大日本帝国航空機まとめ

艦本式

海軍機

九六式艦上戦闘機(九六艦戦)

Mitsubishi A5m



用途:戦闘機

分類:艦上戦闘機

設計者:堀越二郎

製造者:三菱航空機(のち三菱重工業)

運用者:大日本帝国海軍

初飛行:1935年2月4日

生産数:1,094機

生産開始:1936年

退役:1945年

運用状況:退役



(最大速度は計測高度によって変わります)

【九六式四号艦上戦闘機】

全長 7.565m

全幅 11.000m

全高 3.237m

主翼面積 16.000㎡

自重 1,216kg

航続距離 1,200km

発動機 空冷星型9気筒「寿四一型」(中島)

馬力 680馬力

最大速度 435km/h

武装 

7.7mm機銃 2挺(胴体)

30kg爆弾 2発

符号 A5M4

連コードネーム Claude(クロード)

製造 三菱重工業

設計者 堀越二郎



(その他の型式)

【九試単座戦闘機】(製作機数6機)

全長 7.670m

全幅 11.000m

全高 3.265m

主翼面積 16.000㎡

重量 1,037.9kg

航続距離 ???

発動機 空冷星型9気筒「寿五型」(中島)

馬力 600馬力

最大速度 451km/h

武装 7.7mm機銃 2挺(胴体)

符号 カ-14



【九六式一号艦上戦闘機】(三菱航空機で30機生産)

全長 7.710m

全幅 11.000m

全高 3.200m

主翼面積 16.000㎡

重量 1,075kg

航続距離 1200km

発動機 空冷星型9気筒「寿二型改一」(中島)

馬力 460馬力

最大速度 406km/h

武装 7.7mm機銃 2挺(胴体)

30kg爆弾 2発 または50kg爆弾 1発

符号 A5M1


【九六式一号艦上戦闘機改】(A5M1a)

二号一型の主翼にエリコンFF型20mm機関砲を各1門ずつ装備した実験機



【九六式二号艦上戦闘機一型】

全長 7.545m

全幅 11.000m

全高 3.200m

主翼面積 16.000㎡

重量 1,109.5kg

航続距離 ???

発動機 空冷星型9気筒「寿三型」(中島)

馬力 600馬力

最大速度 426km/h

武装 7.7mm機銃 2挺(胴体)

符号 A5M2a


【九六式二号二型艦上戦闘機】(A5M2b)

発動機の過冷防止、風圧に対する操縦者保護のため、胴体を太くしてカウルフラップ、および密閉式風防を取り付けた。しかしこれが視界不良とされ、後期生産型では風防は取り外されて代わりに操縦者保護のため背びれを高くした。二号一型、二型併せて39機を三菱で生産



【九六式三号艦上戦闘機】(実験機で2機製作された)

全長 8.377m

全幅 11.000m

全高 3.095m

主翼面積 16.000㎡

重量 1,075kg

航続距離 ???

発動機 水冷V型12気筒「L式12Xcrs」(イスパノ・スイザ)

馬力 610馬力

最大速度 ???

武装 モーターカノン20mm機関砲 1門(胴体)

符号 A5M3a



【二式練習用戦闘機】(生産数は渡辺で4機、二十一空廠で20機の合計24機)

九六式艦戦を複座化した練習機

全長 7.76m

全幅 11.0m

全高 2.90m

エンジン 中島 寿四型 空冷星型9気筒エンジン 785hp×1

最大速度 378km/h

航続距離 709km 

乗員 2 名

武装 7.7 mm機銃 1~2挺

符号 A5M4-K




【艦載機初の全金属製単葉機 真珠湾攻撃主導の実力者を唸らせた傑作機】


ライト兄弟が開発に成功した飛行機。

第一次世界大戦時以後、急速に研究が進んだこの世紀の大発明は、1930年代からは複葉機(両翼に羽が2枚ずつ)から単葉機(両翼に羽が1枚ずつ。現在の一般的な形状)への切り替えが世界各国で始まっていました。


