4-2 温室の蝶

 蝶乃宮家は代々蝶を愛する一族なのだという。世界各地から蝶の標本を集め、蝶にまつわる文献を買いあさり、しまいには蝶を飼育する温室、研究する施設を創りあげた。そんな蝶好きの一族に蝶をこよなく愛する男が婿入りしたのは必然ともいえる。蝶を愛する一族は蝶を愛する男を迎え入れ、蝶乃宮一族が造りあげた蝶乃宮研究所の管理を任せた。

 しかし男は海外に珍しい蝶を探しに行ったきり行方不明になり、研究所の権利は妻に渡った。その妻も夫を亡くした悲しみからか若くしてこの世をさり、研究所の権利は長女に移る。

 

 両親と一族の意志を継ぎ、ひっそりと蝶の研究を続けていた娘はある日クピド症候群という奇病の存在を知った。その当時、国は奇病解明のために人体に詳しいものと蝶に詳しいものを探しており、娘は蝶の研究者として名乗りを上げ、自身が引き継いだ施設と土地を病院として提供することを申し出た。


 そうしてできあがったのが蝶乃宮病院、通称クピドの虫籠。

 病院とするために元々あった施設に病院棟が増築され、蝶のための温室も集められた蔵書と標本も丁寧に保管されている。貴重な資料と蝶を護るため、患者の出入りは禁止されているが、一部のスタッフは研究所棟への出入りが許されていた。

 その一部のスタッフに俺は入っている。蝶乃宮さんから信頼されていると思えば気分もよいが、放っておくと人間らしい生活を投げ捨てる面倒くさい奴の世話係という役割が大きいことは自覚している。


 村瀬さんの診断を終えた俺はまっすぐに蝶の温室へ向かって歩いていた。今日は天気がいい。蝶の羽根は日光を好むため患者は仕方なしに日光浴をする。それに比べてアイツは好んで日光を浴びるため、天気が良い日は九割蝶の温室にいる。生来のマイペースな性格故なのか、背中に生えた蝶の羽根故なのかは分からないが探す手間が省けるのはいい。


 自動ドアが開くと熱気が肌にまとわりついてきた。暑さのピークは越えたとはいえまだ暑い時期だ。蝶のため太陽光が降り注ぐように設計された温室が涼しいはずがなく、よくもまあこんなところで寝られるものだと毎回感心する。

 汗を拭いながら蝶のために用意された水辺や木々、花たちを抜けて進んでいくと大きな木につるされたハンモックで寝ている人物にたどり着く。うつ伏せで眠る男の背にあるのは大きな虹色の翅。光が当たると複雑に色を変える翅は芸術に疎い俺でも美しいと思う。


 だらりとハンモックから投げ出された腕は白い。一日中日差しを浴び続けるような生活をしているくせに赤くなることも黒くなることもない。性別は同じ男のはずだがその肌は陶器のようになめらかだ。人によっては羨ましいと思うであろう特徴も人間らしさの欠如のように思えるのは、俺がこの男に複雑な心境を抱いているからだろうか。


「翡翠、お前またやったな」


 ずかずかと近づくと翡翠に群がっていた蝶が一斉に飛び立った。文句をいうように俺の顔すれすれを飛んでいく蝶もいたが知るかという気持ちである。四六時中翡翠はここにいるのだからその時間が少し減ったくらいで文句を言うな。


 翡翠は俺の声に反応して閉じていた瞳をゆっくりと開く。長い睫が揺れ、黒い瞳が現れる。平均的な日本人と同じ瞳。そのはずなのに翡翠の瞳は宝石のように煌めいて見える。美の化身とはこういう奴をいうのだろうが、俺は見た目の美しさが台無しになるほどぐうたらな性格だと知っているので寝ぼけてぼーっとしているだけだと分かっている。


「あー四谷だ。おはよー」


 翡翠は気の抜けた顔で笑う。俺からすると間抜け面だが人によっては心臓が止まるほどの威力を発揮するらしい。そこまで来るともはや怖い。翡翠からは奇妙なフェロモンか何かが出ているのかもしれないと最近本気で考えている。そうでなければ男も女も関係なしに一目あっただけで魅了できないだろう。背に生えている翅の鱗粉に媚薬効果があるとしても俺は驚かない。


