が失敗を恐れて辞退する状況に、御大将は業を煮やしたのだろう。


那須なす十郎じゅうろう為隆ためたかが弟、那須なす与一よいち宗隆むねたか……主命である。オヌシがあの的を射よ』


 問い促すのとは違う、厳然たる下知。

 御大将の命令に、那須与一は渋々と弓を構えて歩み出た。


 結局、御大将も他の歴々も、誰もがオレを無視したままに……。


 構えられた与一の弓が強く引き絞られて、祈願とともに放たれる。


 鏑矢かぶらやの奏でる風鳴りが、潮騒を引き裂き響き渡って……。


 鋭く射抜かれた扇が、春風に舞い上げられて海原の彼方に消えて行く。

 わき上がる歓声。

 誰もが歓喜と驚歎に盛り上がる中で、オレはただひとり憤然と、馬上の御大将を睨み続けていた。


 それは────。


 それはもう遠い過去の記憶。


 もう幾度繰り返し想起しているのかわからない過去の残滓ざんし。オレの根底に刻まれた因果いんが


〝オヌシは何者だ?〟


 無体な問いだ。


 あの時のオレは、何者でもないからこそ、あの場で名を得たかったんだ。

 磨き上げた弓の腕をもって見事に的を射抜き、源氏の中に我ぞ在りと叫びたかった。


 御大将よ!

 源九郎義経よしつね殿よ!

 アンタに対して名乗るべき確かな武名を得るために、オレは弓を掲げたのに……!

 何者でもない者は、名乗る名を得る機会すら得られないのか!?

 それとも御大将、アンタは遠回しに〝オヌシには無理だ〟と断じていたのか?


 だとしたら、ああ、そうだな……アンタは御慧眼だよ。


 結局、オレはあの後の戦で、局面にて射損じて落命した。当てねば名折れるどころか命を落とす、そんな死生の極みにて、的を外したんだ。


 弓の腕なら誰にも負けぬ……そうほざいておきながらの無様な最期。


 あの時、那須与一宗隆の代わりに弓を構え得たとして、オレは果たして的を射抜けていたかどうか────。


サダメ


 それがオレの因果の銘。

 当てれば名を得られる局面の一矢を、今度こそ必ず当てる。そのために、そのためだけに輪廻を外れてさまよい続ける、敗残の死人兵。

 ハハ、本当に情けねえ話だ。

 脳裏に浮かぶのは、あの〝闘〟のイクサとの勝負、その最期の交錯。


「……オレの矢は、未だに局面で仕損じ続けている……」


 自嘲の呟きは、思った以上に弱々しくかすれていた。

 薄暗い室内。

 崩れたアーケードの一角、元は呉服商だったと思しき店舗。ナナオたちと別れてから、ひとまずの寝床として潜り込んだのだが……。


 弓を抱えてうずくまり目を閉じたものの、脳裏に渦巻くのは焦燥とイラ立ちに満ち満ちた回想劇。

 それを意識の外に追いやり、押し退けようともがいている内に、差し込む月明かりはいつしか朝日に変わっていた。


 結局、オレは一晩中ウジウジと苦悩していたわけだ。


 輪廻を外れてイクサとなった根幹たる因果だから、オレにとっては忘れたくても忘れられないものだ。が、それでもこんなに囚われたのは久方ぶりだ。いや、ねじ伏せても払い除けても脳裏に居座るようなことは、現世に黄泉返ってからは初かも知れない。


 理由はわかっている。

 あのイケ好かぬイクサ……テンのせいだ。

 冷ややかなまでに冷静に、淡々とした態度。それでいて頑ななほどに強い意思を秘めた様相。眼前に現れる物事に動じず、うろたえず、ただ、ただ、斬り進む。

 戦いの中にしか身の置き場を知らず、いざ、戦いとなれば、これぞ本懐とばかりに楽しげに戦場を駆け抜ける。

 あたかも〝戦うための刃〟という概念が人の形を成したかのごとき姿は、そう、を連想せずにはいられない。


 御大将、源九郎判官ほうがん義経。あの当代随一の戦狂い。


 ……まさか、本人なのではあるまいな?


 スズによれば、イクサの肉体は当人が全盛だった時期の姿を象るという。テンは顔も体格も御大将とは別人だが、例えば、御大将の生まれ変わりなどということは有り得るんじゃないか?

 だとしたら滑稽こっけいなことだ。

 一度は悔いなく輪廻に還った霊魂が、転生した後に無念を刻まれ怨霊に堕ちたか。


「……ハッ、ざまあないな……」


 嘲笑は、まがうことなき負け犬の遠吠え。

 ならば、むしろそれはオレ自身の胸にジワリと疼痛を滲ませた。

 際限なくわいては淀む負の連想。いい加減、それらを意の外に追い払おうと、オレは意識して強く頭を振る。


 ゾワリ……と、鋭い怖気を首筋に感じて顔を上げた。


 人として死に、イクサとして黄泉返ってから、あらゆる感覚が変わった。あるいは薄れ、あるいは消え果て、あるいは強く際立つ。

 そんな感覚の変異の中で、生前も死後もただひとつ変わらぬドス黒い感性。

 何者かが、こちらを狙っているという感覚。


 殺気────。


 オレは抱えていた弓を左手に握って、ゆるりと身を起こした。


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