まず、ライト兄弟が開発した「ライトフライヤー号」がなぜ複葉機を採用したかというと、飛行機はなによりも陸から空へ飛び立たなければなりません。

そのためにはできるだけ軽量、かつ強度を保てるもの、そしてなによりも空気力学による揚力を増やすことができる複葉機が最も効率的だったとされたのです。


複葉機はワイヤーで翼をつなぎとめるため、抵抗がありました。

やはり飛行機の研究が進むと求められるのは速度ですので、その速度向上のために多くの人材と資金がかけられるようになります。

その結果生まれたのが、空気力学・航空力学の進歩、軽くて強固な金属の開発、エンジンシステムの向上など。

これらを組み合わせてより速度のある飛行機として誕生したのが、金属製の単葉機です。


船に関しては世界と比肩できるほどの力を誇示していた帝国海軍ですが、航空機と陸軍の戦車に関しては世界とは大きな溝がありました。

空母運用には安定性のある複葉機のほうが扱いがよかったので、積極的な開発に踏み切れていなかったのです。

しかし世界との差は開く一方で、一世代前の複葉機である「九五式艦上戦闘機」はいまだ350km/hほどでした。

そして昭和10年/1935年、ようやく帝国海軍も全金属製単葉機の開発に成功します。

それがこの「九六式艦上戦闘機」です。


1933年から1934年にかけて、欧米各国では軍用・民間用を問わず 単葉の高速機が順次開発されていた。しかし海軍では航空母艦への着艦と空戦時の旋回性を重視し、単葉への切り替えが遅れていた。1935年に制式採用された九五式艦上戦闘機も複葉で、速度は352km/時という低速であった。この性能では将来の戦闘は戦えないと判断した海軍当局は、1934年の次期艦上戦闘機の設計に際し九試単座戦闘機として、あえて艦上機としての性能を要求せず、近代的高速機を求めた。1934年(昭和9年)、三菱航空機と中島飛行機の両社に試作指示が出された。海軍からの性能要求は以下の通り。



最高速度: 高度3000 m付近で190 kt (352 km/h)以上

上昇力: 高度5000 mまで6分30秒以内

燃料搭載量: 200 L以上

兵装: 7.7 mm機銃×2 無線機は受信機のみ

寸法制限: 幅11 m以内 長さ8 m以内



陸軍にはすでに単葉機として「キ11試作機」を中島飛行機が製作しており(不採用)、海軍の要求でも中島飛行機は「キ11試作機」をベースとして設計。

一方三菱重工業はゼロベースから単葉機を開発し、その結果は圧倒的な差となって海軍に届けられます。

もともと海軍が両社に求めたスペックの中で、速度に関しては「九五式艦上戦闘機」と同等の約350km/h(高度3,000m)で、初の単葉機ということもあってか無茶な要求とはいえませんでした(その他もとにかく「単葉機・速度・上昇力」に絞った要求で、多くを追求しないようにしていました)。

ところがそれに準じたスペックである中島の航空機に対し、三菱の「九試単座戦闘機」はなんと432km/h(高度3,160m)と100kmほど要求を上回っていました。


あまりに異常な数字だったため、海軍はこの数字に疑念をもたざるを得ませんでした。

提出前のテスト飛行は岐阜の各務原で行われたのですが、「各務原は空気の密度が小さいからそんなに速いんだろ」という冗談も言われていたそうです。


さて海軍の評価はどうかと、後の第一機動部隊航空参謀である源田実が横須賀でテスト飛行を行いました。

源田実は太平洋戦争の火蓋を切って落とした、あの「真珠湾攻撃」の立案者でもあります。

源田実は実際に操縦桿を握って「九試単座戦闘機」を操った結果、「速度・上昇力ともに優れている」としながらも、「射撃性能、着艦性、舵については問題があると思われる」という評価を下しています。


これにより、翌日には模擬空戦が行われることになりました。

スペックは確かに大事ですが、乗るのは技術者ではなくパイロットですので、この模擬空戦は大変重要なものでした。

その結果、源田実は新兵器である「九試単座戦闘機」に太鼓判を押します。

速度は言わずもがな、運動性についても複葉機に劣らない力を持っているとし、完全上位互換として「九試単座戦闘機」は認められたのです。

この経験から源田実は三菱と設計者の堀越二郎にお詫びを入れるとともに、熱心に支持をするようになりました。


「九試単座戦闘機」は以後の航空機開発の輝く原石となり、様々な形で磨き上げられていくことになります。


余談ですが、「九六式艦上戦闘機」で完敗した中島は、陸軍での「九七式戦闘機」で再び三菱と競合。

三菱はこの「九試単座戦闘機」をベースにした試作機「キ33」を提出しましたが、今度は中島が「キ27」でこれを挽回。

陸上機は中島製のものが採用され、大きな戦果を残しています。




【脱欧米 新規採用満載の日本路線を切り開く】


「九試単座戦闘機」、のちの「九六式艦上戦闘機」は、複葉機から単葉機へと移行しただけでなく、様々なアイディアが盛り込まれた、大きな意味での試作機とも捉えられる存在でした。

まずは沈頭鋲の採用です。

いわゆる皿リベット打ちのことで、機体を固定するために打ち込むリベットの頭が飛び出ないようにしています。

飛行機の天敵は空気抵抗ですが、速度が速ければ速いほど、ほんの数mmの凹凸が速度や安定性を大きく削ぎ落とします。

皿リベットはその凸をなくすために採用されました。

打ち込む際には金属板もその皿の厚み分だけ凹みますから、実質的に平面になるように工夫されました。


続いて両翼の厚みを増加させています。

これまでは張り線を利用した薄い翼だったのですが、空気抵抗を少なくさせるためにはその張り線を除外しないといけなかったため、翼の形状を変更したうえで厚みを増したものを採用しました。


