番外編 第1話

一 交わされた約束


「ん……っ」

 気が付けば私は、冷たく渇いた土の上で横になっていた。

 薄暗い灰色の空に雲が暗澹と動く。今にも大雨が降り出しそうな空模様だ。

 目の前の大きな樹は、まるで何事もなかったかのように静かにそこに立ち尽くしていた。

 まだ少しはっきりしない頭に鮮明映し出される、最後に見たカズトくんの笑顔。

 浮かんでは儚く消え去る、優しく悲しい笑顔。

「そんな……嘘、でしょ……? 嘘だよね……? カズトくん! ねぇ、カズトくん!」

 私は地に膝をつけ、思いっきり大樹を叩いた。しかし、大樹は何の反応も示さない。

「嫌だよ、カズトくん……どうしてこんな……」

 温かい雫が頬を伝い、土に水玉模様を描いたと同時に、今度は冷たい雫が、土に更なる水玉模様を描き始めた。

 ――雨だ。

 降り出した雨はすぐに大きな粒へと姿を変え、容赦なく私に降り注ぐ。

 激しい雨は一瞬で私の身体をびしょ濡れにし、著しく体温を奪った。

「はは……もう、どうしたらいいかわかんないよ……」

 消え入るような声で呟くと、私はシャワーのような雨の中に飲み込まれていった。

 ……あぁ、どうして私はカズトくんを信じる事が出来なかったのだろう?

 どうして、最後まで信じ続ける事が出来なかったの……?


『俺の事は何があっても信じる事。……いいね?』


 これは、約束を破った私への罰なのだろうか? だとしたら、全て私が悪い。

「お願い……もう一度、私をあの世界に」

 私は神樹に懇願する。目の前にそびえ立つ大樹は、私の言葉に応える事なく、静かに森を見据えていた。

 言葉にならない想いが、声にならない叫びが、私の胸を激しく責め立てる。

 止まる事のない涙は、この雨のようにザァザァと激しさを増し、嗚咽の声を漏らした。

 ――もういいや。彼がいない世界なんて、意味がないのと同じ。

 私は激しい雨に打たれながら、土の上で仰向けに寝転ぶと、空に向かってそっと手を伸ばした。

「……ねぇ、カズトくん。貴方は一体、何を掴みたかったの? 貴方は……何が欲しかったの?」

 私の視界に、伸ばされた自分の手の甲が映し出される。


『――君には今の俺がどう見える?』


「貴方は……なんて答えて欲しかったの?」

 彼の求めていた答えが知りたい。

 私はそっと目を閉じた。身体や顔に乱暴に打ち付けてくる雨が、少し痛くも感じたが……今の私には心地良い。

 無心に降り続ける雨の音だけが、耳の奥に響き渡り……私は瞼の奥に映る彼を、ずっと追いかけていた。

 どこまでも、どこまでも……追いつけないその距離がもどかしい。彼は振り向く事なく、遠くへ行ってしまう。

 ――お願い、待って! 行かないで。


 一人にしないで。


「私はこの手で、貴方を掴みたい。貴方の心を知りたいの。本当の貴方を知りたいの……」

 その時、伸ばした手に僅かな体温の変化を感じ、私は目を開いた。

「貴方は……」

 私の手に軽く触れたのは、神童と呼ばれた狐面の少年だった。少年は真っ赤な番傘を差しながら、仰向けのままの私をじっと見下ろしていた。

「……どうも。無事に出られたようですね、安心しました」

 少年は手を差し伸べ、私の上半身を引っ張り起こすと……自分も膝を曲げて、その場にしゃがみ込んだ。自然と、視線の位置は同じ高さになっている。

 少年の番傘は、この激しい雨の中、優しく私を守ってくれていた。……けれど、今は素直に喜ぶ事が出来ない。

「貴女は、何がそんなに悲しいのです?」

 狐面の少年が、いきなり私に問いかけてきた。

「先程から上の方で見ておりましたが……いやはや、貴女の行動はどうも私には理解し難い。貴女が悲しもうが苦しもうが、事実は事実。何も変わりはしない。ならば、悲しむ必要も苦しむ必要もないのでは? こうやってここで過ごしている時間も、とても無駄なものでしかない」

「何言ってるのよ……⁉ 勝手な事言わないでよ! 本当は貴方が……貴方が彼を、あの世界に閉じ込めているんじゃないの?」

「私が、ですか? ……成る程、成る程。しかし、残念ながらそうではありません。彼があの地に残るという事は、五年も前から決まっていた事。今まで恩恵を受けていた事が、本来なら有り得ない事なのですよ」

