第7話


 ――私は初めて、足元に恐怖を感じた。

 今、私を支えているものは不確かで、どうにも安定が悪い。いくつか例を挙げてみるとしたら、私は床の代わりにある薄っぺらいガラスの上で仰向けになって眠っている。そのガラスが割れてしまえば、私の身体は一瞬の内に真っ逆さまだ。粉々になってしまったガラスは勿論、私の身体を傷付けるだろう。

 私は海の上でプカプカと浮かんでいる。不思議な事に沈まない。浮かぶというよりは、水によって浮かされているのだ。水が私を見捨ててしまえば、私はそのまま海の中に落とされる。息も出来ずに深く沈んでいく私を見て、魚達は嗤うだろう。

 或いは、雲。 泡。土。風船。

 雲はちぎれ、泡は消え、土は崩れ、風船は割れ、この私を奈落の底へと堕とすだろう。それも這い上がれない程に深く。

 とにかく不安定なのだ。そんな私の身体を、ギリギリだが支えてくれているものはなんなのだろう?

 ――人か? ――存在か?

 それとも、私の想いなのだろうか?

 とにかく私は今……不確かで不安定、不透明なものに、辛うじてしがみついているだけだ。

 堕ちてしまえば最後……二度と戻れないような、そんな気がするから。

「千明……どこにいるの? 私もう、疲れちゃったよ」

 千明に逢いたい。今すぐ逢いたい。

 お願いだから……私を一人にしないで。

 貴方の大きな手で、私の手をしっかり繋いでいて欲しいの。……もういないだなんて、絶対に認めない。私を置いて死んでしまうだなんて許せない。

 ねぇ、千明……私ね、死ぬ前の記憶があやふやで、実はちゃんと思い出せないの。

 あの日、電話が鳴った。……誰からの電話だったんだっけ? そんなの決まってる。千明の死を知らせる、病院からの電話。

 ……あれ? 本当にそうだっけ? ううん、そうに決まってる。だって、他に誰から電話がかかってくると言うの?

 とにかく私は、その電話で生きる気力を失った。悲しみに打ちひしがれた。……あれ? そうだったっけ? 私の中で生まれた感情は確か……怒りや憎しみじゃなかった?

 いいえ、そんなわけないじゃない! 好きな人を失って、何故私が怒ると言うの? 一体、誰に?

 ……あれ?

 そもそも、私……【何を】失ったんだっけ?


 よく、思い……出せない……



***


 ……どうやら、少し眠ってしまっていたようだ。私はゆっくりと身体を起こした。

 一面に広がる沢山の花が、いつものように私の視界に入り込む。花と言ってもラベンダーやコスモス、向日葵などではなく、全てが血液のように赤い色をした、彼岸花であった。想像してみれば、不気味な事この上ないだろう。灰色の世界で赤々と咲く不吉な花……しかし私は、何故かこの場所が非常に心地良かった。

 だからずっと、この場所にいるのだ。……ここに来て、もうどれくらいの月日が流れただろう?

「……はぁ。また、わけのわからない夢を見ちゃった。夢なんて本当に下らない。脳内で勝手に作られるものだから、内容だってめちゃくちゃだし。どうせなら夢の中だけでも、千明に逢わせてくれればいいのに」

 ……それはそれで、目覚めた時のショックは計り知れないけどね。

 私は大きく溜息を吐いた。

 私が覚えてる、最後の記憶。それは……千明がいなくなった事に耐え切れず、陸橋から飛び降りたものだ。

 影……いいえ、影音の差し出したナイフを使わず、自らから死を選んだ。

 そして目が覚めたら、私はこの【セカンド】と呼ばれる不思議な世界にいた。暗くてジメジメした世界。……辛気臭くて嫌いだ。こんな場所に来る為に、私は死を選んだわけではないのに。

 驚いた事に、ここには沢山の人達がいた。けれど私は、今までこの世界で、一度も誰かと話をした事はなかった。ここがセカンドと呼ばれる世界なのだと知ったのも、誰かに教えてもらったからではない。勝手に人の会話を盗み聞きして得た情報なのだ。

 不思議な事に、私の姿は誰からも見えていないようだった。不気味な場所に、姿を認識されない私。これじゃあまるで幽霊のようだ。幽霊なんて非科学的なものの存在など、まったく信じてはいないが……ならば、この世界の事はどう説明する、という話なので、取り敢えず、この世界の私の立ち位置は幽霊のようなものだと判断するよりほかはなかった。

 この世界に千明がいてくれたら……なんて思い、辺りをうろついてみたものの、そう都合良く見つかる筈もなく、私はただこの場所で……ひたすら無駄で無意味な時間を過ごしてきた。