「村瀬直、知ってるだろ」


 ぐぅっと背伸びをしてからふわぁと大きな口を開けてあくびをする翡翠に話しかける。寝ぼけていて言葉の意味が飲み込めなかったのか、少しの間を開けてから翡翠は「あー」と気の抜けた声を出した。

 

「村瀬ね。最近よく遊びにきてくれるんだ。今いる患者の話とか前の学校の話とか色々聞かせてくれるんだよ」

 

 にこにこと子供みたいに無邪気な顔で翡翠は笑う。一切邪気のない姿を見て俺はため息をついた。

 いや、実際翡翠に悪気はない。人を誘惑しようなんて微塵も思っていない。翡翠を見た人間が勝手に魅了されて、翡翠の特別になろうと必死になるだけだ。その頻度が異常すぎて困るというだけで。


「お前、不用意に触らせてないよな?」

「話してるだけだよ」


 ハンモックの上に座り、ぶらぶらと足を揺らしながら翡翠は笑う。体は成人した男だが仕草が子供のようだ。こういう無垢な部分も人を惹きつけてしまうのだろう。頭が痛いことである。


「何回も言っているが不用意に触られたら逃げろ。拒否しろ。この変態野郎って罵れ」

「何回言われてると思ってるの、分かってるよ」


 そういって翡翠は笑うが分かっていないから言っているのである。口ではこういっているが翡翠は拒否しない。女に押し倒された現場も男に押さえ付けられた現場も見飽きた。何度襲われても本人に危機感がないのが一番の問題だ。


「村瀬はまだ高校生だ。お前はもう少し大人って自覚を持て」

「っていわれても、俺は中学も卒業してないし高校にも行ってない。年齢だけは成人したけど社会経験でいったら村瀬の方が上だよ」


 翡翠はぷらぷらと足を揺らしながら首を傾げた。

 翡翠は蝶乃宮病院が出来た当初からいる患者の一人である。十年間、病院から一切出られなかった患者。そして今後も出ることはない。

 蝶乃宮翡翠には恋愛感情というものが欠落している。それが入院してから今までの翡翠の言動を観察、カウンセリングしたうえでの結論だ。


「どんなに退屈でも約束通り病院には入っていない。立入禁止区域を散歩してる時に偶然会っちゃうのは仕方ないでしょ。俺だって姉さんと四谷以外の話し相手が欲しいよ。蝶は可愛いけど、俺は人間だからついていけない話も多いし」


 そういって右手を挙げた翡翠の指に蝶が止まる。この温室で飼育しているという希少種だったと思うが蝶に詳しくない俺には種類は分からない。しかしながら、蝶が当然のように人の指にとまらないことは知っている。


 翡翠は蝶に愛されている。蝶の気持ちが分かると初めて聞いた時は頭がおかしいと思ったが今ではそれが嘘ではないと認めている。翡翠の声に反応して蝶が集まるところだって何度も見ているのだ。あれを偶然という方が苦しい。

 蝶乃宮一族は蝶を愛する一族だ。一族の記録を遡れば蝶と会話出来た人間がいたという嘘のような記録も残っていた。翡翠を見ているとあながち嘘とも言い切れない。


「四谷も姉さんも俺には人目のつかないところで大人しくしていて欲しいのは分かってるけどね、俺だって寂しいんだよ」


 翡翠の手から離れた蝶が俺の顔まで近づいてきた。正面でひらりひらりと揺れる蝶は俺に対して怒っているようにも見える。翡翠を悲しませるなと。


「そういうなら、幼気な子供をかどわかすな。期待させるな。押し倒されたら拒否しろ」

「俺は拒否してるつもりなんだけどなあ。姉さんと四谷に怒られるって」

「それは拒否に入ってないんだよ!」


 力一杯怒鳴ると翡翠は不思議そうに首をかしげた。その姿が本当に無垢な子供のようで嫌になる。純潔なんてとっくの昔に奪われているだろうに。いくら身勝手な欲望にさらされ、汚されても美しいまま。その神秘性に人は魅了されてしまうのだろうか。


 俺は人間離れしたその姿が恐ろしくて仕方がないというのに。

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