「そんなの関係ない!」

 私は神童を思いっきり睨みつけた。数センチ先で私を見る神童は、無言で圧力をかけているかのように思えた。

 けれど、私はその圧力に屈しないくらいの強い口調で、神童に言い放つ。

「彼を、カズトくんを返してよ!」

 すると……今まで口を閉じ、静かに聞いていただけの神童がゆっくりと口を開いた。

「無理です。これは、彼が望んだ事ですので」

「じゃあ……私をもう一度、あの世界に連れていって!」

「駄目です。貴女にはその資格がない。そして私自身、もう貴女にはあまり立ち入って欲しくないのですよ」

「どうして⁉ 貴方は出入り口を創り出す事が出来るんでしょ? 出してよ!」

「嫌です。面倒臭いので」

 感情的に話す私に対し、淡々と返す神童。話は常に平行線を辿り、一向に糸口を掴めない。

 やがて神童はキリがないと思ったのか、『はぁ』と溜息を吐きながら、面倒臭そうに重い口を開いた。

「何度も言いますが、彼は望んであの世界にやって来たのですよ? 貴女が関与出来る事ではないのです。貴女の言っている事は所謂、逆恨みというものですよ」

「望んでやって来ただなんて、そんな事……何故、貴方にわかるの?」

「はて? それはどういう事でしょうか?」

「……何か、何か理由があったのかもしれないでしょう⁉」

「……成る程」

 神童は、クスクスと柔らかく笑う。

 笑う度に揺れる、腰にぶら下がっている鈴は……激しい雨の中だというのに、まるで意思を持つかのように、強く、美しい音を鳴らした。

「そうだとしても、それが何か? 貴女には【それ】を知る事が出来ない。何故ならば、貴女はとても浅はかだから」

 神童は優しい物言いで私の目をじっと見つめると、そうはっきりと言い放った。

「貴女には真実を見極める目もなく、己の信じたものを決して疑わないという信念すら持ち合わせていない。……非常に幼稚で小さな人間だ。貴女という人間は、まるで思い通りにならないと泣き喚いて怒る子供のようです」

 私は何も言い返す事が出来なかった。全て、目の前にいる小さな少年の言う通りだったから。

 ……悔しいけど、彼は正しい。

「とにかく今の貴女は、あの世界に行く事は出来ない。……早急にお引取りを。こちらも少々忙しいのですよ。ずっと探していたモノの【二つ】が、ようやく見つかったようでしてね」

 目の前の狐面が怪しく笑っている。恐ろしく不気味に……そして、奇妙に。

 二つのモノとはきっと、【ガンさん】と【眩く光り輝く杖のような棒】の事であろう。

 それは、最後に聞いたカズトくんの言葉で容易に想像出来た。

 神童はガンさんに会って、何をするつもりなのだろうか?

 笑う狐面の下に隠された表情は私にはわからないが、やはり中身も狐面と同じように、怪しげに笑っているのだろうか?

 それとも………


「……ねぇ神童? 貴方さっき、【今の私】はあの世界に行く事が出来ないって……そう言ったわよね?」

「はい、言いましたよ」

「それは……何故?」

「弱くて脆く、一人で立ち上がる事さえ出来ない今の貴女が……もう一度あの世界に戻って、一体何が出来ると言うのでしょう。何も変わりませんよね?」

「それは……」

 神童は私の声を遮るように、『しかし……』と言葉を続けた。

「もしも貴女が全てを知り、それでも彼に会いたいという覚悟があるのなら、どんな困難にも打ち勝てるだけの強さを身につけたのなら……話は別ですが」

 神童は立ち上がり、再び私を見下ろす。背景の番傘が色鮮やかに私達を覆い隠し、狐面のそれと、とても似合って見えた。

「しかし、それには時間が必要です」

「時間って……どのくらい?」

 神童は顎に手を添え、『うむぅ』と考える。そしていきなり、予想だにしなかった質問を私に向かって投げかけてきた。


「貴女と彼の年の差は?」

「え? 私とカズトくんの年齢差? ……五つだけど、それが何か?」

「では、五年にしましょう。貴女に扉を開けて差し上げるのは、五年後です。……貴女が、今の彼と同じ年になった時ですね」

「五年後⁉」

「はい、五年後です。それと貴女、あの世界の物を持っていますね?」

「あの世界の……物?」

 その言葉で私はハッと思い出した。カズトくんから貰った、琥珀色に輝く石の事を。

「そう、その石の事ですよ」

 神童は人の思考を読む事が出来るのだろうか? しかし、優しいトーンで話すその声に……私は何だか安堵を覚えた。

「……五年後、必ずその石も忘れずにここに持ってきてくださいね?」

「この石を……?」

「はい。五年後、私はそれを依り代に再び道を創る事を約束しましょう。言っておきますが、私は一度決めたら必ず約束は守ります」

「……神童」

「それと、勘違いしないで欲しいのですが、私はたとえその石が手元になくとも、道を創り出す事など容易い事です。しかし、私は五年後……貴女がもしその石を持ってこなかったら、決してあの世界への道は出しません。何があっても。……何故だかわかりますか? それが私と貴女の【約束】だからです。貴女が五年後、その石を覚悟として、必ずもう一度ここに現れると言うのなら……私はその日を楽しみに待ちましょう」

