4-8 美貌の呪い

「もう噂になってるんですか」


 蝶乃宮さんが諦めたような顔で苦笑を浮かべる。それは事実だと認めたようなものだ。こわばる俺の顔を見て蝶乃宮さんは慌てた様子で次の言葉を発した。


「大丈夫ですよ。対処したので。いきなりなくなるってことはないです」


 予想外の言葉に俺は唖然とする。対処するべく動き回っているだろうとは思っていたが、もう終わったと言われると驚きだ。一体いつの間にという気持ちと、どうやってという疑問がわく。

 坂本さんの話を聞く前であったら何の疑問も持たずにいられた。蝶乃宮さんは俺よりもよほど頭がよく、機転が利く人だからうまく対処したのだろう。そう深く考えなかったはずだ。そのために蝶乃宮さんが一体何を差し出したのかなんて想像もせず。


「……一体、どうやったんだ?」


 寝たのか? とはさすがに聞けなかった。それでも蝶乃宮さんの顔を見ることが出来なかった。その顔に動揺が走る姿を見るのが絶えられなかった。

 しばしの沈黙。それがやけに体にのしかかる。顔をそらしたせいで蝶乃宮さんがどんな顔をしているのか見えない。それがこれほどまでにしんどいとは思わなかった。


「……もしかして、私の噂聞いてしまいましたか?」


 震えを無理矢理押し殺したような声に俺の肩が跳ねた。声に誘われるように俺は蝶乃宮さんへと顔を向ける。視線をそらしたままではダメだと俺の中の何かが訴えた。その訴えは正しかったのだと悲しそうな顔をした蝶乃宮さんの顔を見て確信する。


「俺は、そんなわけがないと……思っているが……」

「弟の翡翠があんなんですからね、姉の私も同じだと思われることは今までもありました」

「翡翠のことは蝶乃宮さんに関係ないだろ!」


 とっさに大声が出た。翡翠の貞操観念がぶっ壊れているからといって姉である蝶乃宮さんが同じなわけがない。姉弟といえど別の人間なのだから。

 そんなバカなことを言う奴がいるのかと驚いて蝶乃宮さんを凝視すると、蝶乃宮さんは驚きに目を見開いてからふふっと笑った。先ほどの泣き出しそうな顔にすると自然な笑みに俺のこわばっていた体が少し息を吹き返す。


「えぇ、翡翠はあんなですけど私は無理です。むしろ翡翠のおかげでそういう輩に絡まれたので身持ちは堅い方だと思います」

「苦労しすぎだろ……」


 翡翠の奴はどれだけ姉に迷惑をかけているのか自覚しているのだろうかと考えて、自覚してないだろうなとすぐに結論が出た。お前のせいで苦労していると言ったところで、「じゃあ、俺のことを見捨てればいいよ」とさらっというのだ。そして本当に見捨てられても気にしない。放り出された翡翠を養いたいという人間はたくさんいるだろうし、翡翠はどんな相手に拾われて、何をされようとも気にしない。もしかしたら自分の生死にすら頓着がないのかもしれない。

 そんな弟をまっとうな人間と同じように生きさせたいと望む姉の気持ちなど、翡翠には一生分からない。だが、それは翡翠が悪いわけではない。翡翠はそのように生まれてしまった。人を魅了する美しさを与えられる代わりに感情というものが大きく欠けてしまった。


「病院の必要性を懇切丁寧に説明して、正しい形で支援を頂けるように契約を結んで頂きました。今日は懇親会のようなものに出席しただけです。四谷さんが心配するようなことは一切ありません」

「それは……良かった」


 心底安心した結果、思わず俺は頭を抱えて大きく息を吐き出した。自分でも大げさ過ぎると思ったが、どうにも感情を抑えきれなかった。昼間に話を聞いてからというものずっと気になって、今園さんどころか長谷川にまで心配されたほど俺はまいっていたのだ。


「両親にいただいた美貌が多少プラスに作用したとは思いますけど、蝶乃宮病院の医院長として不誠実な真似は一切していませんよ」

「蝶乃宮さんの場合は多少ではなく大きく作用してるだろ」

「あら、四谷さんも私の容姿を良く思ってくれているんですね」


 冗談のような軽口が耳に入ってきて、俺は自分の言った言葉を反芻し、慌てて否定しようと顔を上げた。自分でも分かるほど俺の顔は熱い。きっとみっともなく真っ赤になっているだろうが、蝶乃宮さんはそんな俺の様子を見ておかしそうに笑う。