「この空から降ってくる灰って、一体どこから生まれたんだろう? ……ほんと、汚らしい」

 どうせ降るなら雪にすればいいのに。鑑賞するなら、まだ雪の方が美しく、見応えもあるだろう。そしてこの薄暗い闇の世界を、真っ白に塗り替えてしまえばいい。

 私の肉体は、雪どころか氷のように冷たい。だから雪が降っても、これ以上寒くなる事はないし、そもそも幽霊なのだから、雪は私の身体に触れる事すら出来ない。

 ……人肌が恋しい。温もりが恋しい。あぁ、千明に触れたい。千明の体温を感じたい。

 けど、もしこの世界に千明がいたとしても、彼は他の連中と同じように、私を認識する事が出来ないかもしれない。


 身体が欲しい。肉体が欲しい。


 私はいつまで、ここにいなくてはならないのだろう? これでは、生きているとも死んでいるとも言えないではないか。

 ……ねぇ、見えない誰かさん? いつまで私を苦しめるつもりなの? この世界に千明がいないのなら、あの時ちゃんと死なせてくれていたら良かったのに。

「どうしてこうなっちゃったんだろ……どうして私ばっかりこんな……私が一体、何をしたっていうのよ。私はただ、千明のいない世界に耐えられなかっただけ。ただ死んでしまいたかっただけ。悲しみの全てを、忘れてしまいたかっただけなのに……どうして未だに生かされ、独りぼっちでいなきゃいけないの? ……ふざけんじゃないわよ。何がセカンド? 長くて下らない夢を私に見せてるってだけならさっさと起こしてよ。目覚めた瞬間に、今度こそちゃんと死んでやるんだから」

 乱暴に口にした独り言は、誰の耳にも届く事なく消えていく。

 私は返事を欲していた。出来れば千明の、と言いたいところだが……この際もう、誰だっていい。

 ――誰か応えて。私を見て。私の存在に気付いて。私はここにいるの。お願いだから……誰も私の存在を否定しないでよ。

 涙が出た。情けない話だけど、不安で心細くて……こんなにも簡単に涙を流すような女ではなかった筈なのに、千明との出会いが良くも悪くも私を変えてしまったのだ。

「ずっと一緒にいてくれるって言ってくれたのに。嘘吐き……」

 私はガリッと親指の爪を噛んだ。嫌な癖だが小さい頃から治る気配もない。千明にも、みっともないからやめろって言われてたっけ。

「……きったない爪。深爪にも程があるよね。噛みすぎて指の先端がジンジン痛むし。……けど、やめられないんだよね」

 私は小さく溜息を吐くと、ジッと自分の指先を見つめた。

 私は爪を噛む事が出来る。それによって痛みを感じる事が出来る。寂しくて涙を流す事が出来る。氷のような自分の体温を感じる事が出来る。要するに、私は私に干渉する事が出来るという事だ。……なら、幽霊というよりも透明人間と言った方が正しいか?

 ……どうでもいいや、そんな事。別にどちらにしたって、私の存在はないものと同じなのだから。

 私は立ち上がると、一歩前に踏み出した。

 海が見たい。海を見に行こう。確か、この近くに漁港があったっけ。本当は白い砂浜から見える、青くて壮大な海が見たいのだけれど……どうせ海の色なんて黒にしか見えないんだし、漁港でも何でもいい。

「っていうか、今の私の状態で海に飛び込んだらどうなるんだろ? やっぱり死ぬのかな? ……別に試してみたっていいんだけどね。どうせ私には何もないんだし」

 千明がいなくなり、私は空っぽになった。一瞬で全てをなくしてしまったのだから。千明だけが、私に生命を吹き込む事が出来る唯一の人で、誰よりも愛しい人。


 ――千明。

 ――千明。

 ――千明。


 …………


「絶対にユルサナイ」


 思わず出た言葉にハッとした私は、咄嗟に口を手で塞いだ。

「……今の何? 私がそう言ったんだよね? えっ、でも……何で? 私が、千明を、許さない? 私一体……何を言っているんだろう?」

 自分で言っておきながら、まったく意味がわからない。私を置いて死んでしまったから許さないって事? ……でも事故だったんだし、千明が悪いわけじゃない。

 私は左右に頭を振った。

「馬鹿馬鹿しい……忘れよう。疲れてるんだ。もしかして、精神に異常をきたし始めてるのかも。こんな場所にいるんだもの。そうなったって、おかしくないしね」

 まるで、言い聞かせるように小さく呟いた私は、振り返り、背後一面に咲き乱れる彼岸花に目を向けた。

「――彼岸花。別名、死人花に地獄花……そして、幽霊花。赤い彼岸花の花言葉は、情熱、独立、再会、諦め、悲しい思い出、思うはあなた一人……また会う日を楽しみに。悲しい、思い出……」

 頭がガンガンと痛む。目の奥の方から感じる耐え難い痛みに、思わず立っていられないくらいだ。

 ――千明はいない。千明は私を愛していないのかもしれない。私がどれだけ彼を捜しても、彼は見つからない。彼は、私を捜したりはしない。……結局は、私の独りよがりな想いなのではないだろうか? 