「……わかった、約束」

 私は座ったまま、神童に向かってそっと小指を差し出した。神童は腰を屈めて、小指をじっと見つめた。

「……何ですか? これ?」

「約束でしょ? 指切りげんまんだよ!」

「あ~……確か人間の古くからの風習ですね。聞いた事があります」

「そう! こうやって小指を絡めてね……」

 私は神童の小指に自分の小指を絡ませると、ゆっくり歌い始めた。


 指切りげんまん

 嘘ついたら針千本

 飲~ます

 指切った


 歌い終わると同時に、私と神童の小指がそっと離れる。

「……本当に、針を千本飲ましても良いのですか?」

「駄目に決まってるでしょ!」

「それなら約束は成立しないではありませんか?」

 神童はむぅと唸り、『やはり人間はよくわからない』などとブツブツ言っている。きっと、狐面の下では頬っぺがハムスターのように膨らんでいるに違いない。想像すると思わず笑みがこぼれた。

「……あのね、神童? 私は約束を破らない。だから、針なんて飲む必要がないの」

 私は神童に優しく伝える。少年は黙って私を見つめた。

「かりに私がね? 『嘘吐いたら大樹を燃~やす、指切った』って言っても、大樹は燃やされる事はない。だって貴方も約束を守るから。……でしょ?」

 狐面の少年はクスクス楽しそうに、そして面白可笑しそうに笑う。

「この樹は火を使ったところで燃え上がったりはしませんよ、ふふ。……けど、よくわかりました。」

 神童はよほど物珍しかったのか、自分の小指をピンと真っ直ぐ立てたり振ったりと、注意深く観察していた。その姿にとても愛着が湧き、何だか可愛く思えて……私は初めて、神童に対してのイメージを払拭する事が出来たと思えた。


 気付けば、あんなにも降り続けていた雨が嘘のように止んでおり、私の涙もいつしかピタリと止まっていた。

 私には雨が……私の弱い心も醜くて汚い心も、全て一緒に洗い流してくれたように思えた。


 ――もう一度、立ち上がれるように。

 ――もう一度、這い上がれるように、と。


 あんなにも非情だと思っていた雨は、本当はとても優しかったんだね。

 神童はゆっくり番傘を畳むと、私に会釈をした。

「……では、五年後。再びこの場所で」

 狐面の少年は私にそう伝えると、蜃気楼のように揺らめき、陽炎のように舞いながら、そっと消えた。

「ありがとう。樹に宿る小さな神様。……約束は、必ず守ります」

 ふと視線を大樹から地面に向けると、少し離れた樹の陰に、何か落ちているのが見える。私はゆっくりとその樹に近付いてみた。

「これは……」

 それは一冊の手帳だった。私は、この手帳に見覚えがある。

 ここに向かう列車の中、一度だけカズトくんが鞄から取り出して見ていたのを覚えている。……これは、カズトくんの手帳だ。

「何でこんなところに……」

 私はそっと手帳を手に取った。

 手帳は、あの激しい雨の中に晒されていたというのに、あまり濡れていなく……比較的綺麗な状態だった。

 この樹が、雨から手帳を守ってくれたのか?

 それとも……?

 私はギュッと手帳を抱きしめた。

「カズトくん。私、きっと……きっと戻ってくるから! だからその時まで……待っていてください」

 その日が来るまで……貴方があの黄昏の街で、笑顔で明るく、幸せに暮らせていますように。


 鳥のさえずりや虫の鳴き声が聞こえ始める。今日も一日が始まるのだ。

 ――急がなくては。

 私には、やらなくてはならない事が沢山ある。立ち止まってる暇なんてないのだ。

 五年といえば長く聞こえるが、案外あっという間なのかもしれない。

 私は気合いを入れる為に、両手でパンっと頬を叩いた。

「……よし! 行くか!」

 緑豊かな森をゆっくりと抜ける。葉が透明の雫をポタリと地面に落としていくが、私からはもう……透明な雫は流れ落ちない。


 強い決意と

 全てを知る覚悟と

 微かな希望を胸に抱いて……


 前へ

 前へ


 ――進め。

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