「大丈夫です。私、自分の容姿が人より秀でていることは自覚しています。これをいうと嫌味だと言われますが、客観的事実ですから」

「……あなたの場合、自分の容姿を否定した方が嫌味だと思う」

「それも言われたことあります」


 蝶乃宮さんは困ったように笑った。きっと見た目に対して俺が思うよりも多くのことを言われてきたのだろう。良い事も、悪い事も、とにかく沢山。

 そう思うと、今回の下品な噂も嫉妬からの根の葉もないものだったのかもしれない。


「誰が言い出したんだか、枕営業してるなんて失礼にもほどがあるだろうが」


 ブツブツと文句を言い、ビールを飲む勢いでココアを一気飲みした。口の中に広がる甘さに先ほどまで感じていた旨みはなく、甘ったるさに吐き気を覚える。俺の体が現金なもので、不安が解消された途端、弱さを包む甘さはいらなくなったらしい。

 甘さにしばし苦しんでいると蝶乃宮さんがポツリとつぶやいた。小さすぎる声はうまく聞き取れず、俺は蝶乃宮さんの方へと顔を向ける。

 座る俺を見下ろす蝶乃宮さんは迷子の子供のような顔をしていた。


「本当にどうにもならなくなったら、最終手段として考えてたって言ったら失望しますか?」

「は?」


 手からマグカップが滑り落ちた。ガシャンと不快な音が響いたが、その行くすえを確認する余裕がなかった。固まる俺の前で、蝶乃宮さんは泣き出しそうな顔を無理矢理笑みの形にしようとして、失敗した。ぎゅっとジャケットの裾を握りしめ、蝶乃宮さんは下を向く。

 視界の端に手を付けられていない蝶乃宮さんのマグカップが映り込む。


「嫌ですよ。嫌だけど、それしか手段がなかったら、そうしないとこの病院が護れないなら、やるしかないんじゃないかって」


 ついにはしゃがみこんだ蝶乃宮さんに俺は慌てて立ち上がり、蝶乃宮さんの前に膝をついた。顔をのぞき込もうとして止める。肩に触れようとした手は不自然な場所で止まり、最終的には俺の膝の上で落ち着いた。

 小さく震える体を抱きしめる権利が自分にあるとは思えなかった。


「誰かに言われたのか?」

「そうすればお金の心配はしなくていいとは言われました」

 思わず舌打ちが漏れる。どこにでもクズはいるらしい。


「そんなクズ野郎の言うことを聞く前に、俺や今園さんに相談しろ。一緒に考えるから」

「考えても、それでもダメだったらどうするんですか。今回はうまくいきましたけど、次うまくいかなかったら……」


 震える声でそういって蝶乃宮さんは自分の体を抱きしめた。自分の体を守るように丸くなり、蝶乃宮さんは下を向く。無防備にうなじがさらされ、動いたことで乱れた長い髪が一筋落ちる。

 その姿は多くの人にとって魅力的にうつるだろう。しかし俺には、こんな時ですら異性を魅了する蝶乃宮さんの姿がただ哀れに思えて仕方がなかった。深い悲しみも恐怖も、他人にはただ美しさとして伝えられる。彼女の悲鳴は一切届かない。


「私がなんとかしなくちゃ、翡翠は……」


 そういって震える蝶乃宮さんの隣に俺はただ寄り添うことしか出来なかった。触れてしまったら、蝶乃宮さんが守ろうとする大事なものを壊してしまいそうな気がした。

 大丈夫だと声をかけながら、俺は今園さんに連絡する。蝶乃宮さんに必要なのは彼女に恋い焦がれる俺ではなく、友人として彼女に寄り添える存在だ。


 不安から解消されたためか、時折漏れる嗚咽を聞きながら俺は蝶乃宮さんのデスクに置かれた写真を見つめた。

 両親の間で笑う幼い蝶乃宮さん、母親と翡翠と蝶乃宮さんの三人で映った写真の二枚。それは写真立てに入れられデスクの見える場所にいつも並んで置かれている。

 両親を早くになくした蝶乃宮さんにとって翡翠は唯一の家族。蝶乃宮さんにとって守るべき弟。その弟に大きな欠陥があろうとも。


 いや、あるいは……。

 泣き続ける蝶乃宮さんを見ながら考える。もしかしたら翡翠の方が蝶乃宮の人間として正しいのかもしれない。

 人を魅了することで繁栄してきた一族。その容姿から多くの富を得ながら、同時に多くの情に振り回されてきたであろう一族。翡翠の魅了は蝶乃宮さんとは違い、異性だけにとどまらない。まとな精神をしていたら耐えられなかったに違いない。

 そうなると翡翠の欠陥は生きるために必要なものだったのだ。


 ならば、人間らしい感情を持って生まれてしまった蝶乃宮さんはどうなるのだろう。これから先も苦しみ、一人で恐怖に震え続けなければいけないのだろうか。


 伸ばしそうになる手を引っ込めて、俺は「大丈夫。すぐに今園さんが来てくれる」と繰り返した。

 俺が支えになるからとは言えなかった。その言葉が彼女を苦しめた他の奴らとは違うと断言できなくて、口に出すことが出来なかった。


 彼女を幸せにしたい。守りたいというこの感情が俺の本心なのか、彼女に魅了される他の害虫たちと同じく、甘い蜜に引き寄せられただけなのか、俺は未だに確証が持てない。

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