 千明は、本当に私を愛してくれていたのだろうか?


 ブワッと負の感情に襲われる。――またか。もう何度、このドス黒い闇に支配されかけてしまっただろう。私は耳を押さえながら叫んだ。

「千明、千明、千明、もうやだぁあああ! 千明、私はここだよ! もしもこの世界にいるなら、返事くらいしてよ! 私を見つけてよ……私は……私は、ここにいるんだよ……」

 もう嫌。私の周りを影達が囲む。生憎だが、こいつらに渡す肉体を、私は持っていない。

 さっさと散れ。お前達に渡す身体はここにはない。だから、早く他所へ行け。いつまでも私を苦しめるな。

 何度も何度もしつこい……さっさと消えろ!


 私がそう念じたと同時に、私の周辺を囲っていた影達は消えた。先程まで私を苦しめていた頭痛の波も、ゆるやかに引き始めた。

「……はっ。影達だけには私の姿が見えるだなんて、何だか皮肉な話」

 ――灰色の世界。影達が、器を求めて蠢く暗闇の世界。その中で私はふらふら、ゆらゆら、不透明に、存在しているのかしていないのかさえわからないまま、虚しい時間を死んでいるように生きる。時計の針が止まったかのように、私の時間は動き出さない。ずっとこのままだ。それならせめて、誰か息の根を止めて。

「……夜叉。セカンドは夜叉が支配する世界。ここにいる者達は皆いつか、夜叉に殺してくれと懇願する……か」

 殺される? ふざけるな。……なんて思っていたけれど、もういいかもしれない。寧ろ殺してくれるなら本望だ。

 ……最後に海を見てから、あの呪われた森に入ろう。夜叉ならば、私の姿が見えるかもしれない。

 孤独には飽きた。このまま無意味に生きるくらいなら、無慈悲に死んだ方がマシ……

 私はゆっくりと、海を目指し歩き始めた。


 身体が重い。心も重い。見えない足枷でもあるかのように、私はズルズルと地面を這いずるようにして歩く。亀、或いは{蛞蝓}(なめくじ)のように我が道をいくならまだしも、はっきりとした行き先も決められず、適当な場所を選んで向かおうとしても、思うように素早く動けない自分に苛立ちながら……私は前髪を乱暴に掻き上げた。

 姿を持たないのだから、せめてその分身体を軽くしてくれよ……なんて思いながら。


 ……磯の香りだ。それもそうか。海だもの。

 岩場に沢山のフジツボがついている。私は何となく、あの下らないフジツボの都市伝説を思い浮かべながら苦笑した。……ほら、アレだ。人間の体内に繁殖するとか言うアレ。

 このようなグロテスクなものが自分の体内に付着し、増殖を続けるなどと……想像しただけであまり気分が良いものではないが、都市伝説だとふまえて考えてみると、意外に面白いかもしれない。それによって、人はフジツボを見つけると無意識に近寄らないようになり、海で足を切る等の怪我をしないように気をつけるだろう。

 まるで、人が人を貶める為に流す噂話と同じだ。

 正しくもない知識で周りを翻弄し、いつの間にか人の中でそれが真実であるかのように認識される。人は、その悪意の対象となった者に近付こうとはしないし、巻き込まれる事を恐れ、最大限に注意するだろう。

 そうして、イジメという名の【見世物ショウ】が始まる……

 かつて私もその対象であった。人に嫌われ、不愉快とされるフジツボは私。そんな私を人間として扱ってくれたのは、千明だけだった。

 そう……千明だけだったの。


 少し強めの荒波が岩にぶち当たる。私はその場にしゃがみ込むと、手を伸ばしてそれをすくい取ってみた。

 全体を見ると黒く見えるこの海だが、私の手の中で揺れる水は美しく透明だ。それだけで、何だか安心した。

 海は好き。哀愁を漂わせる波音も香りも。この世界では見る事は叶わないが、私は日が沈みかけている黄昏の海が一番好きだった。いや、夜の海も捨てがたい。静かで、まるでこの世界には私しか存在していないのではないかと思わせられるような空間。紺色の中に沢山の星が散りばめられた、私だけの小さな箱庭。