そしてこれも画期的だったのが「捩り下げ(捻り下げ)」という翼の形状でした。

翼の仰角(むかえかく)は今までは翼端まで行くに連れて徐々に大きくなっていましたが、これだとある一定以上の速度が出た時や、急激な上昇時に翼端失速を起こして安定性が損なわれるという危険がありました。

もしこれが空戦中に起こってしまうとたまったものではありません、死に直結します。

この空気の流れをうまく受け流すため、この迎角を途中で下向きに変え、翼端に行くに従って逆に小さくしていくようにしました。

これが途中で翼を捻っているような形状のため、「捩り下げ」と呼ばれました。

揚力を得るには迎角は必要ですが、かと言って翼端の迎角が大きいと失速の原因になるので解決しなければならない。

その2つを両方叶える手法となります。

このあたりは航空力学に関することなので、申し訳ございませんが詳しくはお調べいただければ助かります。


この他にも油圧フラップの採用や増設燃料タンクの搭載など、あらゆる試みがなされた「九試単座戦闘機」ですが、実は実用化までにはもう少し時間がかかりました。

性能は優れてしましたが、試作機製作にあたっての海軍の要求はあくまで「単座戦闘機」だったため、これを「艦上戦闘機」に適したものへと改良をしなければならなかったのです。

エンジンの選定、着艦時のバルーニング(着艦時に跳ね上がる現象)、翼の形状の変更など多岐にわたった改良。

試作開始から3年をかけて、昭和12年/1937年にようやく「九六式艦上戦闘機」のお披露目となりました。


その姿は「九試単座戦闘機」とは随分かけ離れたものとなっていました。

一番わかり易いのが翼の形状です。

「九試単座戦闘機」の試作機1号はは逆ガル翼といい、最初は少し下に向けられた翼が、途中で折れ曲がって上向きになっているのですが、2号からは通常の翼状へと変更になっています。

実質的に九六艦戦の原型となったのは逆ガル翼を廃した試作2号機であり、日本で初めて全面的に沈頭鋲を採用した機体でもあります。


日華事変初期の渡洋爆撃における大被害に対して、九六式一号艦戦を搭載した空母加賀を上海方面へ派遣した。1937年(昭和12年)9月4日、加賀飛行分隊長 中島正海軍大尉指揮の九六式艦戦2機によるカーチスホーク3機撃墜が96式艦戦の初戦果となった。9月10日上海近郊の公大飛行場への渡洋爆撃を足掛かりに同年中には南京方面の中国空軍を駆逐するに至りました。

この過程で、海陸の作戦における広域制空権確保の重要性を目の当たりにした一方で、九六式艦戦の行動半径400kmを超える重慶他の中国奥地への長距離爆撃行を邀撃戦闘機による被害を甘受して強行せざるを得ない局面となった結果、後継機の零式艦上戦闘機に更なる航続距離を求めることとなりました。


太平洋戦争序盤1942年(昭和17年)までは、後継機である零戦の配備が間に合わず、鳳翔・龍驤・祥鳳・瑞鳳・大鷹の各空母、および内南洋や後方の基地航空隊に配備されてました。

日本海軍では国産機だけでなく外国からの輸入も検討しており、単葉の高速機であるHe 112を少数購入して中国戦線へ送る予定でした。

しかし速度性能は非常に優れているが上昇力や運動性は九六戦に劣ると判断し導入を見送ってるようです。


最も多く造られたのは、スペックで紹介している「九六式四号艦上戦闘機」で、約1,000機が製造されました。

時代の流れは早く、太平洋戦争時にはもう旧式となっていましたが、「支那事変(日中戦争)」では中国軍の航空機を圧倒し、あまりにも強すぎるために「九六式艦戦」に戦いを挑む航空機がいなくなってしまったそうです。

同時期に開発された「九六式陸上攻撃機」とともに中国の上空を飛び回った「九六式艦戦」は、太平洋戦争当初は改装空母に搭載されていましたが、昭和17年/1942年末頃からは主に練習機として使われるようになりました。



余談ですが、零式艦上戦闘機の登場によって旧式化した九六式艦上戦闘機は、多くの機体が練習部隊で使用されてました。しかし、単座のままよりも教官が同乗した方が訓練がスムーズに行えることから、海軍は九六式艦上戦闘機を複座化した練習機の開発を1941年に渡辺鉄工所に指示、渡辺鉄工所は1942年6月に試作1号機を完成させました。

試作時の名称は「十五試練習用戦闘機」です。

1942年12月23日、内令兵第93号により、「二式練習戦闘機」として制式採用された。量産は第二十一海軍航空廠で行うことに決定した。しかし、この頃から訓練体系の変更があったことや、より実戦機に近い零式練習用戦闘機の開発が進んでいたことから本機の存在価値は薄れ、1943年には製造中止となったそうです。


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