「夜の海……か」

 私はふと、以前読んだ小説の内容を思い出していた。海というよりも、正確には湖の物語なのだが……思い出してしまったのだからしょうがない。

「……君はもう、俺の事を忘れてしまっただろうか? 俺はずっと、君を忘れられそうにないのに。湖の底を華麗に泳ぐ、美しくも哀しき人魚よ。手を伸ばせば、簡単に触れられるくらいに近くにいる君が、まるで別世界にいるかのように遠い。……遠いのだ。お願いだから、俺を置いていかないで」

 {夜科蛍}(よしなけい)という著者の、確か……【鏡花水月】という本だったと思う。あまり有名な作家ではないのだが、千明の部屋に置いてあったのを読んだ事があった。最初は千明が小説を読むような人には思えなかったので少し驚いたけれど、彼は見かけによらず、かなりの読書家だった。その鏡花水月は、千明が読むには少々違和感を感じてしまうような悲恋の物語だったが……そのギャップが、何だか可愛らしくて愛おしかった。

「今なら主人公、ソウジロウの気持ちがわかるような気がする。……ねぇ千明、私を置いていかないで」

 そんな事を口にしながら小さく溜息を吐いていると、どこからか人の声が聞こえてきた。私はすぐさま声がした方へと視線を移す。するとそこには、こちらに向かって歩いてきている二人の男女の姿があった。

 恋人同士だろうか? ……まったく、いい気なもんだ。こんな世界に来てまで、幸せそうな自分達を周りに見せつけたいのかしら?

 こんな風に思うだなんて、我ながら性格の悪さは天下一品だと言えよう。しかし……こんな場所でずっと一人でいたのだから、少しばかり性格が歪んだとしても仕方ないと思う。それに他人をどう評価しようと私の勝手でしょう? わざわざ公言しなければいいだけの話なのだから。

 ただ、海ばかり見ていても退屈だし……私は暇潰しの材料になるかもと、じっと二人の動向を監察していた。

「……どうせ見えないんだし、何か悪戯でもしてやろうかしら? 今男女のペアを見つけると、何だか凄く腹が立つのよねぇ。私だって千明と一緒にいられたなら、そんな風に思いもしないのに。あ~あ……本当に私って、嫌な女」

 私は思わず爪を囓った。

 二人は歩いている途中で立ち止まると、森の方を指差し、何やら話をしている。この位置からだと、ちょうど後ろ姿だけしか見えず、二人の顔などはよくわからなかった。けれど別に構わない。しいて興味もなかったし、私も私で近付く事はせず、ただぼんやりと二人の背中を見つめているだけ。

 ……しかし、退屈だ。面白くも何ともない。何が悲しくてカップルのストーカーみたいな真似をしなきゃならないんだ。あ~、つまらない! 

 それにしても、あの二人……何だかものすごくよそよそしいなぁ。もしかしてカップルではないのだろうか? 考えてみれば、ただの友人って可能性もあるもんね。ま、どうでもいい事だけど……あっ、振り返った。

 男の方が急に振り返り、その後、女もこちらに振り返った。そろそろここから移動でもするのかしら? ……あれ? でも、何だかおかしい。いつもと違う。

 だって確かに、あの男と私の視線が交じり合っている。じっと見つめる鋭い視線……もしかして、あの男には私の姿が見えているの?

 隣にいる女には、やはり私の姿は見えていないようだった。けれどあの子、何だか見覚えがあるような……どこかで会った事があったかしら?

 ……そんな事より、今はあの男の事だ。

 黒に近い暗い茶色の髪。どこにでもいそうな感じの青年だが、顔は悪くない。華やかというよりも地味。スポーツよりも読書が好きという印象。これといって目立つようなタイプでもないし、どこかパッとしない風貌だ。

 けれど、この世界で初めて私を認識した男に違いはない。これはとても興味深い事だし、何かが起こる前触れなのかもしれない。明らかに今までとは違う展開なのだ。

 突然、私の世界に現れたこの男は……一体何者なのだろう? 影達の刺客? それとも、救世主?

 そんな事を思っていると、私が歩み寄るよりも先に、男が私の方に向かって走ってくるのが目に入った。

 私の胸は妙な高まりを見せた。――緊張感からか? 好奇心からか? とにかく、ようやく時間が動き出したような気がする。男の第一声が待ち遠しい。

 そうこう考えているうちに、息を切らしながら私の前に立った男は、呼吸を整えながらこう言った。


「こんにちは。ねぇ……君は一体、何者?」

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